月娘

水野酒魚。

月の姮娥

 地に降り立ってからずっと、姮娥こうがは大気に満ちる土の匂いが嫌いだった。水の匂いが嫌いだった。

 彼女が暮らしていた天には、そんななまぐさい土も水も存在しない。咲き乱れる花は常にかんばしく、しおれることも、枯れることすらも無かった。

 地の花は醜い。短い間で、簡単に萎れて枯れてしまう。姮娥は地の花が嫌いだった。


「お帰りなさいませ。貴方」

 今日も夫は血腥ちなまぐさい匂いをさせて、この地の帝に宛がわれた家に戻ってくる。

 にこやかに夫を迎えたものの、姮娥は内心ぞっとしていた。腥い匂いは嫌い。特に血の匂いは。

 彼女の夫は武神だった。武を以て天帝陛下に仕えていた。天帝陛下の命に従い、地上に降りて、天帝陛下の御子たちをいさめる役目を負った。

 だが彼は、天下の生類しようるいかえりみる事の無かった非道の御子たちを射落とした。それで、夫は天帝陛下の怒りを買い、神籍を剥奪はくだつされた。

「ああ。今戻ったよ。……すぐにこのけがれを落としてこよう」

 疲れ切った顔をした夫は、それでも妻を目の前にして微笑む。夫は優しい。妻を愛していた。

 夫は弓の名手だった。名を后羿こうげいと言った。


 姮娥と彼が出会ったのは、后羿が天の原で狩りに出かけた時のこと。

 枯れることの無い月桂樹の下で、たわむれに四弦の琵琶びわ爪弾つまびいていた姮娥は、大きな弓を携えた男神を見た。

 彼は身のこなしがしなやかで、強い意志を示す太い眉は凛々りりしかった。

 狩りの興奮が冷めやらぬのだろう。男神は星々のように輝く瞳で、やがて妻になる女神に問うた。

貴女あなたは何と……何と美しい。貴女のように美しい方に、わたしは出会ったことがありませぬ。どうぞ、この我に貴女のお名前を明かして下さいませんか?」

 はにかむようなその時の笑みを、姮娥は好ましい、と思った。

 姮娥は虹を開いて作った羽衣を、揺らめかせて立ち上がる。

わたくしは姮娥と申します。けき方。貴方あなたのお名前をお教え下さいますか?」

「我は后羿と、美しい方。ああ。貴女に出会えたことが、今日一番の成果でございます」

 美しさを讃える嘆息たんそくと共に。后羿は姮娥を見つめた。

 彼が姮娥に妻になって欲しいと言い出すまで、そう長い時間はかからなかった。


 夫に付き従い地に降りて、姮娥が天を思わぬ日はなかった。

 不自由はない。姮娥のために、人びとのために、夫は懸命けんめいに働いている。

 だから、夫の前では微笑んで全てを受け入れた。

 后羿は地の帝にわれて、ただの人間では手に負えない悪獣の類いを討ち取っていた。

 それによって、夫は恩賞を得ている。

 人を食らう人面獣、炎と水とを操る九頭の怪物、大風を起こす大鳥、船を沈める巨大な蛇……

 そのどれもが、地に蔓延る厄災。それを、后羿は弓を持って次々と打ち倒す。

 いつしか、夫は地の英雄と呼ばれるようになっていた。


 悪獣討伐に出かける度に、夫は土産物を持ち帰った。それは美しい玉で有ったり、細工の美しい金のかんざしで有ったり、珍しい花で有ったり、地上の菓子で有ったりした。

 初めのうちは、姮娥も喜んだ。地上の美しい物は彼女にとって珍奇であったし、何より愛しい夫の心尽くしだ。

 中でも姮娥のお気に入りは、胡桃をあんで包みそれを皮で包んだへいという菓子だった。

 地の食物、特に獣の肉を好まなかった姮娥も、この餅だけは喜んで食べた。

「お前はこの餅が好きだね。お前が望む限りこれを作らせよう」

 美味そうに餅を食べる姮娥を眺めて、夫は莞爾かんじと笑った。

 妻の笑みこそが、彼にとっての無上の喜びだった。


 后羿は各地を飛び回り、弓の腕を振るった。

 彼の名は、次第に畏敬をもつて語られるようになる。

 だが、夫の留守を守る、姮娥の顔色は冴えない。

 彼女はどうしても、地上の暮らしに慣れなかった。土の匂いが嫌いだった。水の匂いが嫌いだった。地に満ちる生き物の気配がわずらわしくて堪らなかった。

 夫に隠れて、姮娥は天の暮らしが恋しいと泣いた。

 后羿はすべき事をした。天下万民を救った。そのために不老不死を、天の暮らしを失った。

 姮娥は、それをとがめるつもりなど無い。夫を恨んではいない。それでも。

 姮娥は地上が嫌いだった。


 ある日。后羿は悪獣討伐から戻ってきた。

 その日も、夫は土産をたずさえていた。

 ただ、その日の土産はいつもの他愛ない小物とは違っていた。

 小さな緑色の玉器に入った、金色で二粒の丸薬。

「……これは神丹しんたんだ。西王母せいおうぼ様にいただいた、正真正銘の神丹だ。これを飲めば神仙として天に戻ることが出来る」

 夫には解っていた。姮娥が、天を思って恋々としていることを。地の生活に馴染めずに、さめざめと泣くことを。

「二人でこれを飲もう。また二人で天に生きよう。共に幾歳いくとせを誓おう」

 姮娥は泣いた。今は嬉しさで。見開いた瞳から、大粒の涙を零した。

「……だが、少しだけ。少しだけ待って欲しい。今、地の帝から『封豨ふうき』と言う獣を討つように頼まれている。それを討ち果たしたら、これを飲んで天に帰ろう」

 夫の優しさは、地の人びとにまで及んでいる。最後まで、災厄を除いてやりたいと、夫は言う。姮娥はうなずいて、神丹を受け取った。

「これはお前が持っていておくれ。我は最後の悪獣を討つ」

 そう言って、后羿は旅立って行った。


 一週間が過ぎた。

 夫はまだ戻ってこない。


 半月が過ぎた。

 姮娥は毎日、夫が帰ってくるはずの戸口に立った。后羿はまだ戻ってこない。


 一カ月が過ぎた。

 姮娥は神丹の容れ物を握りしめて、泣き暮らした。

 もう、一日たりとて待てはしない。

 早く、天に帰りたい。地上は嫌。もう耐えられない。もう我慢出来ない。

 姮娥は神丹を一粒取り出して、掌にせた。

 金色に輝く、その丸薬。それを姮娥は一息に飲み下した。

 神丹が胃の中で溶けて行くにつれて、身体が軽くなる。地上の重さに囚われていた足が、ふわりと宙に浮いた。

 ああ、嗚呼ああ。これで天に帰れる。大嫌いだった、地上の暮らしを捨てられる。

 姮娥は飛んだ。神丹の容れ物を握りしめ、地上を離れて、天の世界へ。

 飛んで飛んで、天に近づくにつれて彼女は考える。

 夫は未だ、天帝陛下にゆるされぬ身。その妻で有る妾もまた、一度神籍を取り上げられた。このまま天に戻っても、元の暮らしには戻れないだろう。

 姮娥は呆然と、近づきつつ有った天を仰ぎ見る。

 そこに浮かんでいたのは、丸い丸い月だった。


 一カ月と半月が過ぎて。后羿は愛しい妻が待つはずの家に戻った。

 そこにはすでに妻の姿は無く、途方に暮れた使用人たちが、口々に「奥方様は天に昇って行かれました」と告げた。

 神丹は影も形もない。后羿は静かに嘆息する。

 不老不死など、惜しくはない。ただ妻が、愛しい姮娥が待っていてくれなかったことだけが悲しかった。


 天に帰る前に月に立ち寄ろう。姮娥はそう決めた。

 ほとぼりが冷めるまで月に居て、天帝陛下のお怒りが解けた頃にまた天に帰れば良い。

 姮娥は月に降り立った。

 月は荒涼として冷たい。土の匂いも水の匂いも花の匂いもない。

 それがいっそ清々しくて。姮娥は安堵する。

 ここは、なんて静かな世界なのでしょう。地に満ちていた生き物の気配も、嫌らしい水の気配も、何もない。何もない!

 姮娥は喜び、独り、月面に踊る。くるくるとスカートの裾をひるがえして、踊り続ける。

 彼女は知らぬ。もうこの月から逃れられぬ事を。夫を裏切り、月にはしった罰として、この月に囚われたことを。


 やがて、悲鳴と狂気が地上に届く。

 后羿は妻が月に居る事を知った。

 月から出られぬと妻は泣き叫ぶ。独りきりでここに居て寂しいと。

 英雄で有っても、今は人の身である后羿には、どうすることも出来ぬ。妻を救うことも、その後を追うことも。

 神丹はたった二粒きり。それも無理を言っていただいた物だ。他には無い。

 后羿は折々に月を見上げて、愛しい妻を思う。

 今でもまだ、彼女を愛している。自分がいたらないばかりに、苦労をかけてしまった妻。自分を置いて天に帰ろうとした妻。そこまで彼女を追い詰めたのは自分だ。

 秋の夜長。特に満月の美しい夜に、后羿は月を見る。姮娥が好きだと言っていた、餅を用意して。

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