第8話 儘ならない登校風景 その2
予定より少し遅れて到着した朝の駅は、人が多くて息苦しかった。
通学ラッシュに通勤ラッシュ。こればっかりはいつまでたっても慣れない。
高校、大学、社会人……下手をすれば一生の大半をこの圧力と共に過ごすのかと思うと、心の底からウンザリする。
――まぁ、どうにもならないんだろうけどさ。
人ごみを縫うように大樹が進んでいくと、ホームの半ばに見慣れた姿があった。
日焼け知らずの白い首筋がギリギリ見える長さで揃えられた艶やかな黒髪。
学校指定の制服を内側から押し上げる大ボリュームな胸元。
スカートから伸びる白い脚は、程よく肉が乗っているにもかかわらず細くて長い。
身長そのものはそれほど高いわけでもないのに、お尻の位置はやけに高い。
着崩しているわけでもないのに、どこもかしこも魅惑的にすぎる。
そして、髪の合間から見え隠れする整いすぎた顔立ち。
――大人びてるよなぁ。
ため息が零れた。
見間違えるはずもない。綾乃だ。
――掃き溜めに鶴……は言い過ぎか。
声をかけるのに、一瞬戸惑いを覚えた。
彼女を取り巻く一帯だけ、あまりにも世界が違って見えたから。
頭のどこかで『遠い』と感じてしまい、全身が硬直させられてしまったから。
「……怖気づいてんじゃねーぞ」
大樹はこぶしを握り締め、奥歯を噛み締めて、足を強く大きく踏み出した。
彼女を取り巻くホームの人間(大半は男だった)はお互いに目配せを交わし合い、牽制し合っているように見えた。
綾乃は我知らずと言った風情でスマートフォンとにらめっこしている。
混雑が限界突破しかかった朝の駅に出現した、奇妙な空白地帯。
そんな特異すぎる空間の在り様が、やたらと癇に障った。
「綾乃、おはよう」
「ん……おはよう、大樹」
スマホのディスプレイに指を這わせていた綾乃が顔を上げた。
そっと髪をかき上げて、耳からワイヤレスのイヤホンを外す。
重さを感じさせない黒髪と白い指のコントラストに目が奪われそうになる。
ハッと息を呑んだ大樹の耳にイヤホンから届いた聞き慣れない声、その正体は――
「……英語?」
「うん、英会話をちょっと。流してるだけだけど」
「へぇ、そういうの綾乃らしいな」
時間を惜しんで英語の勉強。
高校受験を目前に控えていた頃の記憶が甦る。
あの頃の地味な少女も、目の前にいる垢抜けた少女も、どちらも綾乃だ。
一年と少々の時を経て姿かたちは変わろうとも、中身はそうそう変わるものではない。
「それ、どういうこと?」
「真面目だなって思っただけ」
「あっそ……て言うか、真面目ってそれ褒めてるつもり?」
「褒めてるっつーの」
素っ気ない態度に、あっさりした声。
いつも通り会話できている自分に、心の中で胸を撫で下ろした。
どうしても今朝の母親との会話が思い出されて、先ほどから落ち着かなかったから。
同時にじろりと周囲を見回すと、それとなく彼女の様子を窺っていた連中が気まずそうに視線を散らした。
「大樹、何やってんの?」
「……別に何も」
一拍の間をおいて答えると、綾乃は軽く息を吐いて首を左右に振った。
丁寧にカットされた黒髪がふわりと風を孕んだ。
「心配してくれるのは嬉しいけど、わざわざ威嚇しなくてもいいと思う」
「いや、でもアイツら、綾乃をガン見して」
「見られるのも私の仕事のうちだから」
殊勝なことを口にする綾乃は、誰もが見惚れる端正な顔立ちに苦笑を浮かべていた。
人目を集めることをあれほど嫌っていた昔の彼女からは想像もできない反応。
諦めているようにも見えるが、少なからず嬉しそうにも見えた。
生来の生真面目な気質と最近育まれた柔軟な思考は、綾乃の中で矛盾することなく同居している。
――変わってないと思ってたけど……綾乃、変わったよな。
心の中で独り言ちた。
彼女が言わんとするところは理解できる。
理解はできるが……『はい、そうですね』と頷くことはできなかった。
「今日は学校に行く日だろ」
「それはそうだけど……」
「どんな仕事をしてたって、プライバシーとかは大切だと思うんだが」
仕事は仕事。
日常は日常。
プライベートの切り売りやサービスは必要ないのではないか。
そう問いかけると、綾乃はわざとらしげにため息をついた。
「はぁ……そういうところ、凄く大樹っぽい」
「……どういう意味か聞いていいか?」
「真面目ってこと」
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてるつもりだけど……ご不満?」
「いや」
「よろしい」
大樹に向けられた顔には、しばしばグラビアで目にする作り物の笑顔とは異なるニュアンスが載せられていた。
中学校時代には稀にしか見ることができなかったレアな表情。
優しげで、親しげで……でも、ちょっと困っているような複雑な感情のブレンド。
その柔らかい表情の裏に潜んでいる本音を読み解くことは、以前よりもはるかに難しくなった。
声色から察するに、ネガティブな方向ではなさそうだった。
「それにしても遅かったじゃない。何やってたの?」
じっと見つめていると……手元のスマホに表示されていた時刻を目にした綾乃が、不満を滲ませながら問いかけてくる。
「お袋につかまってた」
「何かやらかした?」
「違う。たまには綾乃を家に連れて来いってさ」
「そっか……確かに最近おばさんと会ってなかったね」
いたずらっぽく尋ねてきた後で、綾乃が優しく微笑んだ。
息子から見るとウザい母親だが、彼女にとっては別な姿に見えていたらしい。
人との関わりを拒み気味だった中学生の頃でも、綾乃は大樹の母に懐いていた。
だから――咄嗟に嘘をついた。口中が苦い。
大樹の母は今の綾乃を歓迎していない。綾乃も薄々察している。
彼女の口から『大樹の家に行きたい』なんて久しく聞いていない。
この話題をこれ以上続けるのは得策ではないと直感して綾乃を見やり、手元のスマホを見やって話の流れを変えることにした。
「綾乃こそ何やってたんだ……って英語の勉強か」
「ん? 違う違う。エゴサしてた」
しれっとした答え。
あまりにもあっさりした口ぶり。
その内容は、決してありふれてはいない。
――エゴサねぇ……
エゴサ。
エゴサーチ。
大雑把に言ってしまえば、インターネットの検索エンジンやSNSで自分の名前を検索すること。
要するに綾乃は朝から自分の評判を確認していたというわけだ。
もちろん現役女子高生『黛 綾乃』の評判ではなく、現役JKグラビアアイドル『黛 あやの』の評判だ。
「それ、大丈夫なのか?」
「大丈夫も何も、炎上するようなこと何もしてないし」
サラッと。
本当に何でもないことのように綾乃は口にした。
エゴサ。
炎上。
どちらもしばしば耳にする単語だが、あまり縁のない単語でもあった。
ほんの数文字の単語が、大樹と綾乃の間に距離を感じさせる。
大樹の感覚では、自分の評判なんてワザワザ検索してまでチェックしたいとは思わないのだが……綾乃の場合はそうも言っていられない事情があった。
『黛 あやの』はグラビアアイドル。
顔と名前(と肢体)を覚えてもらってなんぼの人気商売だ。
「昨日アップした自撮り、微妙だったかなぁ」
「……そうなのか?」
『黛 あやの』は最低でも一日一枚のペースで画像を投稿している。
投稿頻度を上げて人目に触れる機会を増やす作戦だそうだ。
素人考えでは、無料で写真を提供していたら勿体ないのではないかと思うのだが……綾乃に言わせるとそうでもないらしい。
『SNSを使いこなせないと生き残れないのよ』と真顔で言われて、つくづく怖い業界だと思った。たとえ美少女に生まれ変わったとしても、自分にはとても真似できそうにないとも思った。
なお、昨日の投稿は彼女が自分で撮影した写真だった。いわゆる自撮り。
何度か訪れたことのある見慣れた部屋と、見慣れている綾乃。
いつまでたっても見飽きることのない大胆な水着姿。
その組み合わせは、大樹にとっては破壊力抜群だったのだが……
「あれ、大樹的にはアリだった?」
「……アリだな」
返答までに、ほんのわずかな間が生じた。
大樹と綾乃だけが共有していたはずのプライベートな空間が、SNSを介して世界中の人の目に晒されているという事実が即答を躊躇わせた。
――綾乃はどう思っているんだ?
胸の奥から疑問が湧き上がってきた瞬間、耳に母の言葉が甦った。
大樹は首を振って煩わしい声を頭の中から追い出した。
綾乃を、綾乃が選んだ道を全力で応援する。
そう決めていた。
だから――聞けなかった。
聞きたかったけれど、聞けなかった。
我慢することも自分の役目だと言い聞かせた。
「そっかぁ……難しいなぁ」
自撮りだのエゴサだのは芸能人的には定番のネタなのかもしれなかったが、ほんの一年ほど前までその手の話題とは縁のない生活を送っていた綾乃にとっては、毎日が試行錯誤の連続らしい。
ホームに滑り込んできた電車に気づかない程度には、注意力は散漫気味になっていた。
スマホに気を取られる姿はイマドキの女子高生っぽかったが、それはそれとして傍で見ている分には何とも危なっかしい。
「電車来たぞ」
「うん」
軽く肩を叩いても、気のなさそうに頷き返してくる。
綾乃の瞳はSNSのチェックに忙しそうで、大樹の逡巡に気づいた様子はなかった。
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