第5話 太陽と月の下で

*2*


 目的のものには逢えず、省吾とまた協力しあって、ヨットを岸まで走らせる。風対策でしっかりと舫結びを施して、マリナーズスーツを脱ぎ、マリーナに戻って、私服に着替えてマリーナを後にする。

「よく毎晩毎晩」と管理人にイヤミを貰い、頭を下げて、最後の門を閉めた。


「――また明日、お疲れ」


 海岸沿いにある省吾の家と、内陸に入り込む蒼汰の家の岐路で別れて、とぼとぼと夜の道を歩いた。


(こんなことだったら、カナの唐揚げ……)


 空しい気持ちを鼓舞するように、草木が黒くゆっくりと葉擦れを響かせた。ついでの腹がキュルルと鳴り響いた。


 ……何か、食って帰るか。とはいえ、葉山の店はほとんどが九時には閉店。家に帰れば美味しい夕食があるだろうが、カナは部屋にいるだろうか。

 クエストで言えば、7割のインカウント確率と言ったところか。


 公園に差し掛かったところで、しげみががさっと揺れて、「おっつかれ!」と家の近くの公園からカナが顔を見せ、蒼汰は小さく息を吐いた。


「あのな! 何度言えばわかるんだよ。危ないだろ!」

「へーきだもん。お兄ちゃんがいけないんでしょ! 約束忘れてまた、海」

「約束?」


 唇をへの字にすると、カナは小さな手で蒼汰の手を握った。海の漣の波音を風がからかっているような、夏の海の音は緩やかで、明日への希望をも輝きに封じ込める。


「弁当、ごめん」

「じゃーん!」


 カナは手に持っていたバスケットを掲げて見せた。


「充分時間があったから、作って来たの。おにーさんいかがっすか?」

 漁師のうまいもん市場の口調でおどけながら、カナはさっそうと唐揚げを刺したピックを差し出した。


「はい、あーん」


 暗がりでも分かる旨そうな丁度いい大きさと、嗅覚を幸せにする醤油の香りと、月明かりに照らされるカナの顔と、少し気に入らなそうに軽い「へ」の字になっている唇と。


(うっ……チョー、かわいー……)


「い、いいのか?」

「お兄ちゃんのために作ったんだよ?」


 お兄ちゃんやめろ。どうなっても知らんぞ――っ。


 ぱく。お口が幸せになった。

 蒼汰をみて、カナは満足そうに首を傾げて聴いて来た。


「美味しい?」

「ん、旨い。……悪かったな。こんな二度手間」

「お父さんの夕飯になったから」


 ――悪い、親父。冷めていてもカナの弁当はウマいぞ、多分。


 膝に載せられた中には、唐揚げ、星のピックの肉団子、卵焼き、サンドイッチ……ホットドッグの小さいモノ、それにりんごうさぎ。


 いちごとうさぎ。


 転んだ時のカナのスカートの下を思い出して、パッパと手を振る。


「月が大きいな、カナ」

「うん? あ、本当だ。今日ってスーパームーン?」


 カナがあたふたとスマートフォンをいじくりだして、「あ、違った」と蒼汰に見せた。


 月夜の影は長く伸び、海岸を横切ろうとする。

 夜風は潮騒の香り。


(スーパームーン……もしかすると)


「海のない場所に住んでいる人もいるんだろうね。お兄ちゃんは生きていけないね」


 へへっと笑って、カナは蒼汰の腕を取った。


(なんっちゅー、無防備な妹だよ……)


 実を言うと、カナは妹でも、義理である。蒼汰の母はとっくに此の世を去っていて、父が再婚した連れ子がカナ。


 それでも、義理の母は優しく、まだ小さかったコトもあって、家族環境は頗る良い。カナの方も同じ境遇で、カナは父親の顔を知らない。


 同じ境遇の、同じ痛みを抱える兄妹。それが蒼汰とカナだ。


「そんなに、海っていいのかなあ」


 呟く横顔に、愛おしさを隠せず、蒼汰は「ごほ」と口元をこぶしで隠し、咳込んだ。


「そりゃあ、まあ……海で死にたい、とは思わないけど」

「ふうん。ね、お兄ちゃん、今度ね、マナが四人でクルージングしようよって。いっつもずるいよ。お兄ちゃん二人で楽しそうにヨット乗ってさ!」


 ぷく、と膨れたまま、カナは海岸沿いを早足で歩く。人は疎ら、代わりにイルカとか跳ねないかな。

 そうしたら、きっとカナが喜ぶのに。


「おまえ、ヨット乗りたいの?」


 カナはむっとして言い返した。


「じゃなくて、お兄ちゃんと海に出てみたい。――いっつも思うの。こうやって人はみんな誰かを置き去りにするんだなって」


 海に向けた横顔に、涙が伝わって、落ちた。


「寂しいのはもう嫌だもん。やっと、家族で楽しくなったのに、お兄ちゃんは家に帰ってこないで、海に飛び出してって。しかも毎晩。膝を抱えて待つ時間が本当に長いよ」


 ちょんちょりんに縛り上げた髪のさきっぽが大きく揺れた。


「そりゃ……一つ屋根の下にはいられないだろ。親父と母さんはさっさと寝ちゃうし」


「なにそれ!」


 カナが振り返った。


「――カナが好きだから」


 潮風に頬を晒して、灯台の時折回る光に照らされて。漣まで聞き耳立てているのかと思う位、静か。

 海の静寂。

 葉山マリーナにも訪れる安らかな夜。遠くで大きく揺れる波を捉える。恐らく大型のタンカーが通ったのだろう――。


 さわ、と二人の髪が潮騒に騒ぐ。

 足を止めたまま、蒼汰のカナの距離は一定で、また海の砕け波と、マリーナに押し寄せる漣が激しくなった。


「おまえ、うかうか下着で歩くからね。大学生の男、ナメんなよ? おまえの下着程度でも、立派に反応すんだよ。いちいち個室に駆け込む手間が惜しい」


「ば、ばかっ! ~~~~じゃあ、下着で歩かなきゃいい?」

「笑顔も同じ」


「じゃあ、笑わないよ! そんなら、夜、一緒にご飯食べたり、宿題やってくれたりする?」


 宿題は余計だろ。


「嫌だよ。下着も好きだし、笑ってて欲しい。夜にね、あるものを見つけたい。省吾とも約束していてさ。それが見つかったら、多分、僕は救われる」


 きょとんさんになったカナの頭をゆっくり撫でた。


 ――見ろ。この間抜けた顔。告白したのに、返事もしてこない間抜けな義妹。


(海を走るとき、僕が「この穢れた気持ちを全部消せたら」なんて思ってることは死んでも言わねーよ)


〝スーパームーン〟


(そういえば、あの夜も月が大きくて、赤かった気がする)


 蒼汰は足を止めて、ドライな表情(省吾談)を更にドライにさせた。


「明日、マリーナに来い。――もしかすると、見られるかも」

「見られるって?」


「奇跡の人魚姫。といったところかな」


 ***


 太陽と月からの地球の海洋に対する影響は、月が新月または満月の時に最も大きくなる。


 互いに影響しあって距離を取る。でも、惹かれていく。蒼汰とカナみたいな――。

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