第7話 儘ならない登校風景 その1

「今日は綾乃あやのちゃんと一緒なの?」


 玄関で腰を下ろして靴ひもを結んでいると、背後から声。

 振り返るまでもなく声の主はわかる。誰あろう大樹たいじゅの母親だ。

 家を出る間際になって母親が口にした言葉に、思わず眉を寄せた。

 まったくもってそのとおりなのだが、素直に頷くわけにはいかなかった。

 昨日コンビニで出会った綾乃から、今日は学校に行く旨を聞かされてはいた。

 しかし、大樹はそれを誰にも告げてはいない。SNSの類にも書き込んでいない。

 ……にもかかわらず、これである。


――エスパーかよ。


 心の中で舌を巻いた。ついでに舌打ちもした。

 何気なく発揮された母親の洞察力に戦慄を禁じえない。

 動揺のあまり息を呑んでしまったし、身体を硬直させてしまった。

 振り向くと……大樹に向けられる母の表情が曇っていた。予想どおりの顔だった。

 ここからの対応を誤ると更にめんどくさい事態に発展することは、十六年と少々の人生を振り返ってみれば明白で。

 こぶしをぎゅっと握りしめて、口を開く。

 なるたけ表情を表に出さないよう心掛けながら。


「……朝っぱらから何が言いたいんだよ、お袋?」


「はぁ……」


 抑制された大樹の問いに、憂鬱そうなため息が返ってきた。

 見下ろしてくる母親は――やけに煩わしそうだった。

 滲み出る不快感を隠そうともしていない。

 綾乃の件は完璧に確信されている。

 今さら誤魔化すのは無理だ。

 放置して家を出ることもできなくはなさそうだったが、ひとつ屋根の下で共に暮らす息子としては母親の態度に捨て置けないものを感じた。


「まぁ……昨日そんなことは言ってたよ」


「言ってたって……SNSとかで? 遅くまで話し込んでたりしないでしょうね?」


「違う。コンビニに行ったら、たまたま会っただけだって」


「……コンビニって夜中に? 綾乃ちゃんひとりだったの?」


「ああ」


「それは……ちょっと物騒じゃない?」


 母が眉を顰めた。

 実の息子が夜のコンビニに足を運んだことはスルーできても、年頃の少女である綾乃のことは見過ごせなかったと見えた。

 彼女を心配してくれることに安堵を覚える。

 その点については、大樹も完全に同感だったから。


「俺もそう思ったから注意しといた」


「はぁ……」


 これからは弟を連れてくるってさ。

 そう続けた大樹の目の前で、母親はこれ見よがしにため息を吐いた。

 ワザとらしいし、鬱陶しい。


「何だよ、それ」


「あの子、本当に大丈夫なの?」


「大丈夫って、どういう意味だよ?」


「……」


「黙ってたらわからないだろ」


 吐き出した声に怒気が混じった。


「……」


 露骨すぎる嫌悪の眼差しを向けられて、言葉に詰まらされる。

 実のところ、母親の言わんとするところを察することはできる。

 たとえ理解できても、断じて首を縦に振ることはできなかったが。

 

「はぁ……あの子も昔は真面目だったのに」


「『昔は』って言うなよ。アイツは今でも真面目にやってるだろ」


「あんな仕事を?」


 ドロリとした声は明らかに大樹を、そして綾乃を咎めていた。

 母親が思いっきり綾乃びいきであることを、大樹はよく知っていた。

 ただし……母親が好きだったのは、中学生時代の綾乃だ。今の綾乃ではない。

 グラビアアイドルとして絶賛活躍中の彼女を、大樹の母親は快く思っていなかった。


「お袋さぁ……仕事でひとを差別するとか、恥ずかしいからやめてくれよ」


『職業に貴賤はない』

 これまで大樹はそのように学んできた。

 真実であろうと思う。真偽はともかく、表向きは。

 少なくとも、人前で露骨な職業差別をすることは許されない。

 両親からもしつけられてきたし、学校でも教師がしかめ面して語っていた。

 しかして現実は――決して言葉のとおりにはできていない。


――あれだけ口うるさかった当の本人が、これだもんなぁ……


 母親の豹変が、とても悲しかった。

 綾乃と大樹の母親が初めて顔を合わせたのは、彼女を自宅に連れてきたときのこと。

 ともに高校受験を目指して頑張っていた中学三年生の頃で、当時の彼女は地味で真面目で、少し(?)素っ気なかった。

 綾乃を家に招いたのは一緒に勉強するためであって、他意はなかった。

 付け加えるならば、母親に会わせるつもりはなかった。

 ……そうは問屋が卸さなかったわけだが。

 

――あんなに大喜びしてたのにな……


 綾乃をひと目見た母親の興奮ときたら、ハッキリ言ってドン引きものだった。

 人間嫌いの気があった綾乃が目を白黒させるほどの猫かわいがりっぷり。

 真顔で『こんな可愛い娘が欲しかったのよ』などと言われても、息子としては反応に困る。

 綾乃も困惑していたように見えたが……喜んでいるようにも見えた。

 それ程に綾乃を愛していた母親が今の彼女を否定していることが、辛かった。

 高校に入学してから、大樹が綾乃を家に招いたことはない。


――とてもじゃないけど、会わせられねぇ。


 綾乃もまた自分を大切にしてくれた大樹の母を知っている。かつての大樹の母を。

 今の大樹の母がどんな目で今の自分を見ているか気付かないほど、彼女は鈍感ではない。


『お袋さぁ……綾乃がグラビアアイドルってどう思う?』


『どうって、いいわけないじゃない』


『いいわけないって、何で?』


『何でも何も……人前でいやらしい格好してお金をもらうような、あんな軽薄な仕事をする子じゃなかったと思ってたのに。せっかくいい高校に入ったのにもったいない。別にお金に困ってるってわけでもないでしょうに……あちらの親御さんも辛いでしょうね。同じ親として同情するわ』


 嫌悪感を溢れさせた物言いは、大樹にとって不快だった。

 そんな会話を交わしてから、もう一年以上の時が過ぎた。

 以来、大樹は家で綾乃の話題を出さないようにしている。


「早く行かないと遅刻するわよ」


 耳障りな声で現実に引き戻された。

 自分で呼び止めておきながら、この言い草。

 タブー気味な話題を振ってきたのも自分のくせに。

 カチンときた。


「……今から出ようとしてたところだったんだがな」


 言い捨てると、なおも母はジーっと大樹を見つめてきた。冷たい目。

 高校入学を、否、綾乃の芸能界デビューを機にくすのき家はギクシャクしている。

 大樹も母も互いに苛立ちを覚えているが、母はその感情を綾乃に向けている。

 あれだけ綾乃を可愛がっていたくせに……つくづく理解できないし、悲しかった。

 親子なのにわかり合えないなんて、そんなのは漫画の中だけの話だと思っていたのに。


「あなたからも、ちゃんと言ってあげた方がいいと思うけど」


「俺はちゃんとアイツのこと、応援してるよ」


「だからそうじゃなくって……大樹、待ちなさい!」


「行ってくる」


 ヒステリックな母の金切り声を背に、さっさと靴を履いて家を出た。

 これ以上綾乃を傷つけるような言葉を聞きたくはなかった。

 よりにもよって母親の口から。実の家族の口から。

 

「……イチイチうるさいんだよ」


 乱暴にドアを閉めて少し歩いて、つい愚痴が零れてしまった。

 頭を振って嫌な記憶を追い出そうと試みるも、粘つくような感覚が消えない。

 今日はたまたまだ。

 今日はたまたま母親の不満が表に出てきた。

 綾乃に対するネガティブな感情は、ずっと楠家に燻っている。

 

「チッ」


 癇に障る母親の言動が、綾乃あるいは綾乃の職業に向けられる一般的な見解から大きく外れていないことに強い苛立ちを覚えた。母親の言葉をどれほど強く否定しても……学校で、あるいはインターネットで情報を収集すれば嫌でも見えてくることはある。

 数は力だ。

 多くの人間が同じ意識を持っているのなら、偏見でも正しいものと見做されてしまう。

 綾乃がデビューして一年と少々、そんな場面に何度となく遭遇してきた。

 現実は、決してきれいごとだけでできているわけではない。

 だからこそ、大樹は強く心に誓った。

 

『どんなことがあろうとも、俺は……俺だけは綾乃の味方だ』


 両手で頬を軽く叩いて気合を入れ直した。

 これから綾乃と一緒に学校に向かう。

 情けない顔は見せられない。


――嫌な感情は、ここに置いて行かないとな。


 早朝の清涼な空気を肺一杯に吸い込んで、大きく息を吐き出した。

 ふと空を見上げると、春と夏の境目らしい晴天が広がっていた。

 朝日の眩しさに疎ましさを覚え、同時に心地よさも感じる。

 肌を撫でる風も、もはや見飽きた感すらある街並みも。

 何もかもが、いつもより鮮やかに色づいて見える。

 今日の大樹は、明らかに浮き足立っていた。

 自分自身で浮ついていると自覚できてしまうならば、他人の目から見てもバレバレに違いない。


――なるほど、お袋にバレるわけだ。


 自嘲の言葉が口から洩れかけた。

『これではダメだ』と何度も頭を振った。


「落ち着け、俺」


 心が緩むと口も緩む。

 どちらも緩むとロクなことにならない。

 慌てて気を引き締めて、口元を引き結んだ。

 朝も早くから弛み切った面を見せるわけにはいかない。

 朝も早くからしみったれた面を見せるわけにもいかない。

 

――深刻ぶってもダメだし、思わせぶりなのもダメだ。アイツと学校に行けるのは嬉しいけど、あからさまに喜ぶのもなぁ……


 あくまで自然体を維持しなければ。

 強く意識する大樹の足元は、本人が気づかないままに弾んでいた。

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