第5話 魔王さまに会心の一撃(突然のデレ)! 「ご寵愛の君」に痛恨の一撃(衝撃の事実)!
ロンシンの執務室に連れてこられたサリーユはそっとソファに降ろされ、押し殺した息をこぼした。抱き上げられている間は全身を緊張させていたので身体が凝ってしまった。
「サリュ、お茶飲む?」
手ずからお茶を入れようとしている国の最高権力者の姿に血の気が引く。
「わたくしが――!」
「いいからいいから。私の腕もなかなかのものなんだから」
座ってて、と言われ、立ち上がるわけにもいかなくなる。
そわそわと待っていると、いい香りが鼻先をくすぐった。
「はい、どうぞ」
かたり、とデスクの上に置かれたカップは澄んだ赤色の茶で満たされている。口に運べばより華やかな香りが鼻腔をくすぐり、適度な渋みと甘みのある味が舌を喜ばせた。
「……おいしいです」
軽く目をみはったサリーユに、ロンシンは「でしょ」と得意げに笑う。
自分の分のカップをサリーユの前の席に置くと、腰を下ろす。
「さて」
組んだ足の上、膝に頬杖をつくと、彼は藍色の目を細めた。
「今さっき起こった件、サリュはどう見る?」
彼には全体像が見えているのだろうに、答え合わせのように問いかけてくるのはこちらの理解を試しているのだろうか。
どうしてそんなことをされるのかはわからないものの、ロンシンが問うのならば答えねばならない。
サリーユもカップをデスクに置くと、胸の前で両手を組んでそこへ視線を落とした。
なぜ、今回の件――リリシャの暗殺は計画されたのか。
「現在、ジラッド王家は表立ってこそ対立していませんが、王太子殿下およびリリシャ殿下の陣営とラーニ王妃の陣営に分かれています」
順序立て、自分の中にある情報を整理して言葉にしていく。
「それは従来通りの親・月燐花陣営と、血縁を重視する親・アールノア陣営とも言い換えられます」
ラーニ王妃ははっきりと明言はしていないものの、身内を重用すること、その身内であるミルテの発言からも、今以上にアールノア帝国の後ろ盾を求めているらしいことがわかる。
「しかし、力が拮抗しているからこそ、両陣営とも下手に相手を刺激することができないのでしょう。ノードン陛下もご健在であらせられますので」
拮抗する力でぶつかれば、互いに無事ではすまない。それに両陣営に対して現状中立的な態度をとる国王ノードンがいる限り、下手な手を打てば制裁を受けるのは自陣となる。
「そこに、今回のリリシャ殿下の月燐花訪問が決まりました。これで陛下との縁談がまとまれば、リリシャ殿下ひいては王太子殿下の後ろ盾として月燐花がつくことになります」
「私にリリィと結婚するつもりは最初からないんだけどね」
ロンシンはそうぼやくが、本心がどうあれ外からどう見えるか、ということが大切なのだ。
サリーユはかまわず話を続けた。
「それはどうしても避けねばなりませんし、できればこれ以降月燐花の干渉を避けたい。そうなるといちばん手っ取り早いのはリリシャ殿下の暗殺でしょう」
それも、暗殺は月燐花側の過失の結果、というおまけが欲しい。
そうなればロンシンとリリシャの結婚は阻止されるし、リリシャの死に責任のある月燐花からの干渉はこの先排除しやすい。
「……今回の暗殺の実行犯に仕立て上げられる予定だったのは、本来だったらわたくしたち接待役、だったのだと思います。わたくしたちも殺される予定だった」
「たぶんね。魔族に対して差別的な侍女や侍従が多くそろえられたのもそのせいだろうし。差別的な発言に耐えかねてジラッド側を襲撃、そこに巻き込まれてリリィとリエルグは死亡、襲撃者もジラッド側の応戦の結果死亡、みたいな」
お粗末な筋書きだよ、とつまらなさそうにロンシンは鼻を鳴らした。
お粗末だろうと、否定しきれなければジラッドとの間の禍根になる。それで十分だ。
「リリシャ殿下のお兄さま、現在のジラッド王太子殿下は性質のおだやかでおやさしい方とうかがっております」
良く言えば争いを好まない。悪く言えば権力闘争には向かない。
「お互いを支え合うリリシャ殿下を失い、月燐花の後ろ盾も満足に得られなければ、彼はラーニ王妃陣営の敵にはなりません」
力の拮抗は、王太子とリリシャが揃っていればこそ。片方だけでは潰される。
ふ、と一呼吸おいて、サリーユは視線をまっすぐロンシンへ向け、確信を込めて問いかけた。
「リリシャ殿下は、あえて今回の計画を誘ったのですね?」
孤立無援の王太子の廃嫡など簡単にできる――ラーニ王妃側がそう思っていることをリリシャは知っていた。自分が機会を用意すれば、おそらく王妃側が乗ってくることも。
対するロンシンは満足げな笑みを浮かべてひとつうなずいた。
「そう。リリィは王妃の尻尾を捕まえたかった。もちろん、今回の件だけではうまくいかないだろうけど、まずは国内に自分を狙う『不逞の輩』がいることを証明したかったんだろうね」
王妃の遠縁とはいえ、おそらく暗殺に失敗したミルテはトカゲのしっぽのように切り捨てられ、見捨てられる。だが、国内にリリシャを狙った人間がいたことを証明することの意味は大きい。
これから先、リリシャと敵対する動きをとれば、それは今回の暗殺未遂と結び付けられかねない。
「それで、この件、どう片をつけるべきだと思う?」
にこっと笑って問いかけられ、サリーユは思い切り眉間にしわを寄せてしまった。
「それは――」
「ただの雑談だよ」
一文官が具申すべきことではありません、と断ろうとした機先を制された。
「ユーイエが報告に戻ってくるまでの、ちょっとしたおしゃべり。付き合ってくれるでしょ?」
そう言われてしまっては断りづらい。
再び組んだ指へ視線を戻して、今度は情報を整理するだけでなく、もう少し深く考える。
かつて一度だけ祖母と行った避暑地の湖にもぐったときのことを思い出す。深く、深く、もう少しだけ深く。音が遠ざかって、光が遠ざかって、しんしんと暗闇と静寂が全身を包んでいく。
「陛下」
思考を沈ませながら、確認すべきことを口にする。
「今回の件、前もってリリシャ殿下から説明されていましたね?」
「うん」
あっさりロンシンは肯定する。
「それとは別に、リリシャ殿下から頼まれごとをされませんでしたか?」
「うん。よくわかったね」
次の問いかけも肯定される。
「リリシャ殿下は、自身をもっとも有用に使うすべをご存じの方とお見受けいたしましたので」
彼女は完璧な「お姫さま」だったけれど、それは役目を完璧に演じているだけだ。彼女の本質は、もっと別のところにある。
彼女は、ロンシンに似ている。
そこまで考えたところで、水中から戻って息継ぎをするように顔を上げる。
「リリシャ殿下は、いずれ王位を継いでジラッドの国王となられるつもりなのですね? そのために、陛下の後ろ盾を求めにいらっしゃった」
それが今回の訪問の、いちばんの本題。
「当たり」
たのしそうにロンシンが笑う。
「ね。私がリリィとの結婚なんて考えてなかったように、あの子も最初から私と結婚するつもりなんてなかったんだよ」
国主どうしの婚姻の前例がなかったわけではないが、それは特殊な例であって月燐花とジラッドでは成立しないだろう。
兄の性質が為政者に向かないことをリリシャは重々理解していた。逆に自分にはその資質があることも。
ジラッドは男女ともに等しく王位継承権を認めている。現在、リリシャの継承権は二位。兄である王太子さえ継承権を放棄すれば、彼女が一位に繰り上がる。
「リリシャ殿下のお申し出は内々にお受けください。実際に後ろ盾として動くのは、リリシャ殿下が実際に立たれてからでよろしいかと」
「うん。リリィもそうして欲しいって言ってたからね」
そのつもり、とうなずくと、ロンシンは「それから?」とサリーユをうながす。
「今回の件の処分はリリシャ殿下に一任を。ただし、処分内容が決まったら、処分の実行はこちらで行います。実行犯をジラッドには帰しません」
どうせ顛末を見届ける目的でひとりふたりの間者か、ユーイエのピッピのような遠隔操作型の魔術具が潜り込んでいるはずだ。情報はじゅうぶんラーニ王妃側に渡っているはずだし、失敗した暗殺者が戻ったところでろくな受け入れ先はあるまい。
それならば以降余計なことをしないよう、目の届くところに置いておいた方がいい。
「リリシャ殿下を通してジラッドから正式な謝意の表明も欲しいところです」
たとえリリシャ本人が計画を誘導したとはいえ、王女の暗殺計画を阻止したのだ。国と国の対応として、正式に「ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」という一言をもらわねばなるまい。今回の件で月燐花はジラッド王国に恩を売るのだ。
いずれ国王となったリリシャが関係を変えていくかもしれないが、現時点では月燐花とジラッド王国は友好国であっても対等な間柄ではない。そこは(主にラーニ王妃の陣営に)はっきりさせておかなくてはならない。
それをリリシャ経由でするのは、今後リリシャが月燐花との仲介役となることを定着させることが目的である。後ろ盾として動く際にも、それまでの経緯があればリリシャが月燐花と密に連絡を取っていても怪しまれないからだ。
「その程度でいいのではないでしょうか。あまり大ごとにすべきだとも思いません」
あまり騒ぎ立て、騒動がジラッドの民まで伝わればリリシャに「暗殺を企てられた王女」という印象がついてしまう。その動機が単純な権力闘争に起因するのだとしても、人は邪推するものだ。
リリシャにも落ち度があり、それゆえ暗殺を企てられたのではないか、などと。
王位を目指す者として、民の印象を悪くすることは望ましくない。
どうですか、とロンシンをうかがえば、彼はたいそう愉快そうにうなずいた。
「いいね」
どうやら彼を満足させる答えだったらしい。何を試されていたのかはやはりわからないままだったとはいえ、ほっと胸をなでおろしたサリーユだったが――。
「その案でいこう」
続けられた言葉に思い切り顔をしかめた。
「雑談だとおっしゃったではありませんか」
「雑談だけど、それを採用しないとは言ってないよ」
そんな屁理屈を、と眉を下げたサリーユに、ロンシンは軽やかに笑う。
「それに、私もほぼ同じ意見だからね」
それならばサリーユの雑談など必要なかったのではないだろうか。
「ほぼ、だよ。サリュの意見のほうが得るものが多そうだし。聞いてよかったよ」
そんなサリーユの内心を読んだように彼は藍色の目を細める。
「君には私にはないやさしさと忍耐がある。それはもっと誇るべき美点だ」
慈しみを宿した口調で告げ、その後、ロンシンは表情を改めた。
「サリーユ」
「はい」
真剣な――目の前に立つ者すべてをひれ伏させる威厳を帯びながら、彼本来の誠実さを感じさせる目で見つめられ、愛称ではなく滅多に呼ばれない名で呼ばれ、居住まいを正す。
「今回のこと――リリシャの襲撃を事前に予見し、それに対処したこと、リリシャの応接役として求められる以上の働きであった」
口調もいつもの気安いものではなく、王として臣下に接見する際の改まったもので語りかけられる。
「……もったいないお言葉です」
ソファから立ち上がると、サリーユはすっと腰を落としてひざまずく。
「リリシャに何かあれば、古く親しい仲であるジラッドとの間に確執が生まれてしまっただろうし、私は幼いころからの友人を失うところだった」
一度言葉を切ると、ロンシンはおだやかな声で告げた。
「君のような臣下を持てたこと、誇りに思う」
ああ、彼は知らない。その言葉だけでサリーユの胸があたたかな幸せでいっぱいになることを。
リリシャに傷ひとつなかったのは正直リエルグの功績が大きいが、少しでも自分が役に立てたのならよかった。「魔族返り」として生まれてきて、あのとき魔法を使える自分でよかった、と心の底から思う。
うつむいているおかげで、しまりなく緩みそうになる表情は彼からは見えないはず――だったのだが。
「サリーユ。君に感謝と――謝罪を」
信じられない言葉とともに、気配が近づいてきてサリーユの前まで来るとしゃがみこんだ。
「陛下?」
思わず顔を上げれば、サリーユと視線が合うところにロンシンの顔がある。
謝罪? 今、この陛下は謝罪と言ったのか。
動揺するサリーユに構わず、彼は言葉を続ける。
「君の役目と、それに対する覚悟を軽んじた」
リリシャの部屋へ向かう直前のやりとりを思い出す。その後のごたごたのせいですっかり忘れていた。
「いえ、あれはわたくしも身の程をわきまえない発言でした……」
今でもあの時の発言が間違っているとは思わないが、もっと言いようがあったとも思う。
「だが、君は正しかった」
君だってそう思っているのだろう、と見透かしたように目を覗き込まれ、ぐっと言葉に詰まる。
「責めているわけではない。むしろ、これからも私が間違っていたら、率直に告げてほしい」
己の否を告げてもらえず、認められない君主など、権力を握るべきではないのだから。
おだやかに目元をやわらげたロンシンに、サリーユは改めて首を垂れる。
「……御心のままに」
彼が間違うことなど――サリーユに対する過保護以外では――滅多にないのだが。
「では、私の謝罪も受け入れてくれるね?」
そもそもあれは改まって謝罪されるほどのことではない。頭を下げたまま沈黙を保つことで肯定を示す。
「サリーユ」
手をとられ、顔を上げるように促される。
「では、感謝と謝罪の証に私に何か贈り物をさせてほしい」
「そんな! そこまでしていただく必要はありません!」
もはや条件反射で首を横に振ったが、ロンシンは引き下がらなかった。
「友好国の王女であり私の旧友の暗殺を防いだことは褒賞に値するし、謝罪については受け取ってもらえないと私の気がすまない」
いつもの彼ならばともかく、国王としてふるまう彼にそう言われてしまうとやたらと無下にするわけにもいかないのだが、サリーユは往生際悪く反論した。
「リリシャ殿下の件については、わたくしではなく陛下が対処されても何ごともなく収まったかと存じますが……」
あれは、あきらかに花を持たせてもらったのだと思う。
結局わたくしも助けていただいてしまいましたし、と歯切れ悪く言いつのったのだが――。
「サリーユ、君が言ったんだ」
美貌にやたらと慈愛深い笑みを浮かべ、ロンシンが逃げ道を潰してくる。
「それとこれとは話が別だ。君は確かに功を立てた。そして国王たる私には臣下の功をねぎらう義務と、民を守る責務がある」
サリーユが己の役目をまっとうしようとしたように、彼も国王として臣下であり民であるサリーユに与えるべきものを与えようとしているだけだ、と。
「それに、過分な褒賞は与えるべきではないけれど、働きに応じた褒賞を与えないのも良くない。そうだったね?」
かつての自分の言葉を逆手に取られ、うぐぅと歯噛みする。
反論がないことを見てとると、ロンシンはサリーユの手を引いて立ち上がる。
「さて。実際に贈るものだが、何がいいだろうか」
小首をかしげ、早速たのしげに考え出す。
「文官としての地位か、報奨金か、それとも領地か……。サリーユ、君には何か望みがあるのかな?」
なるべく大物が来ないように祈りつつ身構えていたサリーユだったが、唐突に問いかけられ顔が強ばる。
必要ありません、が通じない今、下手なことは言えない。
「物でも、物でなくても、私にかなえられることであれば一考しよう」
一考してくれればいいが、口にした瞬間叶えられそうで怖い――と思ったところで、ふと思いついてしまったことに硬直する。
「何だ?」
目ざとくサリーユの顔色の変化に気づいたロンシンにサリーユは言いよどむ。
身に余る地位や領地を下賜されるよりはましかもしれないが――だが、自分の思い付きはあまりに身の程知らずが過ぎるのではないか。
「君が決められないのならば、そうだな、シンフゥの領地と離宮を――」
「申し上げます!」
が、領地と離宮というとんでもない合わせ技が飛んで来そうになったので、さっさと白旗を上げてまだましな自分の希望を述べることにした。
「……今から十数える間、わたくしが行うことの罪科を不問にふしてくださいませんか」
「それだけでよいの?」
こくりとこわばった顔でうなずけば、ロンシンはおもしろそうに笑みを深める。
「私は日ごろのうっぶん晴らしに殴られたりするのだろうか」
「そんなこといたしませんよ!」
危害を加えるつもりはない。場合によっては、それよりも問題のある行為かもしれないけれど。
「よい。許そう」
あっさりと許可を出し、彼は「それで?」と問いかけてきた。
「私はどうしていればいい?」
「そのまま、立っていてください」
では――と告げると、サリーユは再びひざまずいた。
自分を見下ろす至高の君の顔をまっすぐに見つめ、唾を呑み込む。
胸に湧きあがるのは、甘美な背徳感。
「ロンシンさま」
緊張に震えつつ初めて口にした彼の名はとても甘い。
ロンシンの藍色の目が大きく見開かれる。
だが、まだこれで終わりではないのだ。サリーユは強欲なので。
「誠心誠意お仕えしますので、どうか末永くおそばに置いてくださいませ」
長らくつないだままだった彼の手を自分の口元へ引き寄せると、手の甲へそっとくちづける。
リリシャにはできて、サリーユにはできなかったこと。
ロンシンの名を呼ぶことと、親愛のくちづけ。
立場なき一臣下であるサリーユには決して許されないそれを、一度でいいから、させてほしい。そんなこと恥ずかしくて言えなかったから、不敬行為への咎を科さぬことの担保だけを求めた。
臆病で卑怯な自分に嫌気がさすが、サリーユにはこれがせいいっぱいだ。
リリシャとの結婚は否定されたが、いずれその時はやってくる。それでも、今日のこの記憶があれば、自分はきっとロンシンの結婚を祝福できるから。
「サリュ、それは、んんっ」
たった今までの国主然とした威厳を消し飛ばし、ロンシンがぎゅっと眉間にしわを寄せて何かに耐えるように天を仰いだ。
「へ、へい――」
自分はそんなにまずいことをしただろうか、とあせったサリーユが腰を浮かせたところで、やはり何かを吹っ切るようにこちらに視線を戻してきたロンシンとばっちり目が合った。
「あーーーーー、死ぬかと思った。キュンキュンして死ぬかと思ったよ……」
またわけのわからないことを、と思ったのだが、ロンシンのとてつもなくいい笑顔に口をつぐむ。
まばゆい。彼の満面の笑みにはありとあらゆることを押し通す力がある。
「ねぇ、サリュ。結婚しよう? 今すぐしよう?」
そうしよう、と妙に清々しく言い切った彼につかんだままだった手を逆に引かれそうになり、サリーユはぱっと後ずさった。
だが、残念ながらその笑顔でも押し通してもらっては困ることもある。
「だめです!」
もはや脊髄反射の域で返事が口から飛び出していった。
「なんで!」
聞き分けのない子どものように応じられ、サリーユもつい感情のままに言い返す。
「陛下だってご存じじゃないですか」
「サリュと結婚できない理由なんて知らない」
うそだ。知っているくせに。
「わたくしとアールノア帝室には、確かに血のつながりがあるのです」
苦々しい思いでその事実を告げる。つい先ほども出たばかりの話だ。忘れたとは言わせない。
身分が、だとか、実家の所業が、だとか、本当はそんなこと大した問題ではないのだ。いや、軽視できる問題ではないが、それはどこかの有力魔族の家の養女になるだとか、やりようはいくらでもある。
どうにもならないのは、サリーユの出自、その一点だ。
矛盾したことを言っている、とわかっている。
サリーユの祖母は降嫁して皇族の身分を失ったし、サリーユ自身もシュアラン家との縁を切った。ミルテには確かにそう言った。
だが、血のつながりは消し去れないし、サリーユは祖母と同じ色の目を持って生まれた。
「アールノアは強欲です」
サリーユは知っている。
自分の手首の祖母の遺品――かつてはいつだって祖母の手首に巻きついていたそれ。生前の祖母がサリーユの前でそれを外したのは後にも先にも一度だけ。
あの夏。祖母がサリーユを避暑地に連れ出してくれた夏。一面に咲き誇る花畑で、祖母は唇に一本指を押し当て「ないしょですよ」とささやいた。
ブレスレットを外し、日傘を畳んだ祖母の目は、見る見るうちに黄金色へと変わっていった。それは、サリーユの感情が高ぶったときと同じ色だった。
それだけで、それがどういうことなのか、幼いサリーユにもなんとなく理解できてしまった。
祖母は「魔族返り」だった。サリーユとは違い魔法は宿していなかったけれど、日の光の下で色の変わる目を持って生まれてきた。もちろん皇女が「魔族返り」など外聞が悪い。だから、目の色が変わることを抑制する魔術を付与したブレスレットを常に身につけて、可能な限り日の光の下には出なかった。
身体がそれほど強くないのは確かだったけれど、日の光が浴びられないほどではなかったのに。
シュアラン家の先代――祖母を娶った祖父は戦上手で、帝室への忠誠心も厚い人物と知られていた。そこを見込まれ、すべてを知ったうえで祖父は祖母を娶ったのだ。帝室からの信頼の証として、彼は祖母を大切にしたことだろう。
父がその事実を知っていたのかはわからない。おそらくうっすらと感づいてはいただろうが、彼は母の秘密を見ないふりして――そうしてサリーユが生まれた。
祖母がサリーユを庇護したのは、サリーユが自分と同じ身の上だったからだ。かつて、誰かが祖母を守ったように、今度は自分の番だと思ったのだろう。
祖母が自分を愛していなかったとは思わないし、祖母が帝室の家族に愛されていなかったとも思わない。祖母が持参金がわりに持たされた土地は――あの避暑地のあった土地は――本当に豊かで、美しい場所だったから。
だが、愛があることと利用することは両立する。
アールノアの前々帝は、「魔族返り」の娘を忠誠心厚い領主へ嫁がせることで彼のさらなる信頼を得たし、月燐花に接する領地に自分の血縁を配することで月燐花への牽制としたし――これはのちにあっけなく無視されたが――、万一シュアランの家系に祖母の「魔族返り」の特徴を強く持つ者が生まれたらエリム教の力を借りて家を取り潰して直轄領として併合することも考えていたかもしれない。
サリーユに教養と礼儀作法を教えながらも、隠すように育てることを祖母が了承したのは、自分の生家の思惑を理解していたからなのでは。サリーユにはそう思えるのだ。
「わたくしが陛下の后になることが決まれば、アールノアは必ず血縁関係を持ち出して月燐花に干渉しようとしてきます」
リリシャがすぐにサリーユの出自にたどり着いたように、アールノアはサリーユが自分たちの親族――それも、それほど直系から離れていない血縁者であることに気づくだろう。それがエリム教で忌まれる「災いの子」だとしても、利用価値があるならば彼らは迷わず血縁関係を主張する。
血縁関係と、そこに付随する権利を。
宗教も、血縁も、もちろん婚姻も、彼らにとってはしょせん政治の道具なのだから。
大陸の覇者たるアールノア帝国であろうとロンシンに力ずくで勝つことはできないが、貴族の娘の結婚にはいろいろなしがらみがつきものだ。すべて無視しても結婚は成立するが、慣習を無視したとうるさく騒ぎ立てられるのはうっとうしいものがある。
たとえそれが牛にたかるハエのようなものだとしても、サリーユは自分が原因でロンシンを煩わせたくないのだ。
それくらいなら、誰からも祝福される、何の問題もない相手と結婚してもらいたい。
そう頭では思っているのに。
「それでも私は君がいいんだ」
まっすぐ見つめられて告げられれば、胸は簡単に高鳴るし、甘い痛みに泣きたくなる。
「ただのサリュでも、アールノア帝国現皇帝の従兄弟姪であるサリーユ=アルノ=シュアランでも――」
世界一美しい藍色の目が自分だけを映してほほえんでいることに心は歓喜に震えるのだ。
「私は、今、目の前にいる君がいい」
ロンシンはそう言い切ると、ゆっくり膝を折って、つい先ほどのサリーユのようにひざまずいた。
「生涯君を愛すると誓うよ、サリュ。だから、どうか私と結婚してください」
ちゅ、と音を立てて指の付け根にくちづけられ、先ほどと立場が逆転した姿勢に、先ほどとは似ているようでまるで違う意味のくちづけに、頭が処理落ちを起こして動きを止めそうになる。
「へ、陛下!」
月燐花の王を、人間が魔王と恐れる彼を、魔族たちが唯一の主といただく彼を、ひざまずかせるだなんて、そんなことがあっていいはずがない。
「んー、もう名前では呼んでくれないの?」
甘えるように唇を尖らせ、ロンシンは再び――今度はサリーユの手のひらにくちづける。
「立ってください、陛下!」
ぅあああ、と奇声を上げながら手を引き、自分をにこにこ見上げているロンシンになかば怒鳴りつける。
「えー?」
それなのに彼は余裕の笑みを浮かべて動じない。
「どうしよっかなぁ」
あまつさえ、こちらの様子をうかがうようなことを言いだした。
「陛下」
困り果てて眉を下げれば、ロンシンは笑みを深める。
「サリュがいじわる言わないで、私と結婚してくれるなら立ってもいいよ」
「陛下こそいじわるおっしゃらないでください」
君主の顔をしているときも、それを脱ぎ捨てたときも、彼はサリーユを簡単に困らせる。
これはもう失礼を承知でこの場を逃げ出すしか、とじりじり扉へ向かって移動しようとした時だった。
こんこんこんっ、と高らかにノック音を響かせ、返事を待たずに扉が開いた。
「ロンシンさま、ちょっとよろしいですか?」
遠慮なく部屋へ踏み入ってきたリリシャが、ロンシンとサリーユの姿を見て目を丸くする。
「お邪魔でしたわね?」
そう口にしつつも退室する様子はない。さすが兄を隠れ蓑にいずれ王位を狙う女傑である。
「あともう一押しだったのに」
不満そうにしつつ立ち上がったロンシンにサリーユは内心胸をなでおろす。とりあえずあのまま押し切られる危機は去ったようだ。
リリシャの用件は今回の件の事後処理についてだろう。リエルグはユーイエとまだ現場に残っているのだろうか。
ソファに腰かけて話をする態勢になったふたりを横目に、自分は壁際に控えることにする。
「今回の騒動、処罰はリリィに任せるよ。ただし、刑の執行はこちらで行うし、引き渡し要請にも応じない」
「承知いたしました」
単刀直入に言い放ったロンシンはすこし気だるげだ。やはり起こってしまった面倒ごとの事後処理は憂鬱なのだろう。先ほどまでサリーユを困らせて生き生きとしていたから余計にそう見えるのかもしれないが。
自分がもっと目端が利けばさらに早く、計画が実行に移される寸前に、証拠を押さえつつも未然に防げたかもしれないのに、と思えば口惜しい。
これからも陛下のため精進しよう。
内心で決意を新たにしているサリーユをロンシンがちらりと一瞥した。
「実行犯は連れ帰ってもらおうと思ってたんだけど」
今はまだこれ以上付き合ってあげる必要も感じなかったから、と加えてから軽く肩をすくめる。
「サリュが残そうって言うから、こっちで預かって守ってあげる」
彼が言っていた「ほぼ」とはこういうことだったらしい。
「リリィに貸しも作れるし、めんどうは多いけど、いずれ得るものもあるだろうからね」
ミルテをはじめとする今回の暗殺未遂に加わった者たちは、暗殺未遂があった生きた証拠だ。ジラッドに戻れば消されるか、よりどうしようもない場所に送られるか、どちらかだろうし、消されてしまえばリリシャの主張する「暗殺未遂」が月燐花と共謀した狂言だと言い張られかねない。月燐花が押さえておくことによって彼らの安全は守られ、ラーニ王妃側への牽制にもなる。可能性は低いが、何かあったときの人質としても使えるかもしれない。
何より、不安要素の多いジラッド王国で彼らを管理するより、月燐花が預かっていたほうがリリシャにとっては負担が少なく安心だ。
「あら」
ぱちくり、と目を開き、リリシャがサリーユを見る。
「ご進言、感謝いたします、サリーユさま」
わざわざ立ち上がって深々と頭を下げられてしまう。
「リリシャ殿下。そのように頭を下げていただく必要は――」
サリーユはただの文官なのだ。一国の王女に礼を尽くされるような身分ではない。
「もし、わたくしの出自のことをご配慮いただいているのなら――」
「いいえ、サリーユさま。違います。わたくしが貴女へ頭を下げるのは貴女の出自ゆえではありません」
はっきりと首を横に振りリリシャは華やかに笑った。
「貴女の働きと、心遣いへの感謝。それから、未来の月燐花の后である方への礼節です」
聞き逃せないことを確定事項のように告げられ、サリーユはふるふると首を横に振る。
「いえ、わたくしは――」
「正直、お世継ぎの問題もありますから、早めに嫁いだほうがいいと思いますけれども」
陛下と結婚などいたしません、と否定しようとしたのに、リリシャはやさしげにほほえんだまま小首をかしげた。
「両親、もしくは片親だけでも魔族だと子が授かりにくい、というのは厳然たる事実ですから」
それは歴史的にも、最近の統計研究的にも証明されている事実だとサリーユも知っているが。
「確かに陛下には早めにご結婚いただかなくてはなるまいと臣下一同感じてはおりますが、その相手はわたくしでは――」
「あらあらあら。いやですわ、サリーユさま」
ありません、とやはり最後まで言わせてもらえなかった。
「ロンシンさまのお相手はサリーユさましかおりませんのよ? だって、ロンシンさまがサリーユさま以外愛していらっしゃらないんですもの」
「……別に愛がなくとも、結婚は成立します」
それが国と国の利害含みの結婚ならばなおさらに。
至極当然のことを言ったつもりだったのに、リリシャはおもしろがる目でロンシンを見た。
「まさか、おっしゃってないんですか?」
「だって、さすがに重いかなって。それに、子どもが欲しくてサリュに求婚してるわけでもないし」
対するロンシンは気まずそうに唇を尖らせる。
「……どういうことですか?」
何やら自分の知らないことがまだあるようだ、と頭痛をこらえつつ訊ねる。
「それはね、えっと――」
「魔族の方にとって子とは、愛する方との間に欲して初めて生まれるものなのです」
言いよどむロンシンに遠慮することなく、リリシャはきっぱり簡潔に教えてくれた。
「欲したところでなかなか宿らないのが現実なのですが、欲しない子はぜったいに生まれない」
それはかつて、世界とすべての生物をつくった造物主の思し召し。
魔法を使い、人間とは違う強靭な肉体を与えた魔族には、繁殖の際の厳しい条件を。
そうやって世界の生き物たちのバランスをとろうとした。
そうリリシャは説明して、サリーユがうすうす勘づき始めていた(認めたくない)事実を改めて口にしてくれた。
「つまり、ロンシンさまが愛しているのがサリーユさまである限り、ロンシンさまの跡継ぎを産めるのはサリーユさまだけなのです」
「………それは――」
そうつぶやいたきり額に手を押しあてて固まったサリーユに、リリシャが励ますように力強くうなずく。
「サリーユさまも強い魔族返りでらっしゃいますから、やはり同じように望まねば子を授からないかもしれませんね」
そこはロンシンさまの努力次第ですが、と朗らかに言い放たれ、ロンシンは心底いやそうに顔をゆがめた。
「リリィ、ひっかきまわしてたのしむの、やめて」
「あら、そんなことは」
ほほほほほ、とリリシャは笑う。
「いえ、正直とってもたのしいです、ロンシンさま」
他人の色恋ごとってどうしてこんなにたのしいのでしょう、と生き生きとしている彼女を見つめ、サリーユは「よし」と決めた。
「リリシャ殿下、わたくしを侍女としてジラッドへお連れいただきたいのですが」
そのとたん、しん、と部屋が静まり返った。
「サリュ!?」
まずロンシンの悲鳴が響きわたり、リリシャがにっこりと笑う。
「ええ、もちろんわたくしはかまいませんけれど、サリーユさまにはこちらにお仕事もおありでしょう」
「何とか片付けます。幸い、わたくしにしかできない仕事、というものはございませんので」
頭の中で申し送り事項を整理し、今抱えている仕事をどこまで処理できるかを検討し、うなずく。
「二、三日中には――リリシャ殿下のもともとの滞在予定期間が終わるまでには身辺を片付けられるのではないかと」
「いや、待ってサリュ。そんなの許さないよ」
ソファから立ち上がってずんずんこちらへ向かってくるロンシンに向かって優雅に腰を落とす。
「陛下、短い間でしたがお世話になりました。辞表は後ほどユーイエさまに提出いたしますので」
「君、さっき誠心誠意私に仕えるって、末永くおそばに、って言ったじゃないか……」
うそだったの!? となじられ、サリーユはそっと目をそらした。
「すこしばかりわたくしの認識が甘かったようなので」
まさかこんなに逃げきるのがむずかしい状況だとは思わなかったのだ。
自らを律してさえいれば何とかなると思っていたが、これはがんがん外堀が埋まっていくやつではないか。
こうなったら物理的な逃走しかない。
そして状況の圧倒的な不利を認識したなら、撤退は速やかになされなくてはならない。
「やだ! やだよ! サリュが遠くに行っちゃうなんてやだ!!」
目の前で駄々っ子のように首を横に振ったロンシンが、がばっとサリーユの腰にすがりつく。
「陛下……」
そっと艶やかな髪に触れてみる。
「サリュ、行かないで。ぜったいに結婚の無理強いなんてしないし、まわりにも何も言わせないから」
ね? と上目遣いに見上げられ、ちょっとぐらつかないでもなかったが、サリーユはきっぱりと首を横に振った。
そもそも先ほどリリシャが来なかったらあやうく押し切られるところだったのだ。
「いえ、わたくし、ジラッド王国にて、ジラッドと月燐花の友好と平和のために尽力することにいたします」
離れていても陛下のため、月燐花のため、身を粉にして働く所存です、と胸を張ると、リリシャがころころ笑い、ロンシンが絶望的な目をした。
「まあ、うれしい。サリーユが来てくれれば百人力ですわ」
「もうサリュが自分の侍女になったみたいな呼び方しないで!」
もーーーーーとむくれながらもサリーユの腰にしがみついて離れようとしないロンシンにサリーユは眉を下げる。
「え、なんですか、この愉快そうな愁嘆場」
と、そこに顔を出したユーイエがあきれ顔でつぶやく。いっしょに戻ってきたらしいリエルグは目を丸くしている。
一年前にはとても考えられなかった目の前の光景に、サリーユはそっと口の端を上げた。
ここ数年ずっとひとりだったサリーユにとって人間関係は騒々しく、ときに煩わしい。
それでも周りに誰かがいてくれるのは、あたたかい。
それを与えてくれたのは――あの部屋からサリーユを連れ出してくれたのは、自分の腰に腕を巻き付けて動くまいとしている人だ。
あの時は、おそろしく、美しいこの人のこんな一面を見ることになるなんて思わなかった。
でも、どんな彼も、知るたびにいとしくなっていく。
「陛下」
「考え直してくれた!?」
声をかければ、必死な目をしてこちらを見上げてくる。
サリーユを縛りつけることくらい簡単なくせに、そうはしようとしない人。
そんな彼だからこそ――。
「わたくし以外でしたら、お望みのすべてを陛下へ」
そっと彼の耳元でささやけば、彼は藍色の目を見開いてから、不満げに眉間にしわを刻む。
サリーユは特別賢いわけでも、強いわけでもないけれど、彼が望むのならば彼の望むすべてを手に入れてみせる。
それの何が不満なのだろう。
ひとつをあきらめれば、ほかのすべてを手に入れられるかもしれないのに。
ううううう、としばらくうなってから、ロンシンは深い深いため息をこぼした。
「わかったよ、サリュ。どうしても行くって言うんだね?」
うなずけば、強く巻きついていた腕がするりと引いていく。よろよろと立ち上がった彼は眉を下げ、切なげな表情でサリーユを見下ろしてきた。
「いいよ。君がそれを望むなら、私はそれを止めたりしない。好きにするといい」
「……ありがとうございます」
妙に物わかりのいい、と怪訝に思っていると、案の定続きがあった。
「でもでも、私だってあきらめないから!」
下がっていた眉をきっとつり上げ、力強く宣言する。
「私は私ですべてを整える。君が私との結婚をしぶる要因をひとつ残らず平和的に排除して、それからもう一度君に求婚するよ!」
この陛下は本当にどこまでもへこたれない。
「期限は五年でいかがでしょうか」
「えっ、期限設定されるの??」
顔をひきつらせたロンシンにサリーユは小首をかしげる。
「陛下のご結婚は、跡継ぎ問題に直結しておりますので」
期限を区切らず、いつまでもちんたら先延ばしにしていいわけがない。
淡々と告げれば、彼は両手をあげた。
「うーーーー、わかった。わかったよ。それでいいよ」
口としぐさでは降参を示しつつも、藍色の目はまるで違う色を浮かべている。
「でも、私が君の望む条件をすべて整えたら、求婚にうなずいてくれるんだよね?」
にこり、と細められた藍色の目はおぞましく底光りして、それでもとても美しい。
まるで初めて出会った時のように見惚れてしまう。
いつだって自分にやさしいロンシンが、それだけではない人だと、サリーユだって知っている。
彼は「魔王」だ。
そして、サリーユの陛下――唯一無二の人だ。
おそろしくて、美しくて、まがまがしくて、いとしい、たったひとりの人。
ほんとうは、逃れられないことなんて最初からわかっている。出会ったときに、サリーユは彼に捕らえられてしまったのだから。
それでも。
「ええ。陛下の結婚の〝最善〟がわたくしになったその時には、つつしんでお受けいたします」
そうでないのならば、ロンシンの相手はサリーユではない。
「お約束いたします」
再度腰を落として頭を垂れたサリーユにロンシンは満面の笑みを浮かべた。
「なるべく早く迎えに行くね!」
傍らでそのやりとりを見つめていたリリシャとユーイエが「何年かかると思います?」と賭けを始め、ひとり事情がわかっていないらしいリエルグがきょとんとしていた。
後々、サリーユはこの時の光景をたびたび思い出すことになる。
ロンシンと出会った春の夜とも祖母の秘密を知った夏の花畑とも違う、すこしも絵画的ではない初夏の部屋の光景を。
このとき、サリーユは覚悟を決めたのだ。
おそらく、ユーイエが言っていた意味の覚悟を正しく。
きっとロンシンは成し遂げ、自分を迎えに来る。たとえどんな障害が立ちふさがろうと、「魔王」たる彼が望んで成し遂げられないことはないのだ。
数年後、自分は必ず月燐花の后になる。
それは避けられない未来なのだと、サリーユは認めた。
が、それは今ではない。
今はまだ、うなずけない。
サリーユがロンシンの元を去ることを決めた初夏の日から三年半後。
魔王ロンシンはジラッド王国の新たな女王の戴冠式で、リリシャ女王のかたわらに控えていた女官に求婚した。
美しい紫色の目をした彼女はその有能さから「女王の懐刀」と呼ばれ、また、宮廷で多くの貴族に求婚されながらも誰にもなびかず、魔法を宿した目で無理に迫ろうとした者を撃退したことから「黄金の石の君」とあだ名される女性だった。
この時の求婚のもようは、後々まで語り継がれることとなる。
荘厳な大広間にて、盛装した美しい魔王がひざまずき、二本のブレスレット以外なんら飾り立てることのない女官服姿の女性の手に口づける――そんな美しい求婚のシーンもさることながら、何せ求婚された彼女が開口一番言ったのだ。
「つつしんでお受けします――が、輿入れは国内が落ち着くまで、そうですね、あと二年ほどお待ちいただけますか?」と。
それに対する魔王の返事は、悲痛な叫びだった。
「まだ『待て』なの!?」と。
結果、ジラッド新体制の後押しに魔王主導のもと月燐花が力を尽くしたため、彼女の輿入れは一年後に無事行われたと伝わっている。
月燐花の歴代魔王の中でもっとも他国との関係を密に結んだと名高いロンシンは、この時の話とともに歴代もっとも后の尻に敷かれた魔王として歴史に名を刻み、その妻サリーユは政治に明るく、仕事の面でも家庭の面でもロンシンを支えたと記録には残っている。
そして、互いに深く愛し合っているくせに、なぜかやたらと妻が離婚を切り出す不可思議な夫婦として――それでも仲睦まじく添い遂げたと、月燐花の歴史書は語る。
魔王さまの「ご寵愛の君」は、塩対応で、たまに重くて、まれにデレる なっぱ @goronbonbon
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