第2章
第1話 雨の土曜の昼下がり その1
並べられたテーブルも椅子もカウンターも、いずれも微かに木の香りを放っている。
そこにコーヒーの複雑な香りが加わって、店内には特別な世界が出来上がっていた。
「雨ですね……」
「そうだね」
土曜日はアルバイトの日。
大樹が働いているのは、自宅から離れたところにある喫茶店だ。
店の主は隣でコーヒーを入れている老年の男性で、彼と大樹以外に従業員はいなかった。
付け加えるならば店内に他の人間は誰もおらず、つまり客もいなかった。
今日はたまたま雨が降っているから客足が遠のいているというわけではなく、この喫茶店は大樹が知る限り概ねいつもこんな感じであった。
――どう考えても赤字臭いよな。
経営ド素人な一介の高校生でも心配してしまうほどの客の入り具合にも拘らず、店主は特に気にしていないようだった。
以前に聞いた限りでは別途に相応の資産があり、ここは趣味で経営しているらしい。
『趣味で喫茶店って……そんなことができるのか』と驚いた記憶がある。
――いいところなんだがなぁ。
口に出すとマスターに失礼な気がしたので、心の中で唸った。
何がどういいのかは適切に表現できる自信がなかった。
あえて言うならば――大人っぽい。
隔絶された世界に流れる時間は緩やかで。
店主の佇まいをはじめ、ホッとひと息つける余裕がある。
閑静と呼ぶには寂しさが強いものの、孤独を感じるほどではない。
コーヒーを傾けながら外を眺めているだけで、穏やかな心地に浸ることができる。
初めてこの店に足を踏み入れて以来、大樹はこの静謐な雰囲気が気に入っていた。
「大樹くん、何か悩み事かい?」
「え、いえ……別に何でもないです」
ふいに投げかけられた問いに対する答えは上擦った声になってしまった。
これでは『何もない』と言ってみても説得力がない。
しかし店主は『そうかい? ま、何かあったら相談に乗るよ』と笑っていた。
いたずらに人の心に踏み込んでこないマスターは、やはり成熟した大人なのだと感心させられる。
悩みは――ある。
――
心の中で唱えた名前は、『
ともに高校受験を戦い抜いた友人の名前であり、想いを寄せる女性の名前でもあった。
『
彼女を思うと胸が痛みを訴えてくる。
初めに甘さを覚えた。
次に苦みを知った。
恋心を自覚し、志望校合格を機に告白しようと思っていたのに――想いを告げる前に、いきなり芸能界デビューするなんて宣言されてしまって、そのまま告白云々は有耶無耶になって現在に至っている。
綾乃は常に大樹の頭を悩ませ、心を震わせ狂わせる存在だった。
――芸能人って……なぁ……
それもグラビアアイドルなんて。
大樹が知る限り性的な視線や話題をことさら嫌っていた彼女とは対極にあるような職業で……率直に言えば驚天動地とか青天の霹靂すぎて、とにかく不可解な思いを禁じえなかった。
『お、おう。頑張れよ』
一方的に宣言されて、咄嗟に応援した。
応援することしかできなかった。
グラビアアイドルなんて漫画雑誌などで頻繁に目にしているはずなのに、いざ綾乃がデビューすると言われて調べはしたものの、実態は杳として知れなかった。
インターネットで検索してみても……わかるような、わからないような。
相反する様々なうわさがあり、そのひとつひとつの真偽を確かめる術はなかった。
不安はあった。
ただ……中学校時代の抑圧されていた彼女を知る身として、綾乃が自ら進むべき道を見定めたのなら、反対するなんて選択肢はなかった。
別にせっかく受かった志望校をフイにするというわけではないのだ。
忙しくはなるだろうが、一緒に学校に通えるなら構わない。今にして思えば楽観視していた。
いざ高校に入学してみれば、綾乃は『仕事』と称して学校を休む日が増えて……あれよあれよと名を挙げて。ついには日本第二位のシェアを誇る週刊漫画雑誌こと『週刊少年マシンガン』の巻頭カラーを射止めるほどにのし上がっていた。
――天職……だったのかもしれないな。
皮肉だと思った。
受験直前の冬の夜にふたりで訪れた、とあるコンビニでの一幕を思い出した。
グラビアに鼻の下を伸ばす自分を見咎めた綾乃の姿は今も目に焼き付いている。
あれほど嫌悪感を露わにしていた職業こそが彼女の名を天下に知らしめるなんて。
表向きは綾乃を言祝ぎながら裏では悶々とした感情を抱える自分に嫌気がさし、躍進する彼女の背中をただ見つめることしかできない日が続き、いつしかその背中は遥かに遠いところにあって。
心の中に渦巻くあれやこれやを言葉にして綾乃にぶつけることこそなかったものの、忸怩たる思いは確かに存在した。
今や綾乃すなわち『黛 あやの』の名は全国レベル。
かつては隠されていた美貌も、誰もが羨む肢体も。
何もかもが白日の下に晒され、万人の知るところとなって久しい。
メンタル面も強化され、対人面も克服された。
もはやウィークポイントなど見当たらない。
――モテて当たり前なんだよなぁ。
それほど魅力に溢れた彼女を周りの男どもが放っておくわけがなかった。
何しろ同年代の――思春期の男が考えることなんて、エロいことばっかりだ。
当事者のひとりである大樹自身が、その身も蓋もない事実を一番よく理解している。
彼女に好意を抱いているのが自分だけなんて思い上がってはいなかったものの、いざ誰かが名乗りを上げたとなると、とてもではないが平静ではいられなかった。
今はアルバイト中ということで気を引き締めているものの、ふとした拍子にため息を零さずにはいられない。
しかも、最初に手を挙げた男が尋常ではない相手だったから、衝撃はひとしおであった。
『
見た目は完璧で性格も良く、学業も運動もできて実家も凄い。
だからと言って驕り高ぶっているわけではない。
綾乃に告白する前に、綾乃に最も近いところにいる(恋人と勘違いされていた)大樹に筋を通しに来た。
なかなかできることではない。
こちらもまた、おおよそ人としての欠点なんて見当たらない。
もし自分に妹がいて、秀一がその(エア)妹に告白したとなれば、諸手を挙げて応援したに違いない。それほどの男だ。
問題は、その秀一が想いを寄せる相手が『存在しない大樹の妹』ではなく『大樹が想いを寄せる女性』である点だった。
――よりにもよって、何で綾乃なんだ……
そのボヤキが理不尽なものであるとは自覚していた。
自覚できていても納得できるかと言われると、答えは否だった。
「はぁ……」
ため息が出る。
綾乃は大樹の所有物ではない。
職業も恋愛も彼女は自分で選ぶことができるし、そうあるべきだと思う。
今回の件にしても当人同士で話し合うべきであり、他人が口を差し挟むべきではない。
――などと理屈をこねまわしてみても、虚心でいられるわけもない。
たとえ今までずっと綾乃との関係を問い詰められた時に、したり顔で能書きを垂れていたとしても。
秀一が綾乃に告白したと思われる日、綾乃からのメッセージが送信されてきた。
急に仕事が入ったから一緒に帰れないという内容だった。割とよくある話だった。
でも……予定が変わる場合には、すぐに連絡を入れるのが今までの綾乃の常だった。
夜に綾乃から通話があって謝罪を受けて、気にしないと答えた。そこまでは問題ない。
『あったの、いいこと!』
『ちゃんと話すから。もうちょっとだけ待って』
通話の中で『いいこと』と語る綾乃の弾んだ口振りと、勿体ぶった言い回しが気になっていた。
気にはなったが、聞かなかった。
迂闊に尋ねて彼女を困らせたくはなかった。
――聞くべき、だったのか……
翌日、綾乃は学校を休んだ。
仕事が入っていたのだ。よくあることだった。
数日が経過したものの、彼女が学校に姿を現すことはなかった。
別に珍しくも何ともないと自分に言い聞かせながら――週末に入って現在に至る。
――綾乃……
いつもは心地よい店内の静寂が良くなかった。余計なことばかり考えてしまうから。
『いいことがあった』と綾乃が口にした日は、おそらく秀一が告白した日でもある。
通話した際に軽くつついてみたら、綾乃は思わせぶりに口を濁した。
思い返してみると、これまでとは少し異なる反応だった。
だから――猛烈に嫌な予感がした。
「はぁ」
「大樹くん、本当に大丈夫かい?」
「……すみません」
「気にしなくていいよ。悩み事なんて誰にでもあることだし、何でもかんでも誰かに語ればいいってものでもない。自分自身で答えを見つけるしかないことだってある」
だから存分に迷いなさい。
初老の店主は穏やかに微笑んだ。
「どうせお客さんいな……」
ちりん。
『客がいないから』と店主が笑った瞬間だった。
来客を告げる鐘が涼やかな音色を響かせたのは。
驚いた。大降りというほどではないが、外は雨だ。
こんな悪天候の中で、わざわざこの店を訪れる人が存在するなんて。
いったいどんな客なのかと入口に向けられた大樹の目が大きく見開かれた。
「え?」
ひとりの少女だった。
美少女だった。
艶のある黒髪は白い首筋が見えるあたりで切り揃えられていて。
夏に向かって生地が薄くなりがちな服を大ボリュームな胸が内側から押し上げて。
直接見ることこそ叶わないものの……無駄な贅肉などかけらもない滑らかなおなかを経て長い脚に向かう曲線は、ため息が出るほど美しくて。
整いすぎた顔は穏やかな笑みを湛えていて。
見慣れた顔で、見たかった顔。
もちろん『黛 綾乃』だった。
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