第9話 儘ならない登校風景 その3

「電車来たぞ、スマホしまっとけ」


「あ、うん……ありがと」


 制服の肩を叩いて電車の到来を知らせると、上の空と言った風情で綾乃あやのが頷いた。

 そっと彼女の手を引いて電車に乗り込もうとして、背中から強烈な衝撃を受けた。

 否、背中どころか四方八方から潰されかけ、瞬く間に車内の奥まで押し込まれた。


大樹たいじゅ……ッ」


「綾乃、大丈夫か?」


 駅のホームが人だらけなら、電車の中も人だらけ。

 降りる人と乗る人の相反する奔流に飲み込まれそうになったが、しっかり手を握っていた大樹たちがはぐれることはない。

 どうにかこうにか車内の一角に落ち着けた。

 大樹の前には綾乃がいて、綾乃の背には壁があった。

 綾乃は窮屈そうに身じろぎし……申し訳なさそうに見上げてくる。

 

「いつもゴメンね」


「謝らなくていい」


 ぎゅうぎゅう詰めになったラッシュな車内で、大樹は綾乃をかばうように姿勢を取った。

 壁に手をついて腕の中の綾乃を守ろうとするものの……周囲からの圧力は半端なくてカバーしきれていない。押し潰さないようにするのが精いっぱいだった。

 綾乃の小さな身体を一番圧迫しているのは大樹自身に違いなかった。

 これでは本末転倒もいいところ。

 

――根性見せろよ、俺ッ!


「大樹さ、大きくなったよね」


「……そうか?」


 歯を食いしばって、両腕に力を込めて。脚を少し広げて踏ん張って。

 綾乃が少しでも楽になれるよう空間を維持しているところに、唐突な声。

 いきなりすぎる問いは、至近距離で正面から。

 覗き込むように見上げる眼差しとともに。

 あまりにも脈絡がなくて、首をかしげた。


――身長、ねぇ……


 確かに大樹の背は伸びた。

 中学三年生の冬の時点では、確か160センチ足らずだった背丈は、今や170センチを超えている。本音を言えば180センチ欲しいが、そこまで伸びるか否かは神のみぞ知る。

 対する綾乃は……あの頃に比べれば、ほんの少し成長した程度。

『もうちょっと身長があればなぁ』とボヤく声を、しばしば耳にしていた。


「ほんと、これじゃ……が届かない」


「届かないって、何が?」


「……ッ! な、何でもないの!」


 プイッと横を向いて。

 色づいた頬を膨らませて。

『何でもない』と焦りを滲ませて。

 原因は不明だが、間違いなくご機嫌斜め。


――俺の背が高いと、なんか悪いことがあるのか?


 どれだけ首を捻っても答えは出なかった。

 なんとなく女子は背が高い男子を好む印象があったのだが。

 そもそもの話、今、この状況でわざわざ口にするほどのことだろうか?


「大樹、本当に大きくなってるよねぇ」


「……」


 言葉はほとんど繰り返しだった。

 艶めく唇から漏れた声は色合いが違った。

 ため息交じりの声は大樹にだけ聞こえる程度の囁き。

 伏せられた綾乃のまつ毛、わずかに下に向けられた視線。

 蠱惑的な表情を前に、一瞬にして思考が白く焼き尽くされる。


「あ、綾乃?」


「……」


 沈黙したままな綾乃の視線を追って――心臓が止まりそうになった。

 大樹と綾乃は密着していて、大樹は綾乃の身体をモロに感じている。

 今や彼女の武器である柔らかくて暖かい圧倒的なまでの胸の存在を。

 胸に限らずグラビアで目にする滑らかな肌のすべてを余すことなく。

 逆に言えば、綾乃だって大樹の身体の感触をモロに感じているはず。

 いわゆる思春期男子な意味で反応してしまった大樹の大樹な部分を。


――そういう意味かよ!


 電車が揺れる。乗客も揺れる。

 生じた波が大樹と綾乃を揺らす。

 右に左に、前に後ろに。ずっと重なり合ったままで。

 ふたりを隔てている布地なんて、この状況では何の役にも立ってくれない。


「なぁ」


「ん?」


「せめて前をガードしてくれないか。気が散る」


 言うべきか言わざるべきか迷って、結局言った。

 綾乃に興奮していることを白状するも同然なのに。

 勇気を総動員して告げた言葉に、綾乃は首を振った。


「ごめん、腕、動かせない」


「マジか」


 せめて通学用の鞄を前に抱いてくれたら、魅惑的な身体を直接感じないで済むのに。

 下半身が密着するのは仕方ないにしても、ひときわ目立つ綾乃の胸が押し付けられるのを避けることさえできれば、だいぶん変わってくると思うのだが。

 大樹の期待はあっけなく打ち砕かれた。


「あの、その……別に怒ってるわけじゃないから。私、そういうのに理解ある方だと思うし」


「嘘つけ。頼むから黙っててくれ」


「う、うん。ごめん」


『理解がある』と言われても、素直に頷けるわけがない。

 昔の綾乃を知る者として、そんな言葉を真に受けるつもりはない。

 大樹は目を閉じて奥歯をぎゅっと噛み締めた。

 心の中から邪念を追い出すために、あるいは外界からの刺激から逃れるために避難した闇の中に浮かんできたのは――よりにもよって昨夜コンビニで買った『週刊少年マシンガン』の巻頭グラビアだった。

『暑い夏を先取り! ジューシー最旬ヒロイン『黛 あやの』ちゃん大特集!』と銘打たれた肌色満載なカラーページ。

 あのド迫力な反則ボディが、今、自分に押し付けられている。

 現実味のない現実を前に、大樹の理性は崩壊寸前だった。


「……はぁ、はぁ」

 

 しかも、艶っぽくて熱っぽい綾乃の吐息が追い打ちをかけてくる。

 鼻をくすぐる綾乃の香りも、制服越しに感じる体温も。

 どれもこれもとんでもない破壊力を秘めた精神攻撃であった。

 悟りを開いたわけでもない大樹では、とてもではないが耐えられるものではない。

 心の中で白旗を挙げて目を開けると、見上げてくる綾乃の視線と絡み合った。

 じっとり見つめられると、全身がおかしな熱に浮かされて――


「ん……えっと、大丈夫だから。大樹……私、慣れてるから」


 湿り気を帯びた、囁くような上擦った声。

 言葉とは裏腹に羞恥に染まる頬。

 妖しげに艶めく大粒の瞳。

 吐息を放つ桃色の唇。


「綾乃……」


「うん……」


 優しくて穏やかな許しが、大樹の心を撃ち抜いてくる。

 一度目にしたら、決して二度と忘れられない夢のような光景。

 それは許しなどではなかった。男の欲望に直接訴えてくる誘いだった。

 本人に誘いをかけている自覚がなさそうなのが、極めつけに質が悪かった。

 大樹の背筋をゾクゾクとした快感が駆け上あがり、下半身が一層強くいきり立った。


「ん……はぁ」


 鼻にかかった曖昧な声。

 頭がおかしくなりそうだった。

 これはもう完全に誘惑以外の――


――違う……自分勝手な妄想を押し付けるな!


 心の中で己を叱咤した瞬間、綾乃の身体がピクンと震えた。

 その微かな揺れを肌越しに捉えて、ギリギリ理性が甦った。


「……そんなこと言われて『はい、わかりました』なんて頷けるかっての!」


 頷きたかった。

 心も身体も本能に委ねてしまいたかった。

『本人がいいって言ってるんだから、いいじゃねーか』

 頭の中のそこかしこから、大合唱が聞こえてくる。

 でも、それでも――大樹にだってプライドがある。

 だから、口から出たのは本音と正反対の言葉だった。

 そもそも綾乃は大切な、大切な――

 大樹は口を引き結んで首を横に振った。

『大切な』の先が、上手くカタチにできない。


「……あっそ」


 眼前から届けられた綾乃の声、その気配がいきなり変わった。

 爽やかな朝には似つかわしくない、熱を宿らせた喘ぎに似た甘やかな声から。

 真夜中、あるいは土砂降りの雨の中、もしくは真冬の猛吹雪を思わせる冷たい声に。


「綾乃?」


「……なに?」


「なんでもない」


 上目遣い……ではなく、思いっきり睨みつけられて、喉元まで出かかった言葉が引っ込んでしまった。


――何だったんだ、今の?


 聞きたかったが聞けなかった。

 聞けばこのままではいられない気がした。

 だから……ただ、ひたすらに沈黙を守り続けた。

 車内のコールによると、学校の最寄り駅まで残りみっつ。

 天国のような地獄のような得体の知れない時間は短いようで長かった。


「……綾乃ってさ」


「何なの、大樹しつこい」


 気まずすぎる空気に耐えきれず大樹が口を開いたら、綾乃は素っ気ないを通り越してバッサリ切りつけてくる。

 機嫌を損ねていることは間違いなかった。

 せっかく一緒に学校に行くのに、これは捨て置けない。

 このままでは、先ほどまでとは別の意味でメンタルが崩壊してしまう。


「綾乃って……まつ毛長いよな」


 口をついて出た言葉に、あまり意味はなかった。

 とりあえず何かしゃべらないと場が持たないと思っただけ。

 ……だったのだが、眼前の綾乃は何度も目をしばたたかせ、急に頬を赤らめた。


「~~~~~ッ!」


 足元に衝撃が走った。

 きついものではなく、何が起こったかは明白。

 大樹の足を綾乃が踏みつけた。見なくてもわかる。

 痛くはない。むしろ心地よいくらいの程よい重みだった。

 

「……何で怒るんだよ?」


「うるさい」


 綾乃はフンと鼻息ひとつ鳴らして、プイっと横を向いてしまった。

 その横顔をジーっと見つめ続けていたら、横目で思いっきり睨み返された。

 どうやら『見るな』ということらしい。言葉にならない声が聞こえた気がした。

 相変わらずふたりの身体は密着したままで、状況はさっきから何ひとつ変化していない。

 大樹には綾乃の胸が押し付けられたまま、綾乃には大樹の大樹が押し付けられたまま。

 ため息をついて綾乃から視線を外し、窓の外に広がる見飽きた感のある風景をそれとなく追いかけていると――


「ば~か」


 小さな声が耳朶を震わせた。

 車内のアナウンスと乗客の喧騒に紛れていたが、確かに聞こえた。

 いつもの変わらない口調のひと言は、間違いなく手打ちの合図であった。


「……何か言ったか?」


「何にも言ってないし」


「あっそ」


 聞こえないふりをしていたが、ちゃんと聞こえていた。

 ここだけ都合よく聞き逃すなんてことはなかった。

 それでも殊更に問い詰めることはしなかった。

 お互いに余計な言葉がなくとも通じ合う。

 綾乃との今の距離感が心地よかった。

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