第2話 雨の土曜の昼下がり その2
雨が降る土曜日の昼下がり、
大樹はつい今しがたまで彼女のことを考えていたばかり。
妄想が実体化したかの如き非現実感に囚われて、指一本動かすことすらできなくなっていた。
「いらっしゃい、綾乃ちゃん。……ほら、大樹くん、席にご案内して」
老店主の渋い声に背中を押されて、ようやく我に返った。
身体を縛っていた不可視の鎖も消え去った。
「大樹くん」
「あ、はい」
店内に客はおらず『お好きな席にどうぞ』と言っても問題はなさそうな状況だが……そうはならなかった。
軽く息を吐いて足を踏み出す。
ゆっくり、落ち着いて。醜態をさらさないように。
でも、雨の中を来てくれた客を――綾乃を待たせないように。
平静を装って近づくと、綾乃が軽く髪をかき上げてそっと会釈した。
その仕草に一瞬ドキッとさせられたが、角度がズレていた。
綾乃が頭を下げたのは大樹ではなくマスターだった。
「……こちらにどうぞ」
綾乃を伴って店の奥の席に座らせる。
外からは死角になっている特別な席だ。
背中に声のない笑みを感じた。マスターだ。
「水とメニューをお持ちしますので、少々……」
「あ、ブレンドひとつお願いします」
「承りました」
カウンターに戻って店主に『ブレンドひとつ』と伝えると、白髪をきれいに整えた老紳士は顔に苦笑を張り付けたまま『砕けた感じで話していいのに』などと口にする。
「お客様相手にそんなわけにはいきませんよ」
「固いなあ、大樹くんは」
綾乃はこの店の数少ない常連のひとりだ。
……と言っても、彼女がこの店に足を運ぶようになったのは、本人曰く高校生に入ってからのことらしい。
初めて鉢合わせした際には本当に驚いたものだ。
『綾乃……お前、何でこんな店に?』
思わず口走ってから失言だと悟った。
アルバイトの身分で偉そうに言えたことではなかった。
何なら綾乃自身に『こんな店って……アンタ何バカなこと言ってんの?』と叱られた。
――そりゃそうなんだがなぁ……
綾乃の言葉は正論ではあったが、納得できるかというと今でも納得できていない。
表通りの華やかなカフェの方が、今の綾乃にはふさわしいとさえ思っている。
……口に出すと百倍ぐらい反撃されそうなので黙っているが。
『ひとりで静かになりたい時もあるのよ』
『ふぅん』
『あと、たまたまだから。たまたま』
『どっちだよ?』
『うるさい、大樹うるさい』
『はいはい。ま、ゆっくりしていけ』
腑に落ちないものを感じはしたが、問い詰めるのはやめた。
眼前に迫る顔が『それ以上うるさく言ったら怒るから』と語り過ぎていたから。
何はともあれ……以後、綾乃はしばしばこの店を訪れている。
大樹が気に入っているこの店に綾乃が通ってくれるのは単純に喜ばしい。
高校に入ってからふたりで共にする時間が減り気味だったから、余計に嬉しい。
『かわいい子だね。大樹くんの彼女?』
『違います』
お約束の問いを投げかけてきたマスターは、彼女が巷で人気急上昇中のグラビアアイドルであることを知っていた。
それでも、綾乃への態度は他の客とあまり変わらない。
まったく同じでもないのだが……傍からは孫を見守っているような空気を感じる。
学校の生徒や教師が彼女に向ける眼差しとは明らかに異なっていて、そこが大樹にとっては大きな安心材料となっていた。
『大樹くん、綾乃ちゃんと喧嘩したの?』
『してません』
『大樹くん、綾乃ちゃんとは最近どう?』
『何もありませんって』
ただ……なぜ店主が大樹と綾乃との関係に詳しいのか、よくわからなかった。
彼女が『
単純に考えれば、大樹がいないタイミングで綾乃がこの店を訪れてアレコレ話しているということなのだろうか。
彼女はそれほど暇ではないはずなのだが、他に思い当たる経路がない。
とにかく、そんなこんなでマスターは綾乃が店に顔を出すたびに『もっと話をしてきたら』と背中を押してくれる。
その気遣いはありがたかったが……大樹は雇われの身。
たとえ雇用主が自ら勧めてくれているとしても、素直に頷けない。
ましてや、既に社会人として活動している綾乃の前では、なおさら頷けない。
「はい、大樹くん。これ、綾乃ちゃんに」
「……はい」
慣れた手つきでコーヒーを入れた店主の声で我に返る。
コーヒーの傍らには小さなクッキーが添えられていた。
(数少ない)女性客に人気の低カロリーな逸品はマスターが自ら焼き上げたもの。
苦み走ったコーヒーの香りの狭間に、ふんわりと甘やかな匂いが混ざっている。
銀のトレイにコーヒーとクッキーを乗せて、慣れた足取りで綾乃の席に向かう。
――うっ……
息を呑む光景だった。
窓の外には静かに雨が降っていて。
年季が入った木製の席に腰を下ろす綾乃がいる。
艶めくショートボブの黒髪と、最近とみに華やぎを増した顔立ち。
着ている服は露出控えめではあるものの、17歳の伸びやかな肢体も柔らかな身体のラインもまったく隠せていない。
整いすぎた美貌を誇る彼女が読書をしている姿ときたら……ため息しか出ない。
総じて綾乃は店の雰囲気に溶け込んでいて、まるで一枚の絵画を思わせる佇まいがあった。
「お待たせしました」
声をかけると綾乃が顔を上げた。
大樹に向けられる眼差しは穏やかなもので、口元はかすかに笑みを浮かべている。
「ありがと」
テーブルにカップを置くときに、ふと綾乃が手にしていた本に目が行った。
『黛 綾乃』は大樹の知る限り生真面目な勉強家ではあったが、読書の趣味はなかった。
そんな彼女が喫茶店で本を読んでいる。
本人に聞けば怒り出しそうだが、正直なところ意外だった。
「何? 私が本を読んでたら意外?」
「何にも言ってない」
「目が言ってた」
くすっと笑いながら切り返してくるのが、これまた意外だった。
ここは普通カチンとくるタイミングじゃないのか、と。
最近の彼女はめったに人前で怒りを露わにしない。
背後のマスター同様、人格の成熟を感じる。
「ま、まぁ……そう思わなくはない」
「これは……別に深い意味はないの」
「そうなのか?」
「そ。まぁ、仕事と言えば仕事なんだけど」
「え?」
読書が仕事。
聞き間違いかと思った。
思わず変な声が出てしまい、綾乃に睨まれた。
今度は割とマジで怒っている。慌てて咳ばらいをひとつ。
「この小説を原作にしたドラマが放映されるの。その時に『知りませんでした』だと格好がつかないわけ」
「なるほど」
業界で流行っている話題についていけないと肩身が狭い。
切実なのかどうでもいいのか俄かに判断し難い理由だった。
昔の綾乃は『流行なんて何するものぞ』と世間の潮流から顔を背けていたが、芸能人ともなると意地を張ってもいられないということだろうか。
やはり彼女は変わった。
「……な~んて一端の芸能人を気取ってるけど、読んでみたら面白いわね」
今まで読まず嫌いだった自分がカッコ悪い。
コーヒーカップに口をつけ、綾乃は自嘲気味な笑みを浮かべた。
彼女が読んでいたのは教科書に載るような文豪の手による小難しい文学作品ではなく、大樹でも名前ぐらいは知っている有名な青春小説だった。
「ほんと、私って知らないことが多すぎて嫌になる。母親の言葉を真に受けすぎたツケが回ってきてるわ。でも……」
この手の本を家で読むといい顔されないから。
少し寂しげな表情とともに綾乃は付け加えた。
『誰に?』なんて問う気なかった。家族に、だ。
大樹の記憶にある黛家は、そういう家だった。
「別に遅くたっていいんじゃないか。今からでも読もうって思えるだけで」
「そう……かな」
「家族にも気を遣ってるんだろ。確か弟さんが今年受験だったっけか?」
「……」
返事はなかった。
綾乃は目を伏せて俯いてしまった。
周囲の空気が微妙な重さを纏い始めた。
――やべ……
失言だった。辛そうな顔をさせたいわけではなかった。
綾乃は自分が学業より芸能活動を優先させた結果、両親の期待がどこに向かうか想像が及ばないような薄情者ではない。
「すまん、そういうつもりじゃなくって、その……」
「ううん、大樹は悪くないよ。これはうちの問題だし……私にだって譲れないことがあるから」
『譲れないことがある』と語る綾乃の目には強い光があった。
俯いて母親の顔色を窺っていたか弱い少女は、もういない。
「……そっか。じゃ、ゆっくりしていけよ」
この店は人がほとんど来ない。
閑古鳥が毎日のように鳴いていて、綾乃の邪魔をする者はいない。
店主には言いづらいが、隠れ家として使うにはうってつけの店であることは間違いない。
「……うん、ありがと」
「礼はマスターに言え。ここは俺の店じゃねーし」
言いながら『こんな店が持てたらいいな』と思った。
仕事に忙殺されがちな綾乃が、心おきなく羽を休める場所を用意してやりたかった。
これと言って秀でた才能を持たない自分には、他にできそうなことが考え付かなかったから。
「うん……でも、ありがと、大樹」
本をテーブルに置いて、綾乃は『ありがと』を繰り返した。
その微笑が眩しくて、見ていられなくて、大樹はそそくさとカウンターに戻った。
今の自分がどんな顔をしているかわからなかったけど、綾乃に見られるかもしれないと思うと無性に照れ臭かったから。
……出迎えてくれた店長のニヤリな笑顔に、ちょっとイラっとした。
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