第18話 君を想う その4【第1章最終話】

『それじゃね、おやすみ』


「ああ。仕事頑張れよ。応援してるからな」


『うん、ありがと。大樹たいじゅにそう言ってもらえるの、すっごい力になる』


 綾乃あやのとの通話が切れたスマートフォンをしばし見つめて、大樹はため息を吐いた。

 一緒に帰ることこそできなかったものの、綾乃と話はできた。

 ……にも拘らず、胸がモヤモヤして苦しかった。

 結局のところ、一番聞きたかったことが聞けなかったから。


――『いいこと』って何なんだよ、綾乃……


 今日あった『いいこと』については『あとでちゃんと話すから』と綾乃は言った。

 業界の話題をあまり口にしたがらない彼女のスタンスを鑑みれば、勿体ぶっている感のある『いいこと』は仕事がらみである可能性が高いと思った。

 でも、大きな仕事のはずなのにサラッと流された『週マシ』の件がある。

 最近は割とマイペース気味な綾乃がわざわざ『いいこと』と口にする以上は、仕事以外の話題である可能性も同じくらい高いと考えざるを得ない。

 仕事以外すなわちプライベート。

 今日の彼女は、大樹との間に特別なことは何もなかった。

 わざわざ『いいこと』と言及するなら……それは、いつもと違うことだろう。

 いつもと違うこと、すなわち――

 短くもない時間を彼女と共にしていた大樹の見立てでは、五分五分だった。


「なんなんだよ」


 喉を震わせた声は低くて重くて、恨みがましさすら滲んでいた。

 寝っ転がって両目を閉じて、上から腕を重ねて視界を閉ざす。

 闇の中に浮かび上がってきたのは――ショートボブの綾乃だった。

 大樹が知るかつての彼女、野暮ったいおさげ髪だった彼女ではなかった。


 綾乃と一緒の学校に合格できて心の底から嬉しかった。

 いきなりグラビアアイドルになるなんて宣言されて驚いた。

 綾乃は高校に入ってから急速に大人びて、特に社交性が増した。

 猫背を止めて胸を張るようになった。それも、ごく自然な佇まいで。

 誰と話すときでも笑顔を欠かさないし、中傷を聞き流す余裕を身に着けた。

 彼女の(主に)精神的な成長は友人として喜ぶべきことのはずなのに……結果として誰の目にも綾乃の魅力が明らかになってしまったせいで素直に言祝げない。

 綾乃を独占したいという気持ちが暴走して、止まらない。

 だから――こんなにも胸が苦しい。


――そうじゃないだろ。


 心の中で自分を罵倒する。思い上がりに背筋が震える。

黛 綾乃まゆずみ あやの』は誰のものでもない。強いて言うなら彼女自身のものだ。

 恋愛も仕事も人間関係も。すべては彼女の思うがままにあるべきなのだ。

 ほかならぬ大樹自身が、綾乃との関係を誰かに聞かれるたびにそう答えている。

 綾乃が望んで自らの魅力を発信することは彼女の自由であり、その結果として多くのファンを得ることが彼女にとって大きくプラスに働くことは疑いようがない。

 彼女の芸能活動を応援する大樹にとっても、それは望むべき展開であった。

 ただ……同年代が集まる高校において衆目を集める行動をとれば、秀一しゅういちのような男が現れることもまた、避けようのない運命だった。

 

池上 秀一いけがみ しゅういち


 いい奴だと思う。

 見た目がどうとか、家がどうとか、成績とか運動神経とか。

 あの男を構成するひとつひとつのパーツが秀でていることは言うまでもないが、最も驚いたのは彼が綾乃に告白する前に大樹に話を通しに来たことだった。

 秀一は大樹を綾乃の彼氏だと勘違いしていた。

 お邪魔虫な大樹を、彼は無視しなかった。

 同時に、大樹が何を言おうとも綾乃に告白する意思を曲げることはなかった。

 自分だったらどうするかと心に問いかけてみれば……きっと邪魔者に筋を通すなんてことはしなかっただろうし、告白することもできなかっただろう。

 何しろ高校入学を前に決意したはずの告白の言葉は喉元でストップしてしまって、もう腐敗臭を漂わせている。賞味期限がどれほどかは大樹自身にもわからないが、一年以上放置したままの言葉を使う気にはなれなかった。


 綾乃は変わった。

 それも芸能人になった。

 彼女だけが高校デビューに成功して距離ができたなんて、そんな生半可なレベルではない。


――機会はあったはずなんだがなぁ……


 グラビアアイドル『黛 あやの』躍進の裏では相応の犠牲が支払われている。

 すなわち健全かつ平穏な高校生活の大半を彼女は引き換えにしている。

 こんな状況で好意を口にしても……さすがにスルーされることこそないだろうが、仕事を理由に有耶無耶にされる可能性は大いにあった。

 友人に指摘された通り、恋愛OKか否かも定かでない。

 ……などと理屈をつけて、大樹は足踏みした。

 秀一は自らの心に従って前へ進んだ。

 同じ男として、敗北感を覚えずにはいられない。


「くそっ」


 要するに、大樹は秀一をいい男だと認めている。

 綾乃があの男になびく可能性を否定できないでいる。

 その心の動きは同時に大樹が綾乃を信じ切れていないことを示していて、そもそも綾乃は大樹のものではないことに思い至らされて、現在進行形で凹んでいる。

『俺たちは付き合っていない』って普段から自分で嘯いているくせに。

 たったひとり。

 たったひとり綾乃に思いを寄せる男が現れただけで、この有り様だ。


「大樹~、晩御飯よ」


「……いらねぇ」


 ドアの向こうから母親の声が聞こえた。

 部屋の前に来るまでの足音が聞こえなかったが、気にすることでもなかった。

 

「はぁ……ま、カップラーメンあるから。おなかすいたらそれでも食べなさい」


 母は部屋に踏み込んでは来なかったし、大樹の心に踏み込んでも来なかった。

 明らかに様子がおかしい息子をそっとしておいてくれることは、ありがたかった。

 おそらく自分は家族に恵まれているのだろうと思う。

 少なくとも――綾乃よりは。記憶にある黛家よりは。


「畜生、どうしろってんだ」


 湿り気を帯びた声が喉を震わせた。





 上体を起こすと、外はすでに真っ暗だった。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 そっと腹を抑えてみるも、何も感じない。

 夕食を食べていないのに、腹が減らない。

 胸のあたりがムカムカして何も喉を通りそうにない。

 枕元のスマートフォンを起動させると――午後十時。

 ディスプレイに指を滑らせてSNSを起動し、『黛 あやの』のアカウントを表示させる。

 日課となっている自撮り写真が投稿されていた。

 タイムスタンプは一時間ほど前。

 

「……明日は仕事って言ってたっけ」


 ひと眠りする前に交わした通話を思い出した。

 SNSでは仕事が入って学校に行けない旨を残念そうに報告している。


――ホントかよ。


 もう一度、投稿された写真に目を向けた。

 いつかのグラビアで着用していた水着で、いかにもなポーズを決めている。

 豊かに盛り上がった柔らかそうな胸元。

 贅肉など見当たらない滑らかなお腹。

 腰からお尻を経て脚に向かう曲線。

 かつてはカッチリ着こまれた服によって隠されていた肢体のすべてが、白日の下に晒されて世界中に配信されている。


「これ……風呂上がりか?」


 シミひとつ見当たらない柔肌に薄く朱が差している。

 かすかに湿ったショートボブの黒髪が艶めいている。

 火照りを帯びた顔には無防備な笑みが浮かんでいた。

 大樹は、綾乃のそんな姿を直接目にしたことはない。


「綾乃……」


 自分の口から漏れた吐息に熱を感じた。身体の奥に燻る欲望から生まれた熱だった。

 この写真は大樹のものではないし、この笑みは大樹に向けられたものではない。

 それでも――笑顔で半裸な美少女に欲情を抑えられなかった。

 たとえ相手が大切に思っている綾乃であっても。

 思春期の男の悲しいサガだった。


「くそっ」


 スマホを閉じて枕元に放り投げる。

 乱暴に立ち上がり、本棚から一冊の雑誌を取り出した。

 おもむろにページをめくると、『真冬の寒さなんて『はるか かなた』まで吹き飛ばせ!』なんて頭悪げなキャッチフレーズとともに赤いビキニを身に着けたストレートヘアの美少女が微笑んでいた。

 中学三年生の冬に、綾乃に見咎められた『週刊少年マシンガン』だった。

 あの時は彼女の目を盗むことはできなかったものの、家まで綾乃を送り届けてから帰り道のコンビニで買い求めた。

 コンビニなんてどこにでもあるし、雑誌なんてどこにでも売っている。

 手に入れることに障害はなかった。

 ……ほんの一瞬、綾乃の悲しそうな顔が脳裏をよぎった以外は。

 表紙と巻頭カラーを彩っている『はるか かなた』はグラビアアイドルの中でもトップクラスの知名度を誇るクイーンだった。当時から人気は凄かったし、今やドラマや映画でも引っ張りだこな国民的女優にステップアップしている。

 綾乃はまだ彼女の領域には至っていない。

 日本最高峰の美少女を目に焼き付けながら、ただひたすらに手を動かした。


「はぁ……はぁ……」


 枕元だけが月明かりで照らされた夜闇の中、ページをめくる音と荒々しくも途切れ途切れな自分の呼吸だけが耳に響く。

 何もかもが思い通りにいかない。

『はるか かなた』を見ているはずなのに、脳内では勝手に『黛 あやの』に変換される。


――何やってんだ、俺は。


 毒づいてはみたものの、いつものことだった。

 綾乃がデビューして以来、ずっとこの調子だ。

 性欲の対象となる美少女は、すべて綾乃に置き換わってしまう。

 腹立たしかったし、情けなかった。

 どうにもならなかった。

 告白していない(もちろんOKを貰ってもいない)以上、彼女はただの友人であり、その友人を性的な欲望で穢すことに罪悪感を覚える。

 一方で背徳感やら高揚感も覚えるあたりが始末に負えない。


「はぁ……はぁ……」


 どれだけ理屈をこねまわしても手を止めることはできない

 大樹の昂りは限界を超え、脳は沸騰して――そして、最期の時が訪れた。

 目を閉じて生みだした闇の中に浮かんでいたのは、いまだ目にしたことのない綾乃の姿だった。

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