第8話 奇跡の夜
*4*
葉山の海は穏やかなほうだと思う。逗子マリーナにクルーザーを返却する省吾とマナと別れて、夕方の海岸にカナと向かった。
夕陽が水面に反射して、水面はオレンジと銀の水天一碧の輝きを見せている。寄せる波はまるで鏡だ。カナがぼうっと海を見詰めているがおかしかった。
「カナ、準備OKだ。行こうか」
「あ、うん」
救命具をつけさせて、小型ヨットに乗せてやる。振り仰ぐとすでに大きな月は、歪曲した水平線から昇っていて――。
蒼汰のヨットは、静かに水面を走り出した。競技ではないので、カナの操縦は不要。カナの瞳にオレンジの海が映っている。
――どき。伏目の色っぽさに顔を背けた。
「海って、夕陽が綺麗だよね……で、お兄ちゃんは何を探しているの?」
「――僕の母が死んだ後。親父と海で見た奇跡。まあ、奇跡って言うほどでもないんだけどな。満月の後、満潮と同時に見られる夏の人魚姫だ」
ふん? とカナがちょんちょりんを揺らして髪を押さえた。
――奇跡があるのなら。
カナに見せたい――……。想いを載せたヨットはゆるやかに進んで行く。空はいつも以上に夜を呼び込むが早く、一色に浮かぶヨットも、ゆらゆらと海の景色になった。
「お兄ちゃん……」
呼ばれたが聞かない振りをする。頼むから、煽るな。二人きりでヨットなんか乗るんじゃなかった。このままどこかへ行きたくなる。
行けるんだ、どこかに。
「お兄ちゃん!」
「なんだよ。おまえなぁ……」
カナと視線が合った。忽ちカナの姿は視界から煙のように消えて、胸に押し付けられた唇がもごと動いた。
「あったかい、ね」
「僕も生きてるから。カナもあたたかいぞ。特に、ここ」
くい、と親指で唇を押しながら上向かせると、カナはきょとんとした顔をした。
「バカ妹。俺は、好きだっていったのに」
「うん……」
魂が惹きあった?
運命だった?
星が導いた?
ただ、カナが、そこに在ることに感謝している。
(そっか……僕はおまえがそばで笑ってくれたらそれでいいんだ。それなら”お兄ちゃん”でも出来るから)
もぞりと腕でカナが動いた。
「返事は?」
カナはいつものように罵倒も困惑もしなかった。馬鹿妹なはずがない。……いや、むしろ、カナは僕よりお利口だ。
「カナ、僕と一緒に――」
〝そうた、それはダメよ。本当にカナが好きなら〟
ポウ。
水面が俄に明るくなった。
「おい、まさかっ……!」
条件は、「水温が27度前後の満月の夜」。
穏やかな風と、穏やかな波の中。
(ぴったりだ……多分。……)
祈る心持ちの蒼汰の前で、一斉に海に雪が降り始めた。どんどん海面から降る雪は、牡丹雪のようにゆっくりと弾けて、白く光っては消えて行く。
漆黒の海が、見渡す限りの銀河に変わる瞬間だ。
(ずっと見たかった、何か……)
せせり上がる心の逸り。蒼汰は高揚を隠せず、海に身を乗りだした。海面に女性がふわっと浮かび、逃げるように消えて行った。
(――? だれだ、あれ。母さんじゃないな、逢えると思ったのに)
奇跡を待った。最後に母に一目逢いたかった。
しかし、蒼汰の目に映った女性はロングヘアの美しい、スレンダーな女性で――。
「――スノー・パウダーだ。珊瑚の産卵だよ。僕は、親父と二人で、これを見たんだ。時折、水面に飛び出してくる元気な奴もいてさ。……はは、産卵、ではないんだ。カプセルなんだけどな」
真っ暗な海の中、放たれ旅立つサンゴの卵たちは、闇の中を流され何処に行くのだろう?
カナは口を抑え、ただ、広がる海の奇跡を見ていた。
「珊瑚のカプセルには、人類の分、夢と、想いが詰まってんだってさ。そのせいかな。僕は一度だけ母さんを海面で見た。母さんは、人魚になって、サンゴの子供といっしょに、還って行ったんだな――」
カナの頬に涙が溢れた。カナは小さく「お父さん……」と呟いたまま、水面に静止していた。聞かなかったことにしようと、蒼汰はまた説明を再開する。
「卵のように見えるのは「バンドル」だよ。卵と精子が入ったカプセルだ。サンゴのポリプに「バンドル」が出始め、放出したんだ。放出された「バンドル」は海面に上昇しはじけて、他の個体から出た卵や精子と出会って受精する。一つの個体が産卵すると他の個体も産卵する」
〝受精〟の言葉に頬を赤らめたカナの頭を撫でてやった。引き寄せると、カナは大人しく蒼汰に頭を預け始めた。
「受精した卵から翌日にはプラヌラ幼生が生まれ、水中を移動し新しい場所に定着。そこで一つのポリプからサンゴは成長を始めるんだ――僕も、葉山を離れて成長しなきゃな」
蒼汰はそれとなく呟き、「もう満足だからさ」とカナを抱き寄せた。
「おまえ、生きてんだろ」
「うん……」
「この同じ世界に、いるんだ。愛おしいよ。分からないかな」
カナは小さく首を振った。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……っ」
これは夢だろう。パンドルが見せる夢。
珊瑚と一緒になかったことにならないかな。
蒼汰は、一度きりのカナへのキスを贈った――。
ディンギーは静かに水面を走り出した。カナは蒼汰の足の間に座っている。
タッキングしながら、蒼汰はヨットを岸に向かわせていた。
「サンゴの産卵って奇跡を魅せるんだけど、カナは、お父さんを見たんだな。僕は――誰だか知らない女の人が見えたよ。ちょっと、カナに似ていた気がする」
――綺麗だったね。
――そうだな。もう、葉山に思い残すことはないよ。僕も未来へ向かうことにしよう――。
***
(お兄ちゃんはそう口にして、一ヶ月後には、葉山から世界の海へ飛び立って行きました。ずっと決めてたんだって。
省吾さんは知っていたみたいです。でも、あたしも、そろそろこの海を出て、新しい世界へ旅立とうと思います。鈍感なわたしも、立派な女性になりました。お兄ちゃんの傍に行きます。お父さん、お母さん。カナは今日も元気です。葉山の海は忘れません。
いってきまーす! 城嶋 夏南)
「よっしゃ!」
カナはポストに投函して、よっこいしょとリュックを背負い、スーツケースを勢いよく引いた。
葉山マリーナから横須賀、横浜、羽田に出る京急電鉄は、眩い光の中横浜の海を駆け抜けて、カナを、蒼汰を未来に運んで行く。
――待っててね、お兄ちゃん。
すっかり伸びたロングヘアーも綺麗に手入れ出来るようになったし、ぽっちゃりしてた体格も、ヨットのおかげでスレンダーになった。
軽快に走る葉山の夜の海での、蒼汰の告白を思い出した。
――カナが好きだから。
――うん、夏南も、お兄ちゃんが大好きです。だから、今度は夏南が蒼汰に奇跡を魅せてあげるね――。
(了)
葉山マリーナ~夕暮れマーメイド~ 天秤アリエス @Drimica
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