第1話 蛟龍〜水の拳〜 第十節

 照真の家を出た那美は、集落内の道を家に向かって歩いていた。

 そして、昨夜の父の姿を思い出していた。


 殺し屋の放った短剣は、竜馬の肺へ刺さる寸前で止まっており、竜馬の体力と彬の応急処置により、大事にまでは至っては居なかったそうだ。


 そして、血液型が同じだった彬からの輸血と、医師の懸命な治療の甲斐もあり、眠って安静を保てる程までに快復した。


 しかし、大切な父を傷付けられた怒りと悲しみは那美の胸からは消えなかった。

 父や師匠は止めようとするだろうが、その殺し屋への報復は一生掛けてでも果たしてやろう、と決意した。


 そうして黒い復讐の炎を燃やし歩く那美の姿を一匹の斑猫ぶちねこが塀の上から見つめていた。


 にゃーん、と猫が鳴いた。


 すると那美の黒オーラはスンッ……と消滅して猫に視線が注がれる。

 しばし沈黙の時が流れた。


 そしてその沈黙を破るかのように那美は猫ちゃんを撫でようと近付く。


 だが、その手が猫に触れようとした瞬間、猫は身を翻し、塀の向こうにササッ、と消えた。

 那美はしょんぼりした。かわいい。


 そうして民家が立ち並ぶ集落を歩き続けると、辺りは田畑ばかりの田園地帯へと差し掛かった。

 その彼方には山林が遥か遠くに霞んで見える他は民家は殆ど見当たらない。

 その田畑の中にひたすら長く続く農道を那美は歩いた。


 辺りは夕焼けで赤く染まり、この場面を切り取れば一枚の絵画になるようなとても美しい田園風景だ。


 農道を歩き続けて二十分程経つと、ようやく那美の家が見えて来た。


 田園地帯の中にぽつんと存在する鎮守の森のような木立の中に、住居と道場が立っている。

 農道から家に続く小径こみちに入ると、道場の方の駐車場に、白黒に塗装された車が停められているのが見えた。


 パトカーだ。


 京都府警察、と描かれているその車には人は乗っていない。


 他の車も来ている所を見ると渡辺や一般生徒たちも来ているようだ。


 家の玄関に近付くと、土間に二人の警察官が立っているのがガラス戸越しに見えた。母が応対してるのだろうか。


「ただいま」

 戸を開けて入ると、警官二人と母が那美を見る。


 若い巡査と年嵩の巡査の二人で、片方の中年の巡査の顔を那美は知っている。


 篠山道場に通っているジュニアクラスの生徒、井上省吾の父の井上靖いのうえやすし巡査部長だ。


「おかえり、那美」

 母・静江が声を掛ける。


「那美さん、ちょっとお邪魔させていただいてるよ」

 井上が笑顔で言う。


「こんにちは、もしかして父の事ですか?」

 那美がそう聞くと、井上は、


「うん、竜馬さんが怪我をされて市民病院に入院された事とね、もう一つ」


「もう一つ?」


「竜馬さんの車が夜久野やくの町の路上に乗り捨てられていたんですが、その……竜馬さんが傷付けられた凶器の短剣を、彬さんが車内に残して来た、とおっしゃられるんですが、我々の方では見つけられなかったんですよ」


「……師匠……、叔父はその短剣は、車の中に置いてきた、と言ったんですね、となると誰かが持ち去った…?」

 那美が訝しげに井上に尋ねる。


 そしてその発言を若い巡査が記録していく。


「那美さんは彬さんから何か他に聞いていますか?」

「いえ、父を病院に運んだ、としか」

 井上の質問にそう答える那美。


「そうですか、ではお車の方は緊急事態による路上駐車という事でしたが、事件に関連した証拠物件ともなってしまってますので、彬さん立ち会いの下、実況見分が済み次第、署まで運ばれる事になります」


 那美の言葉を聞いた井上は、静江に向き直りそう言うと

「では、我々はこれで失礼致します」

 と一礼し、去って行った。


 警官たちが去って行った後、靴を脱いで上がった那美は、

「母さん、他に色々聞かれたりした?」

 と静江に尋ねる。


「そうね……大阪の南警察署からの連絡で、父さんが協会本部前で襲われた理事長さんを庇おうとして怪我を負った、と」


「協会本部で……一体何が……?」


「理事長さんが警察で話した事だと、協会の本部ビルと土地の所有権問題で、暴力団と揉めていて、それに関係する嫌がらせなんじゃないか、って……ただ、理事長さんを襲った犯人は現場から逃走していて証拠がはっきりしないそうなの」


「暴力団……そんな事に……それから、師匠が言っていたように、父さんと師匠を追ってきた奴がその犯人なんじゃないかな……?」

 静江の話を聞きつつ、廊下を歩きながら那美が言う。


「でも、その話からするとこれ以上父さんが狙われる事は無いかも知れないし、理事長と協会のみんなの事が心配で気の毒だけど、後はあちらの問題でうちは大丈夫なんじゃない?」

 那美が襖を開けて自室に入りつつ言う。


「そうだったら良いんだけど……協会の皆さんも無事で居て欲しいわね」


「そうだね……それじゃ、私は着替えて道場に行って、稽古をして来るよ」


 那美はそう言い、文机に照真から借りてきた漫画のトートバッグを置き、学生鞄から弁当箱を取り出す。


「解ったわ、じゃあ、私は病院に行って来るから、後はお願いするわ」

 そう言って静江は、市民病院へ見舞いに行く支度をしに行った。


 那美は、制服を脱いで衣紋掛えもんかけに掛けて空手着に着替えると、黒帯を締めて両手で頬を叩き、気合いを入れた。


 那美の部屋は、畳敷きの六畳間に文机とカレンダーと目覚まし時計に電気スタンド、それに押入れの戸袋に衣紋掛けが掛けてあるだけの高校生女子の部屋としてはあまりに簡素、悪く言えば殺風景な部屋であった。


 両親に、もっと色々置かないかと提案される程なのだが、勉強と空手に集中したい、と那美自身が断っているという、現代っ子にしては珍しい性格ではある。


 そうして那美が稽古の為に道場に向かう前に、弁当箱を洗いに台所へ行き、箸と弁当箱を洗い終えて、道場に向かおうとした時、玄関のチャイムが鳴った。

「はーい、今出ますー」


 母が応対に出たようだ。自分が行かなくて済んだな、と思い那美は道場に向かおうとする、すると、

「那美ー、お友達よー、日野照真さんですってー」

 母がそう呼びかけて来た。照真が……?


 那美は道場に向かうのを止めて玄関に向かった。


「こ、こんばんは、どうも……」

 そこには何やら紙袋を両手で持ってもじもじしている照真の姿があった。


 篠山道場の平日の稽古は、夕方18:00より始まる。それから1時間、19:00まで間、一般クラスとジュニアクラスが共に別々の稽古メニューを行うようになっている。


 その日も、いつもと同じ様に生徒たちは稽古が始まる前には集まっており、いつものように整列をして、稽古が始まるまでの時間、思い思いに雑談をしたり、個々に簡単なストレッチ等をしていた。


 そこに那美がやって来た。


「押忍!!」

 那美は姿勢を正し、道場内と生徒一同に一礼をする。


「押忍!!!!!」

 生徒一同も姿勢を正して一斉に一礼をする。


 そして、那美の後ろでペコリ、とおじぎをした女子に視線を移す。

 すると那美が、

「本日は一人、稽古を見学したいと言う方がお越しになられたので、紹介する。私の学校のクラスメイトの日野照真さんだ」

 と紹介をする。


「よ、よろしくお願いします……」

 照真が弱々しくそう言いつつ、もう一度おじぎする。


「それじゃ、照真、そこに座って見てて」

 那美はそう言い、照真を壁際に座らせると皆に向き直る。


「黙想!!」

 渡辺の号令で一同は正座の姿勢になり、目を閉じて一分間の黙想を行う。


 黙想が終わると一同は立ち上がり、

「正面に礼!!」

 渡辺健司二段が号令を掛ける。

 神棚を祀ってある壁面に対して生徒一同は一礼する。

 渡辺と那美も振り返り一礼する。


「互いに礼!!」

 号令と共に向かい合わせになり一礼をする。


「よろしくお願いします、押忍!!!」

 渡辺と那美も互いに一礼をする。


「それでは柔軟体操に移るが、その前に一つ」

 那美が言う。


「昨日、御槌師範が事故に遭い入院した。しかし、怪我の程度は軽く、しばらくすれば退院出来るという事なので、皆安心して欲しい」

 そう言い、一同に深くお辞儀をする。


 一同の間にざわめきが走る、が、

「柔軟体操、始め」

 と、那美が号令を掛けて一同は柔軟体操を始めた。


 そこにジュニアクラスの生徒の一人、登尾善子がやって来て、

「那美さん、一緒に柔軟体操して下さい」

 と言いながら、那美の腕に抱き着いて来た。


「わかった」

 腕を引き抜いた那美は、そう答えると善子に向き直る。

 何故か善子は頬をピンクに染めている。


 そして、壁際におとなしく座っている照真に向かって善子は、悪戯っぽい流し目を送ると、イーッと顔をしかめた。

(な、何だろう……?)

 初対面の善子に何故か嫌われたように感じた照真は、何がなんだか理解が出来なくて困惑した。




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