第2章

第17話 船旅

 テラスヴァニル王国は、ネブリミア王国の南に位置する。

 険峻な山脈に囲まれ、それが精霊石という財を生み出すとともに、侵略者から国を守ってきた。

 所謂、天然の要害というわけだが、近年においては精霊石を国外に運びやすくするために山を拓き、隧道トンネルを掘って道中が整備された。


 昔はテラスヴァニルからネブリミアへ渡るためには西から回り込み、海路でしか行き来できず、近くて遠い国などと呼ばれていたという。その度に多額の運賃に頭を抱えたそうだが、隧道のおかげで安くて良質な精霊石が、ネブリミア王国に輸送されることになった。ネブリミア王国が技術大国に押し上がったのも、こうした輸送の安定化によるものだった。


 それでも馬車にて十日。気が滅入るほどの数の隧道を通りぬけ、私たちはようやく山岳地帯を脱出する。


「おお!」


 隧道を抜けた先に見えたのは、豊富な水源――つまり幾重にも蛇行した川だった。

 その両端に鬱蒼とした密林が広がり、その上を渡り鳥らしき影が翼を広げて優雅に飛んでいた。


「え? あれ?」


 私は同じ客車内にいるシャヒル王子と地形を見比べる。

 戸惑っている私を見て、シャヒル王子は何か気付いたらしく「ああ」と言って手を打つ。

 王子の隣に座り、長い旅路にて王子を含め私の世話までしてくれたステルシアさんは、意図がわからず首を傾げた。


「どうしたのですか、カトレア様?」

「つまりはこういうことだよ、ステルシア。カトレアは、俺たちの姿と国の姿が合っていないと思っているんだ」

「……え? そうなのですか?」


 ステルシアさんはわずかに眉間に皺を寄せる。

 どうやら私の疑問は、王子たちにとってはナンセンスなものであったらしい。


「テラスヴァニル王国は、もっと砂漠の国で水源が少ないのかと」


 このイメージは仕方がない。子どもの頃読んでいた創作物で、褐色に赤髪といえば砂漠の国の王子様というのが通例だった。だから、漠然とテラスヴァニルもそういうイメージなのかと思っていたのだが、180度違う光景に私は面食らったわけである。


「当たらずとも遠からずさ。俺たちの起源は、ネブリミア王国北方の民族だからね」


 ネブリミア王国の北方には大平原が広がっている。年を通して空気が乾燥していて、夏期と冬期でさほど温度の差はない。あまり植物が育つ環境になく、乾燥に強い動植物が中心だ。

 確かに北方の国でもテラスヴァニル王国の民と同じ赤髪、褐色の方が多い。


「大昔、その草原で民族同士の大戦争が勃発しました。民族の存亡を欠けた戦いの末、我々テラスヴァニル王国の民が負けたのです。そして追われるように我々は南下し、山を登り、この地に辿り着いたと聞きます」

「男は魔法を使わないというのも、その大戦争において魔法を使用され、多くの男手が失ったからと言われている。テラスヴァニル王国にとって、戦争は男の仕事だからね。まあ、それはネブリミアも変わらないのだろうけど」


 10日という長い馬車の旅だったが、話が尽きることはなかった。

 私は魔導具の話を、シャヒル王子は料理とテラスヴァニル王国の話をそれぞれ話し、ステルシアさんがたまにテラスヴァニル王国についてツッコんだ話をしてくれる。

 初等や中等学校で聞いた四角四面な国の話ではない。生きた情報を聞いて、私は目を輝かせながら国の成り立ちを聞いていた。


 山岳地帯を抜けると、私たちは待機していた船に乗り込んだ。船といっても、川船ではなく、帆柱が二つもついた立派な帆船だ。船内には船員が休む部屋の他に広い客室があり、食堂や厨房まで完備されている。


 テラスヴァニル王国の川は豊富な水源のおかげで川底が削られたため、多少大きめの帆船でも川に乗り付けることができるのだという。まさか初めての船旅で、海ではなく川を渡ることになるとは思わなかった。


 このまま下流にあるテラスヴァニル王国王都へは1日半といったところだそうだ。

 取り分け初の船旅で私を苦しめたものは、船酔いでもなければ、異国の空気でもなかった。


 蚊(アンモ)だ。


 テラスヴァニル王国の国土は山と森、さらに川を引くと、あとは海しか残らないと冗談になるほど、平地が少ない。

 特に森が大部分を占め、豊富な水源もあって非常に湿気が多い。

 加えて比較的温かいため、蚊にとっては絶好の土地柄なのだ。

 船で移動していても、船外に立っているだけで不快な音が聞こえてくる。


 湿気が多いことで困るのは、何も蚊だけではない。


「お前、その槍の穂先は錆びてるじゃないか? ちゃんと乗船前に油を差したのか?」

「す、すみません」


 シャヒル王子の護衛の兵士の会話が耳に入ってくる。


 そう。湿気は金属の腐食を促す大敵だ。人がムッと感じる湿気は、金属にとってもかなりの負荷(ストレス)になる。もしかしたら、テラスヴァニル王国で魔導具が発展しなかった理由はここにあるのかもしれない。魔導具の構成材料は、精霊石を除けば、ほとんどの場合金属が用いられているからだ。


 私は船首に立って、夕陽を見ようと立っていたが、夕方になって増えてきた蚊(アンモ)に悪戦苦闘することとなった。

 そこにシャヒル王子は爽やかに笑いながら、船首の方に近づいてくる。


「カトレア、苦戦してるね」 

「ええ……。折角、夕陽を見ようと思っていたのに」

「夕陽……。なるほど。それはいいアイディアだ」


 シャヒル王子は懐から瓶を取り出す。どうやら香水のようだ。それを私と自分の手の甲に塗る。グリーン調の爽やかな香りが包むと、あの不快な音が消え、蚊はどこかへ飛んでいってしまった。


「変わった香水ですね」

「蚊は流行病を媒介する、侵略者よりも厄介な我が国の敵だからね。予防は欠かせないんだ」


 なるほど。国にとって死活問題というわけか。


「それよりも、ほら……。見えてきたよ、カトレア」


 シャヒル王子が西を指差す。真っ赤な空に、濃い黄色の夕陽が遠くの山脈に没しようとしている。

 これが初めてみるテラスヴァニル王国の日没。実はネブリミア王国の東にも山脈があって、山に没する夕陽を毎日見ているのだけど、また趣が違う。多分ここが船の上で、側に赤毛のシャヒル王子がいて、同じ方向を向いて夕陽を見ているからだろうか。


 ふと王子の方を見ると、夕陽のせいで頬が赤くなっているような気がした。


『バァウ!』


 突然、吠え声を聞いて、私はビックリする。いつの間にかライザーが横に立っていた。『僕もいるよ』という風に、私とシャヒル王子の周りをぐるぐると歩く。


「ごめんごめん、ライザー。構って上げられなくって」


 私はライザーの耳の横を撫でる。相変わらずここが弱いらしく、まるで温泉にでも浸かってるみたいに目がトロトロになっていた。私もライザーの毛の感触が癖になって夢中でなで回してしまう。ついに堪忍したライザーは船の上で、お腹を見せた。


 もっとやって、と足と手を振る。


「仕方ないわねぇ。覚悟なさい、ライザー」


 お腹の毛を捕まえて、軽い力で擦って上げる。


『バォォオオンン』


 最近見つけたライザーの弱点ポイントだ。気持ちいいらしく、大きな銀狼はその場で『もっとやって』と甘えた。身体は随分と大きくなったけど、まだまだ甘えん坊だ。それに昔、頑なに食べ物を食べようとしなかったいぶし銀の狼とは思えない。


「カトレアは本当にライザーの扱い方が上手だね。飼い主も形無しだ」

「あ……。す、すみません、王子。ライザーはシャヒル王子の飼い狼なのに」

「気にしてないさ。君が良ければ、譲ってあげてもいい」

『バァウ!』


 それは名案、とばかりにライザーは立ち上がる。

 でも、さすがにライザーのような大型生物を飼えるほど、私は裕福ではない。自由だって胸を張ったところで、魔工師でもない私は実際今は無職だ。こうしていられるのも、シャヒル王子が用立っててくれているからにすぎない。


「心遣いは嬉しいのですが、今はまだ……。それにシャヒル王子の側にいることが、ライザーにとっても幸せになると思うので」

「そうか。君がそういうなら、しばらく飼い主でいようかな」


 シャヒル王子はライザーの耳横を撫でてやるのだった。

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