第13話  少女と殺し屋

 市井の暮らしに馴染むというのは想っている以上に大変だった。


 厨房で絶え間なく響く怒号にも似た注文の嵐、酒場の客たちの騒然とした喧騒も、どれもかれも貴族の社交場にいたころにはなかったものだ。


 ただ、あの頃と少し違うのは、貴族の社交場に比べればこの酒場は、随分と思惑が明け透けだと言うことくらいだろうか。


 酒場に来る客たちは私をあたかも聖女か何かのように、持て囃す。


 うら若くて、そこそこ整った酒場の娘というだけで、それなりに価値はあったらしい。


 そうして笑顔を振りまけば、勝手に相手が笑顔になるので少しばかり気が晴れた。


 何せ、貴族社交場と違ってここの笑顔は、思惑を隠す仮面以外にまっとうに笑顔としての役割を果たしてくれるから。


 そうやって忙しい日々を過ごすうちに、ふと気を抜くとそのまま心の底まで、町娘か何かになった気分になる。


 今の私は、家も名前もない、ただのリザ。


 ただ酒場で働いて、注文を聞いて、料理を運んで、客に笑顔を振りまく、ただのリザ。


 それだけでいいじゃない、と頭の中の誰かが言っている。


 全部忘れて、今の生活を楽しめば。


 過去なんてどうしようもないんだから、このまま、髪さえ染め続ければ、何もかもを忘れて暮らしていけるんだから。


 そんな声が私を惑わす。


 そのたびに、自分の腕に爪を食い込ませた。


 痛みを想いだすために。


 失ったものの価値を想いだすために。


 私の人生から失われた最愛の人を想いだすために。


 痛め、痛め。


 傷つけ、想いだせ。


 私から何が奪われたか、私が何を失ったか。


 家なんて、どうでもいい。国なんて、どうでもいい。


 貴族の誇りも、家名の尊厳も、権力者としての責務もなんだっていい。


 ただ、私の愛した人が、ただそれだけが失われたことが我慢ならない。


 他の何が失われたって、あの人と一緒なら、きっと私は頑張っていられた。


 家を失って、名を失って、地位も何もかもを失っていたとしても。


 あの人と一緒なら、私はどんなつらいことだって耐えられた。


 でも、その大事な人が、その大事な人だけが今、私の手元にいてくれない。


 失われて、もう永遠に戻ってこない。


 それがたまらなく悔しくて、悲しくて、忘れることなんてできなくて。


 想い出すたび、胸が痛む、痛むけれど、この痛みだけが今、私の中にあるあの人へ抱ける想いだから、失うわけにはいかなかった。


 爪を何度も食い込ませる。


 忘れるな、忘れるな。


 この憎悪を、復讐を。


 でないと、もしこれを忘れてしまったら。


 あの人への想いすら、愛すら、忘れてしまう。


 忘れるな、忘れるな。


 そう願って生き続けた。


 ただふとした瞬間に少し疲れてしまったとき、仕事を終えてふと酒場の廊下で息を吐いている時、気が付けば頭はからっぽになっていた。


 何も感じられない、憎悪も、悲しみも、喜びも、なにかも感じられなくなる時があった。


 ただ廊下の向こうでわいわいと、酒に酔った男たちの喧騒だけが響いているのを、ただ漠然と眺めていた。


 あの中に、私の仇が確かにいる。


 そのことをわかっているはずなのに、曖昧になった頭は何も考えてはくれない。


 「お嬢、大丈夫か?」


 そうやって、ぼーっとしていると雇った殺し屋が怪訝そうな表情で尋ねてくる。「大丈夫」と返そうとして、うまく答えが返せなくて、力なく笑うことしか出来なかった。


 「どうした? 疲れたか? また休むか?」


 そう言われて、吐いた息が思ったよりため息に近くなっていて、そこで初めて自覚する。


 そっか、疲れてたんだ、私。


 「うん、ちょっと疲れたわ。ズミ、あなたは? 慣れない生活だけど、大丈夫?」


 そう問うと、殺し屋は私と同じように廊下に背中を預けて、すっと何かの瓶を差し出してきた。お酒かなと想ったけど、どうやらただの水みたい。


 「俺は慣れたもんだよ。こういうのも前の仕事でよくやってたしな」


 促されるまま、水を喉に通していく。気づけば熱くなっていた身体に冷たい水がよく染みた。


 「ふーん、前の仕事ね。例えば、どんな?」


 「別に変り映えしないさ。酒場のウェイター、定食屋の小間使い、簡単なんでいいなら調理人もやってたよ」


 そのまま瓶をもって、廊下から酒場の様子をうかがう。騒いでこそいるが、幸い注文は間に合っているらしい。時間も大分深夜になってきたから、酒飲みが騒いでいるだけで食事や飲み物自体はもう十分足りている。


 店長も廊下をすれ違う時、一瞬、こっちをみたがあまり気にした様子もない。このまままだ休憩していて大丈夫そうだ。


 「いいね、楽しそう。なんでそこでは続けなかったの?」


 「さあ、でももともと短い勤めの予定だったからな。向こうも人手が足りない時期のちょっとした小間使いが欲しかっただけだったしな」


 「ふうん、そうなの? もったいない、つづければよかったのに」


 ぼそぼそと話しながら、少しだけ寂しく思う。


 彼に言わせれば、これはいわは演技の一環。


 『家出をした貴族の女』と『その付き添いの男』としてのやり取りだ。


 誰もいないけれど、誰が聞いてるともしれないから、あくまで聞かれても大丈夫なことだけを喋ってる。


 だから、このやり取りが本当かどうかもわからない。あくまで彼は、聞かれても大丈夫なことを答えているだけなのかもしれない。


 まあ、そもそも暗殺が成立するまでの関係だから仕方がないのだけど。


 それが、少し寂しくあるような、でも少し救われてもいるような。


 演技としてしているはずの『家出した貴族の女』としての振る舞いが、あまりにも気楽で、なにもかもをふとした瞬間に忘れてしまいそうな。


 そんな気がしてしまう。


 「ねえ、ズミ」


 「なんだい、お嬢」


 「もし、もしだけどね」


 「ああ」


 「もし、こうやって何も考えないで、ただどこにでもいる『リザ』として過ごしていたら――――」


 「………………」


 「兄様は―――どう想うのかな」


 そうやって呟いた。


 そんな私を殺し屋は横目で少しだけ窺っていた。


 「俺の『仕事』が終わりって話か?」


 「…………ううん、そうじゃなくて。『仕事』はしないといけないんだけど……ただ、なんとなくそう想っただけ」


 自分で漏れた言葉が弱弱しくなっているのが感じ取れた。


 「そもそもね、お嬢、俺はその兄様とやらに会ったこともありませんよ」


 「あはは、そうね……。分かりっこ……ないよね」


 呟いてから、自分で何言ってるんだろって感じだった。


 迷いばかり産んで、こんなこと愚痴っても仕方ない。


 私が初めた復讐なんだから、ちゃんとやり遂げないといけないのに。


 なんでか、心がうまくついて、きてくれない。


 そんな私を殺し屋は、少しだけ黙って見た後、ぼそっと口から言葉を漏らした。



 「



 少しだけ声のトーンが低くなった。


 それに違和感を覚えて顔を上げた。


 だってその言葉は、『家出した貴族の女』に掛けるというにはあまりに相応しくなくて――――。




 眼があった。




 どんよりとした、奥底まで真っ黒な、どんよりとした瞳が私を見ていた。



 違う。



 これは『付き添いの男』としての言葉じゃない。



 『殺し屋』としての彼の問いだ。



 どうして? 聞かれたらマズいって言っていたのはあなたじゃない。



 ただその瞳が、暗く沈んだその瞳が、まっすぐ私を見て問うている。



 誰かに聞かれる危険がある。



 それでも尚、問うている。



 「




 「どうして?」




 「愛していたもの」




 「愛……」




 「そう、愛していたの。兄妹だったけど、きっとこの世界にいる誰よりも愛していたの」




 「…………」




 「あの人と一緒に居ることが幸せで、あの人が笑ってくれることが幸せで、あの人の幸せが私の幸せだったのに」




 「………………」




 「なくなったの。大事だったのに、代えなんて効かないのに、この空の下にたった一人しかいなかったのに、なくなったの。奪われたの――――もう、二度と帰ってこないの」




 「…………」




 「もう、笑いかけてくれないの。もう、声をかけてくれないの。帰りを待つこともできないの。


 もう、私と一緒にいて、くれないの」




 「………………」




 「だから、憎いわ。憎いって想っておくくらいしか、兄様を愛していたことを、感じ取ることができないの」





 「………………」





 「間違って……るのかな? やっぱり、こんなの、誰も……望んでなんか…………いないのかな? 兄さまも、こんなこと、望んでなんかいないのかな?」




 零れた声が、濁る視界が、溢れる何かが。



 ぼろぼろと、ぼろぼろと、安い仮面を剥がしていく。


 

 私という薄っぺらな人間に縫い付けられた仮面が、ぐしゃぐしゃに崩れて消えて、いなくなってしまいそうだった。



 わかってる、私がやってること、考えていること何もかもが間違いで、意味なんてなくて、どうしようもなくて。



 間違ってるのに止めようがなくて、変えようもなくて愚かで、どうしたらいいのかもわからない。



 でも、あの人の死を何もしないまま受け入れることも―――できなくて。



 私は—―――どうしたら。







 「






 え?





 「間違えてたら、間違えてたで。分かっていても、間違えないといけない時ってのは、人間、意外とあるもんだ」






 そう言って、あなたは軽く欠伸をつくと、懐から布に巻かれた何かを私の手のひらにそっと置いた。




 「復讐なんてそんなもんさ、意味もない、もう過去にはどうにもならない。そんなことわかってても、間違ってても、それでも納得がいかないからやるもんなんだろう?」





 重く、でも少しだけ軽さの伴う、そんな不思議な感覚が、私の手のひらにすとんと落ちる。




 「悪いなリザ、契約は二つ破る。報酬の額は桁二つ落としていい。あとは……そうだな家に戻って逃げる準備でもしとけ、俺が帰らなかったら。あのおっさんを頼ればいい」




 剣と同じように、その言葉は軽くて重くて、不思議な感覚を私の心に落とし続ける。




 「じゃあ、行ってくる」




 そう言って、は私に背を向けた。





 私の手のひらから布が解けて、中身が少しだけ露になった。





 それはかつてあった国の王権、そのもの。





 銀嶺の神授の剣。





 本物はもう失われた―――私の復讐を成すための―――剣だった。

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