第2回 ふたりの月子さん

相変わらず暑い日々です。空を見上げれば羽のようなくしのような、フカヒレのような雲が流れています。入道雲は遠いので、もう少し近くで見たいけれど、遠くから見るからこそあの形が分かるのだから、不思議ですね。


今回わたしがのんびり考えていることは、そうぞうする、ってどっちだろう、というものです。と言ってもわたしは国語の勉強をするために筆をとっているわけではないし、そういうものは眠くなってしまうこともあるから、まじめに考えてはいません。いや、この文章を書いているあいだだけは、向き合うつもりです。エッセイ(と言って良いのか分かりませんが。)の紹介文に、まじめにやることはある、たまには、と書きました。その、たまには、を少しだけ考えたいのです。


そうぞうする、という言葉にはふたつあります。「想像」と「創造」。日本語は面白いです。日本語しか分かりませんが、そんなわたしでもそう思います。

最近わたしが紡ぐ物語は長くなって来ましたが、どこまであなたに想像してもらって、どこまでわたしは創造するのか、ということに悩むのです。


例えば。

公園に月子さんが立っています。月子さんって誰ですかって、そのひとのお話をしますから、お待ちください。始めましょう。


「その月子さんは、公園のベンチに座り、なにかをかじっている。」

が、ひとつめ。次に、

「その髪を肩までくるりとさせた月子さんは、誰もいなくなってしまった公園の冷たいベンチに座り、今しがた買ってきたばかりの、ほかほかの肉まんをかじっている。」

が、ふたつめ。他にもいろいろな表現方法はあるのでしょうけれども、わたしはこう書きます。そして悩むのです。最初の月子さんはあまり情報がないから、どんな髪型なのか、なにをかじっているのか、分かりません。そこです。肉まん月子さんは、いろいろな、少なくともベンチ月子さんより、多く表現されている。はず。


そこでどちらが良いのかな、ということです。ベンチ月子さんには、いろいろな想像をすることができます。髪が金髪で、刺すように真っ直ぐで、わやわやした昼間の公園で、ハンバーガーをかじっているのかも知れません。もしくは…、と考え出すときりがないのでやめますが、ベンチ月子さんは多くの謎があります。そこを想像していただく。


肉まん月子さんは、わたしがほぼその月子さんをえがいてしまったので、少なくともハンバーガーは出てきません。見えるものが多くて、他の月子さんを想像することがむずかしくなります。なりませんか。それではこのお話は終わってしまいます。もうしばらくお待ちください。


強引に続けますと、わたしはどちらの月子さんを物語に登場させてえがいてあげれば良いのか、悩んでいるのです。わたしは肉まん月子さんを創造するのが楽しいですが、本来はベンチ月子さんがいたほうが良いのかしら。もちろん、お話の前後でその月子さんがどんなひとなのかは分かりますが、あくまでそのひと場面を考えたときに。


わたしがかちりと創造することと、みなさんにもしか、と想像していただくこと、どうしたら良いのか、考えているのです。


短編小説を書いていた頃は、ほぼ「ご想像におまかせします」スタンスで、終わったのか続いたのか、あの人物は何だったのか等、良く分からないまま幕を閉じた物語が多くありました。それはそれで良いと思いますし、読んでくださったかたが、いろいろ考えて伝えてくださったとき、おお、と思ったことも多くあります。なるほど、お話のなかのあの子はそういう子だったのかも知れない。創造に想像が重なったわけです。


しかし、ひとによっては「丸投げではないか、これはどういうことだ」と思われるかも知れませんよね。それもそうです、そのような物語は、わたしのなかでたいていかたちが決まっていなかったからなのです。(全てではありませんでしたが。)


しかし、長編となるとそうはいきませんでした。現在公開しているものより先に執筆途中のお話は進んでいるのですが、わたし自身がちゃんと背景を頭に入れていないと、登場人物たちの動きがあやふやになってしまいます。というか、実際あやふやになってから決めたことも多くあります。わたしのやりかたは、こんなものです。ごめんね、わが子たちよ。


ゆえになかなか想像してくれ、ということが出来ない場面が増えています。というより、わたしが意図的に説明しているようなシーンが多くあります。それは、短編でえがいたふんわりしたものではなく、かっちりお伝えしないと、あとあとおかしなことになるからです。短編のように「あとはよろしく!」的なことが出来ないのです。


月子さんのお話に戻りますが、短編がベンチ月子さん。長編が肉まん月子さん、ということになるのです。しかし、長編でも、ベンチ月子さんに近づけることはできます。ようは「髪はくるっとしてるんだけど、なにをかじっているかは想像してね!」ということです。


悩みますね。悩んでいます。わたしであれば、半分くらいは月子さんのことを教えてほしい。しかし全てだと少しつまらない。もう少し月子さんのことを、想像させてほしい。髪をつんつんさせているかもしれない、それは分からない。しかし表記されているように肉まんをかじる月子さん、を頭のなかで求めたい。

求めたい。と言いながら頭のなかはこれを書きながらとっ散らかっていきます。月子さん、そのハンバーガーと肉まん、どっちもくれ。


答えはないのです。迷っているのです。それゆえ、ここでたらたら書いてみたのです。

みなさんならどう書きますか。どう読むのが楽しいですか。


今年のゴールデンウィークに、自分の部屋を開けて、そこに座っているおばあちゃんがいました。アパートの一階でしたから、そこを行き来するひとびとが良く分かります。おばあちゃんはにこにことして、わたしが連れていたいぬにも微笑んでくれました。


わたしは家族に言いました。どこかに行く予定はないのかな、あそこにずっといるのかな、これから続く連休もそうなのかな、と。すると家族は言いました。そんなことをいちいち考えていたら、生きていけないよ、と。いや、突き返されたわけではないのです。しかし、ほんとうにそうなのかなあ、と思いました。おばあちゃんにあなたのことを教えてください、とは言えないので想像するしかないわけですが、それはわたしの頭のなかに、いくつあっても良いのではないか。(おばあちゃん、失礼な想像していたらごめんなさい。)そう思ったのです。


小説を書くことは、それに似ていると思います。わたしはそのおばあちゃんを想像して、創造したいのです。すると、わたしが想像したことは、形になります。それが楽しいのです。


映画のメイキングで、監督のお話があったりしますね。例えば、「ここはこう伝えたかったから、力を入れたよ。」と言うような。なるほどと思います。お話がより頭に入ります。


反して、考察サイトが盛り上がる映画もあります。あのシーンはこういう意味じゃないか、あのアイテムはあれを示していたんじゃないか。それもまた楽しいです。観たあとでも、物語がつづいてゆく気がします。しかしそういうサイトでネタバレを見て落ち込むことがありますから、気をつけましょう。わたしは見ました。


なんだかぐるぐるしてきまして、月子さんのことしか頭にありません。簡単に言えば、全部書くか、丸投げするか、悩んでいるよ、という話です。まとめると上記の文面は全て灰と化しました。さようなら、月子さん。


たまにはまじめにだって?これが?そう思われるのも仕方がありません。わたしが誰よりそう思っています。取り留めなく、いやもっとばらばらに書き殴ってしまいました。


物語を読んでもらうより、エッセイらしきこれを渡すほうがずいぶんと恥ずかしい気がします。なにより、ノンフィクションですからね。わたしの仕方のない(残念な)部分を露呈しているわけです。


恥ずかしいですね。実に恥ずかしい。でもまた書くと思います。頭のなかは相変わらず散らかるばかりですが、それもまた良いものでしょう。おそらく。


ここまで読んでくださったあなた…とまた言いたいところですが、たいせつな言葉は何度も言えば良いというものじゃないし、いや、わたしは嬉しいですが、感謝しています。

また読んでくださいますか。次回もまた下の数行でまとまってしまうかも知れませんが…。と逃げ道を作るのはやめましょう。


日差しに洗濯物がはためいています。

その日差しの強さはどれくらいで、何が干されているのでしょうね。


それでは、また。


2022年7月28日

桐月砂夜

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そんなことを、徒然に。 桐月砂夜 @kirisaya

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