第16話 君を想う その2

『なぁ、まゆずみ


『……何?』


 中学三年生になって、迫りくる高校受験の圧力が強まった。

 志望校合格に成績が届きそうになかった大樹たいじゅは、同じ進学塾に通っていた『黛 綾乃まゆずみ あやの』に声をかけた。

 他人に借りを作るのが苦手な性分だったから、お互いの得意科目を相手に教え合う形式で貸し借りをナシにしようと考えたら、該当する人物が彼女しかいなかったのだ。


 冷淡すぎる視線。

 素っ気ない返事。

 煩わしげな声色。

 にべもない拒絶。


 何度となく誘いをかけて、何度となく断られて。

 粘りに粘った挙句、どうにかこうにか協力を取り付けることができた。

 綾乃に対する大樹の第一印象は『暗い女』であり『感じの悪い女』が続いた。

 話しかけると鬱陶しそうに返事をするし、いつも俯いて身体を縮こまらせているし。

 見ているだけでイライラして、とにかく忍耐を強いられる。『黛 綾乃』はそんな少女だった。

 でも、それはあくまで第一印象に過ぎなかった。


――よく見ると、結構可愛いよな。


 向かい合って腰を下ろして一緒に勉強していると、一気に距離が近くなる。

 距離が近くなると、それまで気づかなかった色々なものが見えてきた。

 全然似合っていない眼鏡の下の顔がとても可愛らしいこと。

 自分の身体に向けられる異性からの欲望を疎んじていること。

 いつも機嫌が悪そうに見えるけれど、単に人と話すのが苦手なだけっぽいこと。

 コミュニケーション能力に難はあっても、決して性格が悪いわけではないこと。

 よくよく観察して色眼鏡を外して相対した『黛 綾乃』は、まぎれもない美少女だった。

楠 大樹くすのき たいじゅ』が生まれて初めて接することになった家族以外の異性(同年代)でもあった。


『黛ってさ……』


『……楠くん?』


『わるい。何でもない。』


『あっそ』


 しかし、彼女の美貌への賛辞を口にすることは憚られた。

 綾乃は視線に敏感なだけでなく、人の容姿に関わる話題を嫌っていた。

 彼女と顔を会わせるのは基本的に塾とその帰りぐらいだったが、その手の雑談が耳に入ると露骨なまでに顔を顰める。

 たとえ自分と関係なかったとしても、だ。

 聞こえよがしに『人の価値は中身で決まる』的なことを口にして、周りとの関係を悪化させることもあった。ひりつく空気の中で、自分は悪くないとばかりにフンと鼻を鳴らすことも一度や二度では聞かなかった。

 そんな綾乃を間近で見てきた大樹からすると、わざわざ相手が嫌がる話を振る必要性を感じなかった。

 だから、大樹は綾乃を学力的な意味で敬意を示したことはあったけれど、『かわいい』とか『きれい』と言った言葉で褒め称えたことはなかった。

 綾乃は実際に可愛かったのに。

 ドキッとさせられるほどにきれいだったのに。

 特に時おり見せる花が綻ぶような笑顔ときたら、大樹の胸の奥に初めての感情を植え付けてくれたのに。

 植え付けられた感情は程なくして芽吹き、すくすくと育って――


――あの時、ちゃんと褒めてたらどうなってたんだろうな?


 綾乃は眉を吊り上げて喧嘩になったかもしれない。

 逆に、『ばか』とか言いながら頬を染めたかもしれない。

 どちらもあり得るように思えたけれど、実行に移されなかったイフに意味はない。





(ああ、夢か)


 夢を見ていると気が付いていた。

 大樹も綾乃も高校受験なんてとっくの昔に終わっている。

 ふたりとも無事に合格して一年と少々、すでに高校二年生だ。

 ゴールデンウィークが終わり、梅雨を経て夏に向かう時分だった。

 今日は色々あって絶不調で、綾乃からは『仕事があるから先に帰ってて』と素っ気ないメッセージが送りつけられて。肩を落として家に帰ってベッドに倒れ込んで、そこで意識は途切れていた。

 だから、これは夢。

 かつての記憶を再現した夢。

『楠 大樹』と『黛 綾乃』がともに歩んだ夢。

 夢は夢であるからこそ連続性はなく、大樹の意思にかかわらず勝手に進む。





『黛って、将来何かになりたいって考えたことある?』


 さり気ない質問だったと思う。

 確か冬ごろ、受験目前に交わした会話だっただろうか。

 ふたりが志望しているのは進学校だから、合格すれば次は大学を目指すことになる。

 大学に入ったら、今度は就職を意識せざるを得ない。

 だから、この質問は別におかしいものではなかった……はずだった。


『……』


『黛?』


『……別に』


『別に?』


『なりたいものとか、別にない』


『そっか……ま、俺らぐらいだと普通だよな。うんうん』


 上擦り気味な声で取り繕いはしたが、上手くできた自信はなかった。

 綾乃の声は低くて昏くて、レンズ越しの瞳には光がなくて。

 俯いた顔には、まるで生気を感じられなくて。

 やりたいことはない。なりたいものもない。

 でも、勉強しなければならなかった。

 嫌だ。辛い、苦しい。気が重い。

 文句を口にすることはなく。

 希望を抱くこともなく。

 勉強勉強また勉強。

 それが、大樹がよく知る当時の綾乃の日常だった。


『ごめん』


『何で謝るんだよ』


『うん……でも、ごめん』


『……高校に入ったらいいことあるよ、たぶん』


 気の利いた言葉をかけられない夢の中の自分(当時の自分)を説教してやりたかった。

 虚勢であっても、もう少し自信満々に励ましてやれないものかと溜め息が止まらない。


――綾乃……


 彼女がいつも憂鬱げな表情を浮かべていた理由には心当たりがあった。

 詳細に記憶しているはずなのにどこか曖昧模糊とした夢、その場面が変わる。

 今度は時間が逆戻りした。綾乃と同盟を組んで一緒に勉強し始めた頃の記憶だった。

 ふたり揃って成績が目に見えて上昇すると、お互いの距離感がぐっと縮まった。そんな頃合い。


『ねぇ……こ、今度、私の家で一緒に勉強しない?』


『え?』


『……嫌?』


『いや、嫌なわけないし!』


『もう……どっちなの、それって』


 かすかに口元をほころばせた綾乃の顔に安堵を覚えた。

 それはそれとして……同い年の女の子の家に招待されるなんて初めてのことだった。

 すでに綾乃に好意を抱いていた大樹としてはドキドキせざるを得なかったのだが……


『あなたが楠くん? うちの綾乃がお世話になってます』


『は、はい……僕の方こそ黛さんに助けられてばかりで』


 緊張しながら訪れた黛家で大樹を待ち構えていたのは、綾乃の母親だった。

 なるほど綾乃の母親らしく顔は整っていたが、表情は言語化しづらかった。

 値踏みするような眼差しと、粘りつくような声ばかりが印象的な人だった。

 隣に立っていた綾乃の顔には、誘われた時に見せてくれた表情はなかった。


『楠くん、こっち』


『お、おう』


 初めて足を踏み入れた綾乃の部屋は、漫画やドラマでしばしば目にするような『女の子の部屋』のイメージからはかけ離れていた。

 こざっぱりしてはいたが、娯楽の類は何も見あたらない。

 フリルもレースもなければ、漫画や縫いぐるみの類もない。

 好意的に表現するなら目に優しく率直に言えば地味な色合い。

 ただ勉強して眠るためだけの部屋は――牢屋を想起させられた。

 問題集を広げて頭を悩ましていると、いきなり綾乃が口を開いた。


『最初に楠くんに誘われたとき、お母さんに反対されたの』


『そうなのか?』


『男の子と遊んでる場合じゃないって。もっと勉強しなきゃダメだって』


『黛は十分やってるだろ。むしろ、やりすぎなくらいじゃないのか?』


『ううん、こんな成績じゃ全然ダメだって。でも……成績上がったから』


『……そっか』


 綾乃の母の顔が思い出された。

 彼女の表情を、心情を読み解くことができた気がした。

 別の意味で言語化し難く、言語化したところで愉快にはなれそうになかった。


『黛ってさ、勉強するの好きか?』


『……』


 俯いてしまった綾乃からの答えはなかった。

 嫌いとは言えなかったのだろうと、今ならわかる。

 綾乃を取り巻くすべては、常に彼女から選択肢を奪っていた。


『楠くんは?』


 綾乃の声がブレた。否、声が重なった。

 また場面が変わった。場面が戻った。

 綾乃の部屋から、塾の帰り道へと。

 先ほどの記憶の続きに繋がった。

『将来の夢』的な会話を交わしていた、冬の夜の記憶に。


『え、俺?』


『何かあるの? やりたいこと』


『……いや、何にも考えてない。そういうのって大学に行ってからでもいいんじゃね?』


 綾乃から逆に問われて、咄嗟に話を合わせた。

 向けられる綾乃の瞳が不安に揺れていたから。

 自分には夢がないのに大樹にはあったら……

 そんなことを考えていそうな表情をしていた。


『ま、今はとにかく高校だろ』


『そうだね。高校に合格出来たら、私……』


 悄然とした綾乃の声は冬の夜空に溶けて消えた。

 紫色に変色した、見るからに寒そうな唇はかすかに動いていた。

 傍にいなければ気づくことができないほどの、声にならない声が耳朶を震わせた。


『私でも、何か見つかるのかな?』


 今にも泣きだしそうな表情。

 何度見ても胸が締め付けられる。

 かけるべき言葉が見つからなかった。

 当時の大樹にも、夢に見る今の大樹にも。

 冬が過ぎて春が来て、ふたりは無事に合格した。

 そして――綾乃はグラビアアイドルにスカウトされた。

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