第15話 君を想う その1

大樹たいじゅ……お前、疲れてるだろ。掃除やっといてやるから、さっさと帰って寝てなさい」


 友人に気を遣わせる程度には、大樹の状態は良くないらしかった。

 

――そんなにかよ……なんか気味が悪いんだが。


 自覚のない大樹にしてみれば、親切にされればされるほどに居心地が悪くなる。

 しかし、自分の顔を直に見ていない自分と自分の顔を直に見ている友人たちを比較してどちらの言葉が信用できるかと問われれば、それは後者に違いなかった。

 自分は今、とてもよろしくないらしい。

 そう結論付けざるを得ない。


 原因ははっきりしている。

 昼休みに教室を訪れた『池上 秀一いけがみ しゅういち』だ。

 大樹を伴って校舎裏に場所を移したあの男は、『綾乃あやのに告白する』と言ってのけた。

『好きにしろ』と答えた。

 綾乃は大樹の所有物ではない。

 彼女の意思をこそ尊重するべきだ。

 綾乃が誰と付き合うかは彼女が決める。

 論理的であったが本意でない意思を告げた。

 秀一は、その答えに感謝の言葉を残して姿を消した。

 大樹は胸糞悪い感情を抱えたまま教室に戻り、現在に至る。


――アイツ……


 心の中でひとり毒づく。

 眼前の友人は視界に入っていなかった。

『今頃どこかで綾乃に告白しているのだろうか?』

 大樹の脳内を埋め尽くしていたのは、その疑問だけだった。

 校舎裏を去った秀一の足取りから察するに、今頃ふたりきりで……十分にあり得る。

 授業が終わって放課後になって掃除当番な自分たちとは異なり、時間的な制約がないとなれば、あの男は躊躇いなく行動を起こす。

 覚悟が決まっていないなら、わざわざ大樹を呼びだしたりはしないはずだ。

 ならば――


――綾乃はどう答えるのだろう?


 綾乃の意思を尊重すべきだと思った。

 でも、綾乃の答えが気になって仕方なかった。


『何でと言われても、まゆずみさんはくすのきの彼女じゃないのか?』


 秀一は平然と言い放ち、大樹は首を横に振った。

 告白していない自分は綾乃の彼氏などではない。

 綾乃を彼女と呼ぶほど、厚かましくはなれない。


『誰かに好かれることと、誰かを好きになることは全然違った。僕は……まぁ、女子から好かれる人間ではあったけど、誰かを好きになったことはなかった。好きって感情がよくわかってなかったんだ。でも……黛さんに出会って、生まれて初めて人を好きになるってことを理解した。頭でなく心で、ね。『ああ、これが恋なんだな』って。今までにこんな気持ちになったことがなくて、最近自分でも自分の言動がよくわからなくなったりするんだけど……相手に彼氏がいようといなかろうと、気持ちを告げずに諦めるって選択肢はない』


『それはそうなんだが……筋を通すことも必要だと思ってさ。傍からはそう見えないけど、楠が黛さんの彼氏じゃなくて本当によかった。これで僕も安心して自分の想いを彼女に伝えられる』


 続けざまに放たれたあの男の言葉が、昼休みからずっと大樹の胸に突き刺さっている。


――俺は……俺だったら……


 彼氏持ち(推定)の女性に思いを告げるなんてことができるだろうか?

 その彼氏(推定)に筋を通すために先に伝えることができるだろうか?

 秀一の言動は非常識だと思う。

 自分には真似できないと思う。

 しかし、真似できないのは非常識ゆえではない。勇気が出ないからだ。

 何の衒いもなく『告白する』と言ってのけた秀一が眩しくて、妬ましかった。


 合格発表を一緒に見に行けなかったあの日に綾乃に告白し損ねて、すでに一年と少々が経過している。

 ふたりの間には特に何もなかった。

 綾乃はグラビアアイドル『黛 あやの』として躍進し続けている。

 何かにつけて忙しない日々を送る彼女とは、ここ最近すれ違い気味だった。

 だからと言って、大樹に告白するチャンスがなかったかと言うと、答えは否と言わざるを得ない。

 秀一のように強く激しい感情があるのなら、多少の困難なんて物ともせずに告白することができていたのではないだろうか?

 

――綾乃に対する俺の思いは、本当に恋心なのだろうか?


 益体もない疑問が頭から離れてくれない。

 秀一は綾乃と出会って恋を知ったと言った。

 大樹もまた、綾乃とともに時を過ごして恋を知った。

 胸の奥に秘めた感情に偽りはない。勘違いもしていない。

 機会を逸し続けてはいたが、自分の思いを疑ったことはなかった。


――でも……俺は告白しなかった。


 急に『なぜ?』と疑問が湧いた。

『池上 秀一』と言葉を交わしたからだった。

 あの男との邂逅は、大樹の心に疑問と苦悶を刻み込んだ。

 苦しむ原因は明白だ。

 心のうちにある、告白を躊躇う本当の理由と向かい合っていないから。

 綾乃は忙しそうとか迷惑かけたくないとか、それは言い訳であって理由ではない。


『好きだ』


 たった三文字の想いを告げるために、それほどの時間を必要とするわけではない。

 綾乃が本当に迷惑と思っているならば、彼女は自分の口から否と答えてくれるはず。

 昔の彼女なら鬱陶しげに眉を顰めながら、今の彼女なら困ったような笑顔とともに。

『黛 綾乃』はここ一年で変わったとは言っても、生真面目で誠実な気質は変わらない。

 わかっていても大樹は動けなかった。茫然と日々を過ごし、綾乃の傍にいただけだった。

 背筋が震えた。大げさに首を振って、ネガティブな思考を重い頭から無理矢理追い出した。


「……いや、何ともねーし。掃除ぐらいちゃんとやるっての」


「そうか? ま、いいけどよ」


 空元気で答えて箒でごみを集めようとして――ちっとも上手く行かない。

 集中力が失われている現実をまざまざと見せつけられて、大樹は深くため息を吐いた。

 向かい合う友人もまた、ため息を吐いていた。

『言わんこっちゃない』とその目は語っていたが、言葉は出てこなかった。





 結局、掃除ではほとんど役に立たなかった。

 部活に向かう友人たちを見送って、昇降口に足を向ける。

 大樹は何も部活動に入っておらず、アルバイトがない日の放課後は割と暇だ。


――綾乃、もう帰ったのか?


 綾乃のクラスの下駄箱に目を走らせる。

 わざわざ蓋を開けることはしない。

 それをやったらタダの変質者だ。


「……」


 当然といえば当然ではあるが、綾乃も部活動に入っていない。

 学校に来る日でも、放課後は事務所へ……という日も少なくない。

 本人から話は聞いているものの、綾乃の日常は割と不透明な部分が多い。


「う~ん」


 友人からは『さっさと帰れ』と言われたものの、このまま帰るわけにはいかない。

 綾乃が学校に来た日の放課後は、大別すればふたつの展開が考えられる。

 何も仕事がなければ一緒に帰る。

 用事が入れば連絡がある。


――そういえば。


 今日は一緒に帰ると約束した。

 時間を合わせるとは言ったが連絡がない。

 どう判断したものか……このままでは動きようがない。


「もう帰っちまったんだろうか?」


 疑問を口に出しながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 綾乃から連絡がなくとも、大樹から尋ねれば答えは得られる。

 仕事ならいい。大樹は綾乃の仕事を応援しているのだから。

 仕事じゃない場合は……自分より優先すべき用件があるということ。

 単に忘れていたというパターンは、大樹がよく知る彼女に限ってあり得ない。


「『池上と帰った』なんて言われたら……」


 自分の口から漏れた言葉にゾッとした。想像が重量を持って圧し掛かってくる。

 男から見ても秀一はいい男だ。ルックスも、スタイルも、性格も。

 正直に言って自分が彼に勝っている部分が見当たらない。

 この学校で秀一以上の男がいるかどうか疑わしい。

 現在のところ綾乃に彼氏はいなかったはずだ。

 ……少なくとも大樹は把握していない。

 ならば、綾乃が秀一と交際する可能性は十分にあるのではなかろうか。


「いや……でも、それは別に構わないだろう」


 頭を掻きむしりながら首を横に振った。

 大樹は綾乃の彼氏ではない。

 綾乃は大樹の所有物ではない。

 男女交際にせよ、仕事にせよ、綾乃は自分の人生を自分で選ぶ権利がある。

 ふたりの関係を問われたときは、そう言い張り続けてきた。

 自分の答えが間違っているとは思わなかった。

 嘘をついているつもりもなかった。

 だが……


――もし綾乃に彼氏ができたとして、俺はアイツを祝福してやれるのだろうか?


 秀一の言葉を聞いて以来、ずっとそんなことを考えている。

 自分以外の誰かが綾乃の隣にいて。

 自分以外の誰かが綾乃とデートして。

 自分以外の誰かが綾乃とキスして、そして――そして――


「……祝ってやらなくちゃならない」


 思ってもいないことを、あえて口に出した。

 先に告白しなかった自分が悪いのだ。

 文句を言う筋合いはない。

 

「でも、なぁ……」


 指を動かせないまま、スマホの待ち受け画像をじっと見つめた。

 大樹と綾乃が写っていた。高校入試の帰りに撮った記念写真だ。

 自分も綾乃も、どこか野暮ったい雰囲気を残したままの思い出。

 ディスプレイの時刻表示は、午後4時前。

 家に帰っていてもいなくてもおかしくない時間帯だ。

 

「はぁ」


 いつも仏頂面だった当時の綾乃がわずかに微笑んでいる写真。

 この学校で自分と綾乃だけが共有していた時間の記録。

 その残滓を見つめていると、くさくさしていた心が穏やかに凪いで――いきなりスマホが震えた。


「うおっ!?」


 驚きのあまり端末を取り落とすところだった。

 表示されたのは――綾乃が送信したメッセージだ。

 待ちこがれていたような、でも、見たくないような。

 大樹の思いをよそに、綾乃からの言葉は勝手に表示される。


『急な仕事が入ったから、先に帰ってて』


 何度も読み直す。見間違いではない。

 口の中に再び苦い味が広がっていく。

『急な仕事』

 その言葉を素直に信じられない自分に、心底嫌気がさした。

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