月娘
水野酒魚。
月の姮娥
地に降り立ってからずっと、
彼女が暮らしていた天には、そんな
地の花は醜い。短い間で、簡単に萎れて枯れてしまう。姮娥は地の花が嫌いだった。
「お帰りなさいませ。貴方」
今日も夫は
彼女の夫は武神だった。武を以て天帝陛下に仕えていた。天帝陛下の命に従い、地上に降りて、天帝陛下の御子たちを
だが彼は、天下の
「ああ。今戻ったよ。……すぐにこの
疲れ切った顔をした夫は、それでも妻を目の前にして微笑む。夫は優しい。妻を愛していた。
夫は弓の名手だった。名を
姮娥と彼が出会ったのは、后羿が天の原で狩りに出かけた時のこと。
枯れることの無い月桂樹の下で、
彼は身のこなしがしなやかで、強い意志を示す太い眉は
狩りの興奮が冷めやらぬのだろう。男神は星々のように輝く瞳で、やがて妻になる女神に問うた。
「
はにかむようなその時の笑みを、姮娥は好ましい、と思った。
姮娥は虹を開いて作った羽衣を、揺らめかせて立ち上がる。
「
「我は后羿と、美しい方。ああ。貴女に出会えたことが、今日一番の成果でございます」
美しさを讃える
彼が姮娥に妻になって欲しいと言い出すまで、そう長い時間はかからなかった。
夫に付き従い地に降りて、姮娥が天を思わぬ日はなかった。
不自由はない。姮娥のために、人びとのために、夫は
だから、夫の前では微笑んで全てを受け入れた。
后羿は地の帝に
それによって、夫は恩賞を得ている。
人を食らう人面獣、炎と水とを操る九頭の怪物、大風を起こす大鳥、船を沈める巨大な蛇……
そのどれもが、地に蔓延る厄災。それを、后羿は弓を持って次々と打ち倒す。
いつしか、夫は地の英雄と呼ばれるようになっていた。
悪獣討伐に出かける度に、夫は土産物を持ち帰った。それは美しい玉で有ったり、細工の美しい金の
初めのうちは、姮娥も喜んだ。地上の美しい物は彼女にとって珍奇であったし、何より愛しい夫の心尽くしだ。
中でも姮娥のお気に入りは、胡桃を
地の食物、特に獣の肉を好まなかった姮娥も、この餅だけは喜んで食べた。
「お前はこの餅が好きだね。お前が望む限りこれを作らせよう」
美味そうに餅を食べる姮娥を眺めて、夫は
妻の笑みこそが、彼にとっての無上の喜びだった。
后羿は各地を飛び回り、弓の腕を振るった。
彼の名は、次第に畏敬を
だが、夫の留守を守る、姮娥の顔色は冴えない。
彼女はどうしても、地上の暮らしに慣れなかった。土の匂いが嫌いだった。水の匂いが嫌いだった。地に満ちる生き物の気配が
夫に隠れて、姮娥は天の暮らしが恋しいと泣いた。
后羿は
姮娥は、それを
姮娥は地上が嫌いだった。
ある日。后羿は悪獣討伐から戻ってきた。
その日も、夫は土産を
ただ、その日の土産はいつもの他愛ない小物とは違っていた。
小さな緑色の玉器に入った、金色で二粒の丸薬。
「……これは
夫には解っていた。姮娥が、天を思って恋々としていることを。地の生活に馴染めずに、さめざめと泣くことを。
「二人でこれを飲もう。また二人で天に生きよう。共に
姮娥は泣いた。今は嬉しさで。見開いた瞳から、大粒の涙を零した。
「……だが、少しだけ。少しだけ待って欲しい。今、地の帝から『
夫の優しさは、地の人びとにまで及んでいる。最後まで、災厄を除いてやりたいと、夫は言う。姮娥は
「これはお前が持っていておくれ。我は最後の悪獣を討つ」
そう言って、后羿は旅立って行った。
一週間が過ぎた。
夫はまだ戻ってこない。
半月が過ぎた。
姮娥は毎日、夫が帰ってくるはずの戸口に立った。后羿はまだ戻ってこない。
一カ月が過ぎた。
姮娥は神丹の容れ物を握りしめて、泣き暮らした。
もう、一日たりとて待てはしない。
早く、天に帰りたい。地上は嫌。もう耐えられない。もう我慢出来ない。
姮娥は神丹を一粒取り出して、掌に
金色に輝く、その丸薬。それを姮娥は一息に飲み下した。
神丹が胃の中で溶けて行くにつれて、身体が軽くなる。地上の重さに囚われていた足が、ふわりと宙に浮いた。
ああ、
姮娥は飛んだ。神丹の容れ物を握りしめ、地上を離れて、天の世界へ。
飛んで飛んで、天に近づくにつれて彼女は考える。
夫は未だ、天帝陛下に
姮娥は呆然と、近づきつつ有った天を仰ぎ見る。
そこに浮かんでいたのは、丸い丸い月だった。
一カ月と半月が過ぎて。后羿は愛しい妻が待つはずの家に戻った。
そこにはすでに妻の姿は無く、途方に暮れた使用人たちが、口々に「奥方様は天に昇って行かれました」と告げた。
神丹は影も形もない。后羿は静かに嘆息する。
不老不死など、惜しくはない。ただ妻が、愛しい姮娥が待っていてくれなかったことだけが悲しかった。
天に帰る前に月に立ち寄ろう。姮娥はそう決めた。
ほとぼりが冷めるまで月に居て、天帝陛下のお怒りが解けた頃にまた天に帰れば良い。
姮娥は月に降り立った。
月は荒涼として冷たい。土の匂いも水の匂いも花の匂いもない。
それがいっそ清々しくて。姮娥は安堵する。
ここは、なんて静かな世界なのでしょう。地に満ちていた生き物の気配も、嫌らしい水の気配も、何もない。何もない!
姮娥は喜び、独り、月面に踊る。くるくると
彼女は知らぬ。もうこの月から逃れられぬ事を。夫を裏切り、月に
やがて、悲鳴と狂気が地上に届く。
后羿は妻が月に居る事を知った。
月から出られぬと妻は泣き叫ぶ。独りきりでここに居て寂しいと。
英雄で有っても、今は人の身である后羿には、どうすることも出来ぬ。妻を救うことも、その後を追うことも。
神丹はたった二粒きり。それも無理を言っていただいた物だ。他には無い。
后羿は折々に月を見上げて、愛しい妻を思う。
今でもまだ、彼女を愛している。自分がいたらないばかりに、苦労をかけてしまった妻。自分を置いて天に帰ろうとした妻。そこまで彼女を追い詰めたのは自分だ。
秋の夜長。特に満月の美しい夜に、后羿は月を見る。姮娥が好きだと言っていた、餅を用意して。
月娘 水野酒魚。 @m_sakena669
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