第6話 きみのために出来る全て

***


 夏の夕刻。一色海岸から望む相模湾の景色は最高だが、観光スポットで知られるのは「森戸海岸」と「一色海岸」。蒼汰や省吾はマリーナのカフェで言い合いを始めた。

「絶対、森戸!」は蒼汰。

「ふざけんな、一色だって!」は省吾。


 先だって、妹二人に「お兄ちゃんばっかりヨット乗って!」と妹に互いに責められた兄貴同士の(兄持ち)クルージング計画である。


「「森戸海岸」はちょうど葉山町海岸線の中央付近。「一色海岸」は、御用邸を中心として開けた海岸です。同じ葉山町内ですが、開ける方角が異なるため、風景が異なります。どちらも素晴らしい景色ですが、風光明媚な海岸として知られるのは「森戸海岸」です」


「ガイドブック丸読みすんな、蒼汰! 森戸って夕方が綺麗なだけ……おまえ、まだ諦めてないんだな?」


 蒼汰はそっぽを向いた。


「――カナに一緒にヨットに乗りたいって言われたよ」


「乗れば? 一色にしようぜ。一色に。『ビーチハウス「カフェ ド ロペ ラ メール」』のイベント、興味あるしさ。盛り上がったほうがいいだろ」


「森戸の「OASIS」だってあるだろ。――省吾、頼む。一度でいいからさ、ディンギーのクルー、カナに譲ってくんねえ?」


 省吾は呆れて、反り返った上半身の腹でガイドブックを捲っている。


「カナちゃん、船舶資格、持ってたっけ」

「僕が取らせてる。一応、乗れる」


(いやらしい兄貴)と省吾は目で蒼汰を見、「わかったよ」と立ち上がった。


「週末のクルージング、森戸な。まあ、マナも「森戸」って言ってたし、カナちゃんは?」

「宿題でそれどころじゃねえよ」


 苦笑いで、「約束」を言い出した妹を思い浮かべる。夜中まで膝を抱えて、兄貴を待つ。


(ラブストーリーなら期待する待ち合わせだが、僕とカナだしな)


 会話はとんちんかんなものになるし、恋愛のれの字も感じられない。なのに、下着姿だけは一丁前に女の香りを出し始めるんだから、たまったものじゃない。


「――昨日は水色だった。上下揃ってたらしい。母さんが干してたのを見たんだが」

「ほう。水色か。清廉でいいな。ウチ、シマウマ柄だった。母ちゃんは薔薇だし。げそ」

「あいつ、いつから色つき……なあ、省吾。カナ、彼氏とか出来たんじゃないよな? 急に色つきリップとか、ファンデとか、あと、髪飾りとか変わって来ててっ」


「――俺を揺さぶってどーすんだ! 危険な兄貴だな! クルージングは水着着ないように言えよ。親友として、親友を変態にはさせらんねー」


 蒼汰は「確かに」と苦く笑って、肩を竦めた。


 ――見ろ。おまえが待ち伏せし続けるから、僕の心まで逸ってくるじゃないか。危険な兄貴? そうさせる危険な妹だって分かれ。


「葉山マリーナ 江の島・裕次郎灯台周遊クルージングってとこか。まあ、インストラクターが二人引率だ。問題ないだろ。――危険なお兄さんがついてくるが」


 またからかって来やがった。


「大切だから、じっくり考えてんだろ」

「じっくりかよ。でも、義理だろ? 別に問題はないんじゃないの?」

「問題だらけだよっ! もう、省吾、黙れよ」


 省吾はにっと笑うと、蒼汰の怒りの矛先を旨く変えた。


「ちょうどいいんじゃね? 来週はスーパームーンだ。海岸を変えれば見つかるかも知れないぜ?」


 蒼汰は素直に頷いた。


 一度だけ、幼少に父と見た、「葉山の奇跡の人魚姫」の影。


(母を亡くし、父と一緒にヨットに乗って、海岸を回った。僕はうとうと眠くて、父の声で眼を開けると――)


(水面がオレンジ色に光っていたから、僕は「海底にも夕陽があるの?」と思った)


(あの時、水面の下に、オレンジ色の夕陽がたゆたっていた)


(覗くと、オレンジ色の夕陽が僕を照らしていた)


 あの瞬間の表現はいくらでも、出来る。しかし、手にした実感がない。


――葉山の海の優しい風。父の言葉は忘れない。


『蒼汰、海には全ての想いが溶け込んでいる。みんな、海から産まれるんだ。だから、母さんは蒼海に還ったんだ。寂しかったら、ここに来よう――』


 ――嘘つき親父。


 父はちゃっかりとカナの母と再婚を決め、父と海に来ることはなくなった。蒼汰はマリーナへの勤務を決め、幼少から慣れ親しんだ土地の活性化として、マリンレジャー産業に貢献している。

 誰もの心に懐かしむ故郷があるなら、蒼汰の心の故郷は、きっとあの日の海に違いない。オレンジに発光した珊瑚が産卵してもおかしくない、澄んだ水面。懐かしく思うとき、きっと揺れて、還るのだろう――。


「今日は風速オーバーだから、俺とのディンギーはなしだぜ。クルーザーもアウト。来週の準備の打合せしようぜ。プリンセス二人がおへそ、曲げないようにな」


 海軟風だ。


 白い牙を剥かせる、海の風を灯台が照らし始めると、葉山の夜。夕暮れ特有の静けさと、風。ガヤガヤと帰るための人々の気配。


 空は階調で彩られ、今日も彼方へ去って行く。水平線の向こう、二度とない今日が還る。


 蒼汰は大好きな葉山の海岸を静かに見詰めた。


(世界各国の海と繋がり、想いが溶け込んでいる――か)


 一瞬この海を越えた海岸でも、義理の妹への想いにうだうだ悩んでいる男がいるのかなど邪念した。

 カナが欲しい。情熱に任せて奪うのではなく、繋がる何か。


『水色』を思い出して、蒼汰はごほっと咳込んだ。


(そうじゃなくて、二人だけの秘密というか。ともかく言えるは、カナは罪な妹でしかないと。そういう話でいいだろう。うん。下半身でものを考えるな)


 それがカナのために出来る全てというも、なんだかな……。



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