卑弥呼の神殿は出雲にある②

@takanosukan

第1話

第二章

 前章では、倭人伝に対する私なりの解釈を書いてきました(それがどんなに低レベルだとしてもね)。それらを前提にした上で、ですが、この章ではもっと大きな視点、具体的には、奴国が中国から金印を授かったとされる時代から邪馬台国を経て大和政権成立に到る経緯を考えて(妄想?して)いきます。時期的には3世紀(西暦200年代)の邪馬台国の時代を挟んだ2世紀から4世紀にかけての話しとなります。

 で、思考とは、要するに順番に考えを組み立ていくものなので、どのような条件(制約)の中でそうしていくかを予め提示しておきたいと思います。

 一点目は、地理的な制約です。妄想を語っている割りには常識的に過ぎるかもしれませんが、外形上、伊都国や奴国等の九州北部にあった諸国から大和(現在の奈良県)に政治権力が移っているようにもみえる以上、その間の時期に存在したであろう邪馬台国は九州北部から中四国を含めて畿内までの地域にあったと、考えたいと思います(大体、四国はともかく「中国地方」と、言う言葉自体が、伝説的に邪馬台国の存在を示唆していそうで、怪しいでしょ)。

 その理由は、例えば、倭人伝の「南国的な記述」を考慮すれば、邪馬台国沖縄説等にも一定の魅力はありますが、この範囲を飛びだした地域に邪馬台国を比定してしまうと、大和にそれなりの、つまり邪馬台国以上に統合の進んだ政治権力(政権)の成立を説明するのは困難になります。更に、もう一歩踏み込んで言えば、この範囲以外に邪馬台国があって、その後の政権が、何故、大和に成立したのか。その理由を探し出すなり捻り出す事は幾ら「トンデモ本」だとしても極めて難しいからです。

 また、古事記による國生み神話では、淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順番で国土は誕生したとされています。つまり、佐渡は少々離れてはいますが、これらの地域が、大和政権自身がイメージ出来る領域であり、倭人伝の言う所の「その他の二十一カ国等も含めた倭国(邪馬台国グループ?)の存在する地域」なのではないでしょうか。

 それとは逆に沖縄本島を初めとする南西諸島、種子島、屋久島、桜島はもちろん、瀬戸内海の中とはいえ、大和(奈良県)からは隠岐等にはるかに身近に感じられそうな小豆島や因島、江田島、大三島、或いは、当時は島であったはずの児島(今の児島半島)は入っていません。このような偏りも邪馬台国の領域を考える時には、考慮すべき事だと、私は考えます。

 次の条件は、狗奴国も含めて倭人伝に記載されている国以外には大人口を抱えた集団は存在しない事とします。実際には、統合の程度が低いながらも、人間集団が存在する事は有り得ますし、多分、けして少なくない人々が「国家」とは一定の距離を置いて地域の枠の中で暮らしていたとも思いますが、そうしてしまうと、結果として「邪馬台国の場所を考える」事は不可能になってしまうからです。

 更に三点目は、神話や伝説の扱い方です。基本、それらは少なくとも厳密な事実ではありませんから、本来、それを元にして歴史的(ちゃんとした歴史学では無いにしても)な話しを展開する事は成すべき事ではありません。歴史に対する冒涜以外の何物でもないからです。しかしながら、本文は「トンデモ本」ですから、そのような真摯な態度はとらず、それなりの材料として利用致します。

 以上、三点を出発点にしていきましょう。

 先ずは地理的な範囲をもう少し具体的に規定しましょう。それは、沖縄県と鹿児島県を除く九州、四国は高知県を除く3県、中国地方は全域、近畿では大阪府、京都府、兵庫県、奈良県を、邪馬台国等の候補地域とします。

 この中に投馬国、邪馬台国、狗奴国があったと考えましょう。問題はどう割り振るかです。もし、三国が全て九州にあったと考えてしまうと「では中四国以東に小国家を構成するような人々は居なかったのか」と、問われた場合に返答に困るはずです。3世紀にはほとんど人が居ないのに突如として4世紀に大和政権が誕生した事にしなければなりません。しかし、都市なり、国家なりは経済的な基盤が無ければ成立しません。当時の経済的なベースは基本、人力に頼る農業生産力です。従って経済力と人口は、ほぼイコールの関係となりますから、ほとんど人は「住んでいない」と、してしまうと政治権力の成立は不可能になってしまいます。結果、九州に三カ国は成立し難いと、言う事にならざるを得ません。

 同様に、投馬国、邪馬台国、狗奴国と東に、つまりは中四国以東、近畿までに三国を並べて存在した事にすると、今で言えば、福岡県とそれに近接する地域を除く九州中南部は無人地帯となってしまいます。つまり、三カ国は九州に一カ国、中四国以東に二カ国或いは、逆に九州に二カ国、中四国以東に一カ国の何れかにしないと常識的ではなくなってしまうのです。

 では、何れがより常識的でしょうか。倭人伝には「遠すぎて詳しいことは分からないので、国名だけ」と、言う記載がありました。そこを勘案すると、九州に二カ国は厳しくなります。あくまでも、北部九州(対馬)からの視点ではありますが、邪馬台国のさらに遠方にそれらの諸国があったと、捉えるのが常識的ですから、相‘当の奥行きが必要になります。従って、私は、九州に一カ国と考えるべきだと思います。当然、消去法的には、中四国以東に残り二カ国と言う事にならざるを得ません。

 では、その二カ国の配置をもう少し絞って行きましょう。第一候補は、やはり、大和になります。邪馬台国より統合の程度が高度な大和政権がある日突然「発生」するはずはありませんから、政治的にはともかく、経済的に考えれば、邪馬台国の時代の西暦200年代にもそれなりの人口、生産力が集中しているはずだからです。

 残った一カ国は、何処に比定されるべきでしょうか。条件の一つ目は、当時の人が道具(機械ではありません)を使う事で農地を維持拡大出来る場所であるべきです。九州から東に向かうと仮定して、そのような地勢は何処でしょうか。瀬戸内海沿岸は温暖ではありますが降水量も少なく、香川県を筆頭に現在でも農業用水を得にくい地域です。また、広島県の大田川のような大河川となると、今度は、有り余る水をコントロールしなければなりません。不可能ではないでしょうかが、莫大な労働力を長期にわたって投下し続けないと維持することすら困難です。

 さらに、瀬戸内海は、我々素人がイメージするより遥かに危険な海域です。複雑な海流、無数の暗礁、地元の人間の案内がなければ、航行すら困難です。我が国最強の村上水軍を始めとして中央権力の及びにくく、複数の勢力が緩やかに併存し、従ってアウトロー的な勢力が、少なくとも戦国期までは実質的に支配した地域でもあります。

 結果、消去法的に中国地方の日本海側が候補にあがってきます。近年の感覚で言えば、日本海側はさしたる港や都市が少ない印象となります。更に以前は「裏日本」等と揶揄されていましたから、先進的な地域だとは感じないはずです。あえて言えば「米と日本酒は、一級品だけど…」と、いった感じかもしれません。

 ですが、そのような感覚は、明治以降、もっと絞れば、戦後の1960年代の高度成長期以後の話しになります。実際、明治の末年まで、道府県別の人口では新潟県が全国最多ですし、巨大な出力を誇るエンジンがない時代は日本近沿海の南北航路は日本海側がメインでした(太平洋側は、東北地方から南下する場合に、銚子の犬吠埼付近が難所なので、利根川の水運を使うか、黒潮をいなしつつ伊豆半島の下田に大廻りして南西風を待って江戸を目指すのが普通でした)。

 で、九州北部から日本海側を進んだ場合に、最大の平野が候補地となります。地図を眺めれば、現在の出雲平野が直近になります。当時の道具と人力で何とか対応し得る斐伊川をはじめとした中小河川が広がってもいます。しかも、この後触れていく「神話・伝説」絡みで考えれば、三カ国の内、一カ国の有力な候補地となります。

 他には、吉備(現在の岡山県を中心とする地域)も有力な候補地となり得ますが、次節及び次章を展開する上で、都合が悪いので気がつかなかった事にします。

 第三点、神話・伝説の世界に関わって行きましょう。この章の冒頭でも触れたように、それらは歴史学的には、事実ではありません。その事はクドイですが、確認したいと思います。

 その事を認識しているにも関わらず、では、幾ら「トンデモ本」だとしても何ゆえにそれを利用使用しようとするのか。この点は以下の理由があります。

 まず、フィクションとは言え、そのような物語がなぜ創造、少なくとも伝承されてきたのかを考えてみましょう。結論から先に言ってしまえば、権力にとって、中でも正当性を獲得する為に神話等が必要だったからです。これは、プーチンでもヒトラーでもはたまた、昨今の日本の特に右派政治指導者達、そして、おそらくは強弱はあるにしても将来の全ての権力者に共通するでしょう。時には「民主主義の為」と称して戦争を起こし、国民等を吐き気を催すような殺しかたをしても「致し方ない」と、正当化するはずです。さらに言えば、政治に限らず、多少はニュアンスは異なりますが「これを持っていれば、貴方もセレブの仲間入りですよ」と、囁かれれば、人は妄想してその気になるものです。そして、この拙文もそれらに含まれてしまいます?。つまりは、人間とは愛を含めた妄想(神話)無しには生きていけない生き物なのです。残念ながら…

 やや脱線しましたが、話しを元に戻すと、要は自分たちに都合が良い過去、即ち歴史が必要なのです。そういう色メガネで、神話・伝説を考えてみましょう。全ての神話・伝説の類いを利用する事は能力的にも出来ませんので、基本的に次の二つに絞りたいと、考えます。

 一点目は「大国主命の國譲り」神話、次に「神武天皇の東征」伝説を基本的な材料にしたいと思います。何方も『古事記』に書かれたものをベースとします。

 で、本論?に入る前に、若干説明を致します。それは「神話」と「伝説」の違いです。神話は文字通り神様達の話し、伝説は人間が主人公と言う事になります。嫌みな言い方ですが、たとえば「〇〇高校の甲子園の不敗神話」と、言った表現は間違っている事になります。高校生達が想像を絶するような「クソ暑い」中で、どんなに魅力的なプレーをし、どんなに絶望的な状況でも最後まで諦めず、劇的な結果を残したとしても彼らは神様では無く生身の人間だからです。

 では、まずは國譲りから行きましょう。例によって漢文?を現代語化する能力はないので、岩波文庫版の『古事記』を我流で適当にいじくって書かせていただきます。やや、煩雑ではありますがおつきあい下さい(私の自己満足?、はたまた、歴史学を装う為の偽装工作?。なので、必ずしも読む必要はありませんが…)。尚、倭人伝同様にスマホで漢字を見つけられ無かった場合には、〇に置き換えています。ご了承下さい。

【故、更にまた還り来て、その大國主神に問ひたまひしく、「汝らが子等、事代主神、建御名方神の二はしらの神は、天つ神の御子の命の隨に違わじと白しぬ。故、汝が心は如何に。」ととひたまひき。ここに答へ白ししく、「僕が子等、二はしらの神の白す隨に、僕は違わじ。この葦原中國は、命の隨に既に獻らむ。ただ僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知らしめす、とだる天の御巣如して、底つ岩根に宮柱ふとしり、高天の原に氷木たかりして治めたまはば、僕は百足らず八十〇手に隠り侍ひなむ。また僕が子等、百八十神は、すなわち八重事代主神、神の御尾前となり仕え奉行らば、違う神はあらじ。」とまをしき。かく白して、出雲國の多藝志の小濱に、天の御舎を造りて、水戸神の孫、櫛八玉神、膳夫となりて、天の御饗を獻りし時に、〇き白して、櫛八神、鵜になりて、海の底に入り、底の赤土を咋ひ出でて、天の八十平〇を作りて、海布の柄を鎌りて、燧臼に作り、海〇の柄をもちて燧杵に作りて、火を鎌りでて云ひしく、(略して良くは無いかもしれませんが、後略)】

 以上が古事記にある「大国主神の国譲り」の一節です。この前節には、大和と出雲の交渉の経緯が書かれています。それらも含めて、難解で何を言っているのか、私には理解し難い部分もありますが、専門家の解説を元に自分なりに概略を書きます。

【大国主命が地上界を統治するのは、天上界の天照大神にとっては、好ましい事ではなかったので、まずは自分の長男を派遣して穏便に譲らせようとしましたが、彼は途中で地上界の無秩序状態を見てしまい天上界に戻ってしまいました。そこで、今度は、次男を派遣しましたが3年たっても帰って来ませんでした。さらにアメワカヒコと言う人物を派遣しましたが事もあろうに大国主命の娘と結婚してしまい8年たっても戻ってこなかったのです。そこで天照大神はナキメと言う雉を使いとして送り込んでアメワカヒコを叱責しましたが、アメワカヒコは嫁さんにそそのかされてその雉を射殺してしまったのです。

 我慢の限度を超えたと判断した天照大神達は、軍神タケミカズチと船神アメノトリフデを派遣して大国主命に國譲りを迫りました。

 すると、大国主命は二人の息子の意見に従いたいと、返答したのです。そこで、タケミカズチは、まず長男に國譲りを迫ったところ、承諾して引退しました。ところが、もう一人の息子は、軍神タケミカズチに力くらべを挑んだのです。結果はタケミカズチの圧勝となり、負けた息子は長野県の諏訪湖まで逃げましたが、結局、タケミカズチに降伏‘しました。

 「息子二人が承諾したのであれば、致し方ありません。地上界を譲りましょう。但し、巨大な神殿を建てる事が条件です。」と大国主命は条件付で地上界を譲りました。】

 チャンとした専門家には余りに無責任と、怒鳴られるレベルですが、以上が概略となります。

 ただ、最終的には「譲り受けた」と、言うよりは「再三再四、平和的に交渉しようとしたのに、大国主命(出雲側)が、対話にすら応じないので、仕方なく軍事的な圧力を加えて恫喝し、一部の徹底抗戦派を鎮圧した」と、言った内容です。言い訳しつつ、あたかも出雲側が悪いかのごとく主張しているわけですから、これを「國譲り」と称するには些か躊躇せざるを得ません。要は「侵略、ちゃーあー侵略」です。

 その「巨大な神殿」とは、具体的には、今の出雲大社とならざるを得ません。何故なら、平安時代(西暦970年)に成立した事典『口遊(くちずさみ)』によれば、当時の日本で大きな建物のランキング(多分、高さ)では、1位は出雲大社、2位は大和の東大寺大仏殿、3位が平安京の大極殿と、なっています。つまり、大和を中心とした畿内以外では、飛び抜けて大きな建物だからです。現状の出雲大社本殿も充分に大きい建物ですが、当時の高さは今の倍の少なくとも30メートル(言い伝えでは48メートル)はあったそうなので、巨大さ(高さ)は群を抜く存在であった事に間違いはないでしょう。第2位に比定されている東大寺大仏殿ですが、現在の大仏殿は、大仏自体も含めて江戸時代に再建された物ではあります。とはいえ、高さと奥行きはオリジナルとほぼ同サイズ(幅はおよそ3分の2)です。関東地方であればかなりの確率で修学旅行の際に訪れているでしょうから、当時の出雲大社の大きさは多くの方にとってイメージ出来るはずです。

 この事の意味は、712年に成立したと、される『古事記』の時代から少なくとも200年以上、神話を事実だと言い張る為に必要な現物が、少なくとも国家の直接間接を通じて様々な支援によって維持されていた事になります。そこまでして「継承した」と、主張したかった正当性を持つ前代の政権とは普通に考えれば、邪馬台国以外はあり得ないはずですが、如何でしょうか。

 そこを更に突っ込んで書けば、今の出雲大社の地下深くに卑弥呼の神殿が眠っているのではないかと、妄想したくなります。

 続いて、今度は「神武の東征伝説」といきましょう。

 現在の歴史学の認識としては、初代の神武天皇から第9代開化天皇までは実在しなかったと、されています(実在したであろう初代天皇は第10代崇神天皇となります)。前述したように「神話は神様、伝説は人間がそれぞれ主人公」と、言った手前もありますが、存在しなくても、一応は人間が主人公と捉え「神武の東征伝説」として話しを進めていきます。

 例によって、私の感覚と都合に基づいて内容を説明しましょう。

【神武天皇は、天下平定の為に東方へ向かう事を決意し日向の高千穂を後にしました。一行は宇佐を経由して筑紫の岡田宮に入り1年過ごしました。その後、阿岐國(あきのくに・現広島県)の多祁理宮に7年、更に吉備の高島宮に8年過ごした後に浪速にいたり登美の那賀須泥毘古(ながすねひこ)との戦いになりましたが、揚陸戦に敗れてしまいました。致し方なく、紀伊国熊野に周り大和を目指して進軍、途中で出会った八咫烏の導きもあって那賀須泥毘古に勝って畝傍の白橿原宮で即位しました。】

 このような物語が、ある程度、史実を反映しているのか、それとも、全くの作り話なのかは断定出来ませんが、少なくとも、このようなストーリーが必要であった事は認めなければなりません。さらに端的に言えば、前節の「國譲り」と、セットで考えれば、大和の在地勢力が、その存在に何らかの伝統性を持たせる必要はあったのかもしれません。つまりは全くの作り話である可能性は、相当高いとは思います。けれど、私自身は、このような征服があったと考えています。人は多少或いは若干でも事実を反映しない事をそう易々とは信じる事は出来ない生き物だからです(神話はそもそもが神様が主人公ですから、荒唐無稽で何の問題もありませんが、伝説となると、そうは行かないでしょ。少なくとも、ありそうでないとね)。

 次にこの伝説のポイントを考えてみましょう。まずは経路です。それが具体的に何処かは分かりませんが、九州の北部ではない「高千穂」から出発し、まずは北部九州に到る必要があったとすれば、少なくとその地域は勢力範囲ではない事は明らかですが、説得(軍事的な圧力を背景としたとしても)に1年で成功しています。従って、北部九州の勢力とは、それ以前に継続的な接触、接点があったはずです。単純化すれば、仲間なのかもしれません。

 次に瀬戸内海西部に7年居た事になっていますが、常識的に考えて平和的な手段でそんな長期間過ごしたとは、思えません。軍事的な制圧に要した時間だと考えるべきでしょう。さらに今度は、瀬戸内海東部に移って、ここでも同様に8年居た事になります。

 この7年と8年は相対的なもので「北部九州から遠い瀬戸内海東部の方が手こずった」と、いった感じだと思いますが、このような長期間の戦闘になってしまうには理由があるはずです。ここで、その点についての私の意見を述べたいと、思います。

 戦闘が長期間続いてしまうのは、二つの場合が想定されます。一つは、両者の戦力が拮抗していて、相手に決定的な打撃を与えつつ、しかも自軍の損失を最小限にしていくことを継続的に実行する事が難しい場合です。具体的には第一次世界大戦時の西部戦線、日本で言えば、応仁の乱、享徳の乱等がその典型です。

 そして、もう一つのパターンが非対称な戦争です。そう言われても、多くの方はピンとはこないでしょうから、具体的な話しから入っていきます。直近ではアフガニスタンでのタリバンとアメリカ軍がそれに当たります。最近の中国の軍備拡張は日本からみていてハラハラしますが、少なくとも後30年位は米軍が世界最強であるはずです。その最強の軍事力をもってして20年戦っても最終的には、アメリカの撤退(つまりは敗北)で終わりました。タリバンの武力は、所詮は、歩兵が携帯出来るほどの大した威力、性能も無い旧式兵器がその全てですが、非公式なゲリラ戦であれば、それで充分です。つまり、同じ土俵で戦おうとしない相手に勝つ事は難しいのです。

 オール九州的な戦力がありながら、容易には制圧出来なかったのは、後者、つまりは、非対称な戦闘を強いられたからでしょう。或いは、武力行使と説得を繰り返して仲間に引き入れる為に時間がかかったのかもしれません。何れにせよ、時間がかかったのは北部九州ほどの共通理解が無かったからですから、九州勢とは疎遠であった地域と人間集団であったはずです。

 その後の大和への侵攻には時間の説明が無いので1年以内の比較的に短い期間で達成されたように、私には感じられます。つまり、同じ土俵で戦力に優劣がある戦いであったはずです。

 その後、即位した事になっています。137歳で崩御したとされているので、我々と違って瀬戸内海での計17年間もさしたる事も無かったのかもしれません。

 この伝説のポイントは、九州中南部の勢力が北部九州勢と共に敵対的な勢力が蟠踞する瀬戸内海を制圧し、さらに敵の本拠地である大和を攻略し建国したと言う事に尽きます。

 つまりは、邪馬台国の時代にそれなりに勢力のあった国を、同様にそれなりの勢力があった別の国が破った事を、少なくとも主張している事になると、私は考えます。

 以上、二つの神話と伝説を絡めて話しをまとめてみると、大和政権は、大和にとっては外来政権であり、武力によってのみ成立した権力であったが為に、前代の権力、具体的には邪馬台国の権威を「継承した」と、言い張らなければ支配の正当性を維持出来ない程度の政権であった事にならざるを得ません。

 では、邪馬台国、投馬国、狗奴国はどう配置されるべきでしょうか。ポイントの一つ目は大和政権の歴史書である『古事記』『日本書紀』には女王の話しは一切登場しないことです。つまり、それは両者に直接的な繋がりは無い事を意味します。と、なると、九州中南部にあった神武の母国は投馬国或いは、狗奴国にならざるを得ません。

 二点目は、九州北部の制圧には長時間かかっていないのに瀬戸内海の支配には15年もの時間が必要であった事の意味をどう捉えるべきなのかです。繰り返しにはなりますが、私は、北部九州勢は神武の母国と少なくとも身近な存在であったと、考えます。その「身近さ」は、或いは、敵対的なものかもしれませんが、普通に考えれば、同盟国であったと、認識すべきではないでしょうか。また、征服する必要があった瀬戸内海や大和は、敵対的な地域となるはすですからつまりは邪馬台国(倭国)に含まれない狗奴国の領域だったと考えてよいはずです。もし、そうであるなら、九州中南部にあった神武の母国は投馬国であろうと、言う事になります。

 また、出雲から「国を譲ってもらった」と、主張せざるを得ないのも広い意味での倭国即ち広義の邪馬台国の構成国であったからこそだったからと、考えれば辻褄が合います。

 結果、神武に滅ぼされたのは狗奴国と、言う事にならざるを得ないのです。そしてさらに踏み込めば、瀬戸内海沿岸こそが狗奴国の元々の領域で出雲にあった邪馬台国と長年の間、戦を繰り返していたのではないかと、考えざるを得ません。水軍が主体の狗奴国と、陸上での戦闘に長けてはいても海上となると、イマイチな邪馬台国との非対称な戦闘は容易には決着がつかなかったはずです。そうこうしているうちに、邪馬台国が開発に努めていた出雲に似た環境の大和盆地まで征服されてしまったのかもしれません。

 そしてさらに妄想すれば、こうした状況に対して「このまま邪馬台国に狗奴国の対応を任せていたら、倭国は崩壊してしまうかもしれない。幸い熊襲勢とは一応は和議を結び九州南部は安定している。今こそ、長年の戦闘経験のある我ら投馬国が狗奴国を討つべき時だ」と、神武は檄を飛ばしたのかもしれません。

 この章で書いてきた事は私の都合から妄想してみた結果です。科学的ではありませんが、面白いとは考えています。如何でしょうか。

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