第1話 蛟龍〜水の拳〜 第五節

 篠山町の南部、大字猪田おおあざいのだにある関西空手道協会御槌流篠山道場、ここが那美の実家であり、彼女が空手の技を磨いた道場でもある。

 館長であり師範である那美の父、御槌竜馬みづちりょうまに幼い頃から鍛えられ、那美もそれが当たり前の事である、として一日も休む事無く鍛錬を続けて来た。


 そして、彼女が父・竜馬に物心付いてから繰り返し厳しく教え込まれて来た事が、

『お前は他の皆とは違う"水の拳"を持っている。それは強力な力だが、人を傷付ける事も出来てしまう、使い方次第では非常に危険な力だ。だから、強くなれ。心身を鍛え、技を誤った方向に使ってしまわないように、修業を怠るな』

 という言葉だった。


 ただ、那美が幼い頃は子供の那美にもわかり易いように

『その技をお友だちやみんなに使っちゃダメだぞ、ケガしてイタイイタイになっちゃうからな』

 等と優しい言葉遣いで諭していた。


 それを可愛らしい真剣な表情でうんうんと頷きながら聞いている愛娘を見て、緩みきった表情でうんうんと頷く竜馬なのであった。空手バカ一代ならぬ親バカ一代である。


 篠山道場では多数の門下生が居る為、クラスに応じて稽古のメニューも異なり、師範の竜馬は一般クラスの大人たちを指導して、それを師範代である渡辺健司わたなべけんじ二段がサポートしている。


 そして二段の認定を受けて指導員として名乗る事を許されている那美は、幼児から高校生までの子供達のジュニアクラスの指導を受け持っていた。


 父と渡辺が不在の時は、那美が全員の稽古を見て指導する立場ではあったが、門下生は皆素直な良い生徒たちであり、時には一般クラスの大人が子供たちの稽古を見る手伝いもしてくれたりして、とても助かる。


 今日は師範の竜馬は外出していて不在で、渡辺が一般クラスの稽古を見ている。


 日頃のジュニアクラスの稽古は、柔軟体操から基本の型と歩法などを反復演練し、その後防具を身に着けての短い組手を行う、というメニューだったが、今日は組手の代わりに柔道の技の練習を二人一組づつに分けて行う、と那美は決めて、生徒たちにそれを伝えた。


「那美さん、組手はやらないんですか?」

 生徒の一人、登尾のぼりお善子よしこが聞く。

 彼女は小学3年生の頃に、一般クラスに通っていた母に連れられて来てから通って来ている明るく生真面目な生徒で、今年で中学1年生になった。


「うん、取っ組み合いの中で突きや蹴りが出せない中でも、相手を制して有利に立てたり、隙を見て抑え込める技は空手の中にも応用すれば、自分も相手も傷付かずに場を収める事が出来るし、覚えておいて損は無いよ。じゃ、柔軟と同じ様に分かれて」


 生徒たちが柔軟体操のパートナー同士に分かれる。

 それぞれの組は、大体年頃も体格も似通って分かれるようになっている。那美は皆が位置に付いたのを見て右手を上げると、


「では、右側が元立ち、左側が掛け手から」

 と言い、

「元立ちは左肩を掴み、掛け手は払腰はらいごし、強く叩きつけないように、始め」


 那美の号令と共に生徒たちがエイッ、と威勢の良い掛け声を上げて元立ちに払腰をかける。払腰は普段の稽古の中で生徒たちに教え込んでいる投げ技の一つだ。


「倒したら相手の首に右腕を回して……そうそう、それで合ってる、相手の右腕を掴んで、左手で相手の右手首を掴んで肘を締めて抑え込む」


 幼少の生徒たちが要領を掴めないままながら、周りを見て同じ様に動き、皆が同じ体勢になる。


「よし、そうそう、それでいい、元立ちはどんな感じ?」


 那美が尋ねると、体格の良い中学3年生の井上省吾いのうえしょうごが、


「乗っかられてて腕も掴まれて動けないです」

 と答えた。


「うん、大体はその体勢で抑え込まれると動きを封じれるから、相手が暴漢である場合はそのまま大声で助けを呼ぶか、通りがかりの人に協力を頼むといい…よし、技を解いて離れて」


 生徒たちが技を解いて元の位置に離れる。

 中には抑え込まれて体力を消耗してすぐに立ち上がれない生徒も居るので、しばらく待ち全員が立ち上がるのを見届ける。


「よし、いいかな……やってみて解るように、抑え込みの体勢を取られると、かなりスタミナを消耗させられる。ちょっとした喧嘩程度なら、相手にも、そして自分にも冷静に考え直す時間を与える事が出来て、それ以上争わなくて済むかもしれない。……それじゃ、掛け手元立ちを交代してもう一度、始めっ」


 今度は左側の生徒が掴みかかり、右側の生徒が払腰をかけて抑え込む。


「あぁ、それはちょっと違うな、抜け出されちゃうよ」

 右腕の掴みが甘い生徒に声をかけて掴み直すのを確かめる。


「よし、それじゃ技を解いて元に」

 生徒たちが元の位置に離れる。


「では、本日の稽古はここまで、互いに礼」


 那美が姿勢を正し、生徒たちに一礼し、生徒たちは姿勢を正し、互いに一礼をする。


「正面に礼」

 そして神棚を祀ってある道場の奥に一礼をした。


 そこにまつられているのは、建御名方神で、信州(現在の長野県)の神様であり、篠山道場の設立の由来に深く関わっているという。


「「「「「ありがとうございました!!」」」」」

 那美とジュニアクラス一同の声が響く。


 それから、皆で整列して軽い整理体操を行った。


 その後は、特に号令を掛ける事も無いまま、皆で道場の掃除を始める。那美も同じく雑巾を持ち、雑巾がけを始めた。

 幼い生徒たちは笑顔でふざけ合ったりしているが、掃除自体は真面目にこなしていた。


「それではお疲れ様、みんな気を付けて帰るように」

「「「「「押忍!!」」」」」


 掃除を終えて整列すると、渡辺師範代の言葉に生徒たちが一斉に応え、ジュニアクラスと一般クラスの大人たちも皆、帰り支度を始めた。


 皆それぞれ着替える者や道着に上着を羽織って帰る者なども、道場を出る際には道場の中に向かって一礼してから下駄箱へ向かう。


 そうして親子で来ている生徒たちや、帰り道が同じ方向の生徒たちで一緒に帰って行った。

 皆で元気溌剌と稽古をした後は皆仲良く元気良く帰って行く、この光景を見るのが那美は好きだった。


「それじゃ那美さん、自分も失礼させて頂きます、押忍」

 渡辺が那美に声をかけてきて、一礼して帰っていった。

「お疲れ様でした、押忍!」

 那美もそれに応えて一礼した後、道場に戻ると扉に鍵を掛け、窓も閉めてある事を確認して明かりを消した。


 そして道場に向かい一礼をした後に、母屋に繋がっている廊下を歩いて母屋に入った。


「那美、お父さんは帰って来た?」

 台所で夕飯の支度をしている那美の母、静江が、道場から戻ってきた那美を見つけて尋ねる。


「道場には来てないよ」

「そう……昼には帰って来る、って言っていたのに、また別の用事が出来たのかしら……?」


 竜馬が出掛けてその日に帰って来ない事は、これまでも何度もあった。


 御槌流篠山道場が処属している関西空手道協会の本部は大阪市にあり、そこへ出掛ける事が多い為に、その帰路には道路事情の関係や、場合によっては旧知の友人の家に泊まる事等もあり、静江も那美も心配はしなかった。


 しかし、それにしても律儀な性格の竜馬は、やむを得ない事情で帰りが遅くなったり、その日に帰れない時には、電話は必ず掛けてきた。


 もしかしたら電話が近くに無い場所で車が渋滞に巻き込まれていたりするのかも知れない。

 静江も那美も大方そのような事だろう、と考え、協会や竜馬の知り合い等に連絡をする事はしなかった。

 だが、その日から次の日にも、竜馬が家に帰って来る事は無かった。












  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る