第10話 儘ならない登校風景 その4
心地よい距離間云々と語ってみても、早朝からの急激な身体的接触は
しかも密着(物理)していた相手が秘かに思いを寄せる『
結局どことなく落ち着かない空気を残したまま、大樹と綾乃は学校の最寄り駅に降りた。
電車に乗り込むときには繋がっていたふたりの手のひらは、いつの間にか解かれていた。
大樹は黙って右手を握ったり開いたり、同じ動作を何度も繰り返した。
綾乃は、不審者気味な大樹を黙って見つめている。
その視線に気づかされて、ゴホンと咳払い。
「……久しぶりって感じがするな」
「そんなにだっけ?」
大樹の声に、綾乃が首を傾げた。
『何が?』とは彼女も口にしない。
ふたりで一緒に学校に行く機会が、であることは明白だった。
さらりと風に揺れる黒髪を意に介することなく、綾乃は白い指を折って『言われてみれば確かに……』などと隣でため息をついている。
本人曰く『あんまり仕事多くないし、学生ってことで気にしてもらってるし』とのことだが、すでに社会に出て芸能活動に勤しんでいる彼女は、一般的な高校生に比べて学校を休むことが多い。
「中学生の頃は『学校なんて行きたくない』って思ってたけど、いざ働き始めてみると懐かしいって言うか……ううん、懐かしいじゃないな。なんて言ったらいいのかな」
大樹には彼女の胸中を正確に推し量ることはできなかったが、言わんとするところは何となく察することはできた。
彼女が足を踏み入れたのは芸能界という特殊な業界だ。
いわゆる『普通の高校生』的な常識とは無縁の日々を送っている。
ありふれた日常への思いを心に残しているのではないかと、そんな気がした。
「そういうもんか?」
「そういうもの」
「そっか」
『いつか自分にも高校生活に郷愁を覚える日が来るのだろうか?』などと考えはしたが、まるで想像できなかった。
早く大人になりたい。早く社会に出たい。
綾乃と一緒にいると、焦る気持ちばかりが強まっていく。
「なぁ、綾乃」
「ん?」
「……悪い、何でもない」
「変な大樹」
くすくすと笑われて、気恥ずかしくなって前を向いた。
ふたりで並んで歩いていると、時おり綾乃は眩しそうに目を細める。
視線の先には、大樹たちと同じ制服を纏った同年代の男女が並んで歩いていた。
男子も女子も仲睦まじく言葉を交わして、笑って、じゃれて……いかにも初々しいカップルと言った風情を漂わせて。
心なしか周囲の生徒たちも辟易としているように見えて。
「……さっきはごめんね」
「ん?」
ふいに齎された謝罪の意図を掴みかねた。
会話を振り返ってみると仕事云々の話だった。
――学校に顔を出さないことを気に病んでいるのか?
「大樹はその……真面目に私を守ってくれようとしてただけなのに、揶揄うようなこと言っちゃったりやっちゃったりしちゃって。しかも怒ったりもしちゃったし」
――そっちかよ。もう手打ちにしたじゃねぇか!
叫びそうになって、やめた。
黒歴史は、さっさと記憶の彼方に葬りたい。
綾乃で欲情していたなんて話を蒸し返すのは、勘弁願いたい。
何と言っても『
「べ、別に気にしてねーよ」
「あっさり言われると、それはそれでちょっと腹立つって言うか……」
「……俺の方こそすまんな」
「なんで大樹が謝るわけ?」
「いや、それは、その……」
ぎゅうぎゅう詰めの電車の中でお互いに身体を押し付け合った。
ふたりの状況はまったく同じはずだけど、大樹は男で綾乃は女だ。
自分だけが一方的に得してしまったような、罪悪感に似た感情がある。
「電車の中で言ったこと、嘘じゃないからね」
「え?」
「私、そういう話には慣れてるし、理解もあるつもり」
「そんなこと言われて、どう反応しろと」
大樹はことさらにゲンナリした顔を作って見せた。
綾乃は綾乃で耳まで真っ赤に染め上がっていた。
『恥ずかしいなら言うなよ』と言ってやりたい。
どう見ても自業自得、あるいは自爆だった。
「あと……大樹は勘違いしてると思う」
「勘違いって?」
「それは……私だって……ううん、やっぱり秘密」
「なんだよ、それ」
「秘密って言ってるでしょ。この話はこれでおしまい」
「自分から話し始めたくせに」
「何か言った?」
「何にも」
揉めるつもりはなかったから追及はしなかった。
だが、引っかかるところはあった。
勘違い。
綾乃はそう言った。
大樹は何かを勘違いしている、と。
――勘違い……俺が、何を?
どれだけ考えてみても、サッパリわからなかった。
しかし、綾乃は何も教えてはくれない。
尋ねてみても無駄だろう。
『これ以上、変なこと聞かないでね』
目を細める横顔が、ハッキリと物語っていた。
早く大人になりたいと思った。綾乃の心を読み解ける大人になりたい、と。
★
学校との距離に反比例するように道を往く生徒の数が増える。
チラチラと、あるいは露骨に大樹たちに向けられる視線も増える。
彼ら彼女らが注目しているのは大樹ではない。綾乃だ。
『黛 綾乃』は、この学校における有名人のひとりに間違いなかった。
スタイル抜群な美少女というだけで人目を惹くには十分だが、グラビアアイドルとして一足先に社会に出ている点も関心を集める大きな理由になっている。
高校生ともなれば、どうしても誰もが自分の将来に目を向けざるを得なくなる頃合いだ。
純粋な憧憬。
隠し切れない性欲。
嫉妬。やっかみ。その他アレコレ……
様々な思惑を含ませた視線を、綾乃はごく自然に受け止めている。
背筋を伸ばして、胸を張って。顔にはうっすらと笑みを浮かべて。
――ほんと、変わったよな。
大樹は心の中で唸った。
綾乃とは別の中学校に在籍していたから、彼女がどのような学生生活を送っていたのか、そのすべてを知悉しているわけではない。
ただ、一緒に勉強する間にしばしば彼女の口から漏れた言葉を拾い集めた限りでは……お世辞にも楽しいとは言い難い日々を過ごしていたように聞こえていた。
当時の綾乃は荷物を胸に抱き込んで、背中を丸めて歩くことが多かった。
四方八方から向けられる視線に押し潰されないように、必死に耐えているように見えた。
そんな綾乃を取り巻く環境が高校に進学しただけでそこまで劇的に変化するかと問われれば、答えはきっと否だった。
でも、綾乃は変わった。
周囲も否応なく彼女の変化に巻き込まれた。
変化の渦の根源は、間違いなくグラビアデビューに他ならなかった。
雑誌やウェブに掲載されている『黛 あやの』のインタビューでも、しばしばそのあたりについては言及がある。
『人に見られることに慣れた』
『明るくなったと言われる』
『度胸がついた』などなど……
本音を包み隠さず何もかも載せているわけではないことは想像に難くない。
記事は当たり障りのないよう気を遣われているに違いないし、ジョークを交えた書きぶりで誤魔化している部分もあるだろう。
それでも――大樹の胸中には言語化し難いモヤモヤが巣食っている。
『一緒の高校に入って一緒にいれば、俺が綾乃を守ってやれるのに』
昔から、そういう思いがあったのだ。
いや、その感情は今も存在しているのだ。
――『守る』なんて大きなお世話、なんだろうな。
すれ違うクラスメートたちと和やかに談笑する綾乃を見ていると、自分の心の狭さにゾッとさせられる。昔の彼女の苦しみを断片的にでも知っているならば、綾乃に会話が弾む友人ができたことを素直に喜ぶべきなのに。
直視したくない胸中をごまかすように、大樹は後頭部をガリガリと掻きむしった。
指に絡むほどの長さもない髪の感触が、ひどく不快だった。
――はぁ。
気が重くなる理由は、もうひとつ存在する。
昇降口が近づいてくる。
別れの時が近づいてくる。
大樹と綾乃は同じ学校に通っているけど、クラスが違う。
綾乃が学校に来る日であっても、ふたりが一緒にいられる時間は実のところ長くはない。
「綾乃、俺、そろそろ行くわ」
「うん。大樹、今日もありがと。また後でね」
軽く手を振って別れを告げて、ひとり下駄箱に向かう。
大樹には大樹の付き合いが、綾乃には綾乃の付き合いがある。
大樹の交友関係なんてどうでもいいが、綾乃の方はどうでもよくない。
ただでさえ学校に顔を出す機会は少ないのだから、登校できた日には友人との関係を積極的に育んでもらいたいと思っている。
だから、学校の中では綾乃との接触を避けている。
綾乃からも、この件について文句なり反論なりは出てこない。
――俺が傍にいたら、綾乃だってやりづらいだろうしな。
この後ふたりで顔を会わせるのは放課後になる。
朝は駅から学校まで、放課後は学校から綾乃の家まで。
行きと帰りのわずかな時間だけが、ふたりで共有できる高校生活だ。
――寂しいもんだ。
それが偽りのない大樹の本音だった。
寂しさはいつも胸の奥に存在している。
でも、綾乃が学校に来ない日は気にならない。
その思いが喉元まで浮上してくるのは、決まって彼女と一緒に登校する朝のこと。
――綾乃はどう思ってるんだろうな?
寂しさを感じていてほしいと思った。
寂しさを感じてほしいと思う自分を恥じた。
再び頭を掻きむしり、さり気なく肩越しに振り返った。
クラスメートに囲まれて遠ざかる綾乃の背中を、じっと見やった。
とてもではないが、本人に直接尋ねることはできなかった。
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