ももいろランドスケープ

mikouri

ももいろランドスケープ

「知ってる? 山田先生ってやべーやつらと繋がってて俺たちを洗脳しようとしてるんだ。最近暑いだろ? あれも山田先生が気象を操ってるせいで、それからこの間起こった地震も」

「あーあーあーまた始まったよ」


 今年はセミが鳴かないんだな。教室の窓から、いつもと変わらない雲ひとつない空を拝む。

 秘密結社。気象兵器。人工地震。

 悪友の語るいつものネタもどれか一つにしてほしい。

 そんなゴシップを、メガネを光らせながら嬉々として語ってるのももうこの悪友ぐらいになった。

 他のクラスメイトはこいつの振ってくる話に露骨な嫌悪を示すようになったので

 あしらいつつも耳を傾けてくれる僕に執着するようになったらしい。かわいそう。


「でもさー。テレビでも先生が来てから、犯罪が減ったって言ってるよ~ 住みやすい街になったって」

「メディアに洗脳されるなよ。あいつらは先生の太鼓持ちだ。自分の頭で考えろ」


 その自分で考えてるっていうのも、誰かに吹き込まれたことなんだろどうせ。

 信じたいことを、人は信じる。


 悪友は変わってしまったな。こんなことを言うやつじゃなかった。

 だからといって、こいつをすぐに見捨てるほど情が浅いつもりもない。

 腐れ縁というか、長い付き合いだしなあ。


有川ありかわしかまともに聞いてくれるやつがいないんだよぉ~」

「泣き真似するな。それより昨夜の『はいスケ』見た?」

「ああ……最終回の。あれやっぱ死んでるよな。死ぬことないよな」

「おまえの感想情緒なさすぎないか? うつに理解がない男め」


『はいスケ』というのは深夜アニメ『はいいろランドスケープ』のことだ。

 メイン登場人物は女の子二人。かなり暗いアニメということもあり視聴者が少ない。

 このクラスだと僕と悪友ぐらいなんじゃないか?


「はいスケがあってよかったな。なかったらとっくに僕たちの友情は終わってた」

「友情が終わり、愛が始まるってわけか?」

「キモい。ほら。予鈴鳴ったぞ」


 目を合わせないまま紙パックの100%野菜ジュースをちゅーっと吸っていたら、ようやく諦めて自分の席に戻っていく。

 それと同じぐらいの熱意で学業にも取り組んでほしいよ、

 と思うのは教師でもないのに教師目線すぎるかもしれない。

 始業の時間になり、ぱたぱたぱたと軽い足音を立てて山田先生が入ってくる。


「おっはよ~、アリンコのみんな! 元気にしてた?」


 140cmもないだろう、小柄な身体。くりっとした大きい桃色の瞳。

 頭で揺れているのは、リボンで結んだ、冗談みたいな桃色のツインテール。

 女性教師らしくレディーススーツとタイトスカートを着こなして……いや、丈があっていないのか袖が余ってるし、逆にへそが出てたりする。

 教職をバカにしてそうな格好、いや、むしろ一周回って逆に聖職者にふさわしい装いと言える。

 袖からはみ出した指は、ぷにぷにと愛らしい。


 そんな深夜アニメに出てきそうなデザインの彼女が、山田先生である。


「おはようございま~す、山田先生!」

「もう、わたしのことはニーニェちゃんって呼べって言ったでしょ~ その名字嫌いなの!」


 きさくに挨拶しあって、山田……ニーニェ先生は教壇に登り、授業を始める。

 背がちっちゃすぎて、専用の踏み台がないと顔が隠れてしまうのである。


「はい、これわかる人!」

「はい!」「はい!」「はい!」

「はーい、じゃ福原くん、やってみて~……

 って、ぜんぜん違うじゃない~ も~っ

 ちゃんと授業聞いてるの?」

「えへへ……」


 みんな山田……ニーニェ先生のことが大好きなので、幸せそうに授業を受けている。

 問題を出せば誰もが競うように挙手をする。

 合っていたら褒めてもらえるし、違ったら叱ってもらえる。

 どっちでもうれしいのだ。


 とは言え、このクラスの授業の理解度はかなり高い。

 ニーニェ先生は本当に教えるのが上手なのだ。

 ニーニェ先生は明らかに僕たちより年下だけど、誰もバカになんてしない。

 ニーニェ先生の国では、幼稚園児のころにはもう高校レベルの課程は済ませてしまっているらしい。

「つまり、君たちがわたしの国に来たら、幼稚園に入ってもらうってことになるね!」なんて屈託なく笑っていたっけ。

 幼稚園児にわからないところを訊くことになるのだろうか?


「も~、せんせーのこと好きなのはうれしいけど。

 ちゃんと勉強しない子は、踏み潰しちゃうよ?」


 ぷりぷりと怒って見せた次の瞬間には、ニーニェ先生の姿は幻のようにかき消えている。

 

 そう唱える声が響いた気がした。

 そして、縦の振動が僕たちを襲った。

 蛍光灯が瞬き、パラパラとホコリが落ちる。黒板消しが落ちて転がる。

 クラスで飼っているハムスターの籠は、飼育委員の生徒が必死に守っていたので無事だ。

 校舎全体を、いやこの街全体を揺らすような揺れだった。

 でも別に今更こんなことで驚いたりもしないし、机の下に隠れたりもしない。


「立場の違い、わきまえてよね~!

 きみたちアリンコとはこんなに、大きさが違うんだからっ」


 何重にも拡声器を通したような、高い声が重く大きく響いて、空気を震えさせた。

 窓から外を見ると、校舎の外、校庭に、狭そうにニーニェ先生がしゃがみ込んでいる。

 そう。狭そうに。僕たちの数十倍の大きさになったニーニェ先生にとって、校庭は狭いなんてものじゃない。

 前に巨大化してお尻で周辺家屋を押しつぶしてしまって以来、この学校の敷地はちょっと広くなった。

 今のニーニェ先生は、しゃがみ込んでようやく屋上にいる生徒と目線の高さが合う程度といったところだから、二階の教室にいる僕たちを見ようとすると、ちょっと無理な姿勢になって覗き込まないといけないのだ。

 人の背丈よりも大きくなってしまった桃色の瞳が、巨大な鏡のように、窓の外に広がっている。


「みんなこうしてみるとほんとちっちゃいよねえ! ほんとにアリがぎっちり詰まったアリ塚みたい!」


 薄く淡い色の唇を窓の近くに合わせて、アリクイのように舌を伸ばす……なんてことはせずに、ふぅ、と息を吹きかける。

 ふぅ、というのはニーニェ先生の主観での表現で、僕らにとっては甘い暴風が吹き荒れるのと同じだ。

 教室の机がめちゃくちゃになり、吹き飛んで怪我をした生徒もいただろう。

 見下されてアリ呼ばわりされて、悪戯で済まされないようなことをされても、別に僕たちは怒ったりはしない。

 もう、ニーニェちゃんはしょうがないなあ、なんて苦笑しながら、散らかってしまった教室を片付けている。

 ニーニェ先生の唇に触れようとニーニェ先生から吐き出された吐息を胸いっぱいに取り入れようと深呼吸しているもの、ひどいのになるとそのへんにうずくまってごそごそやりはじめてるバカもいる。

 みんなどうしようもなくニーニェ先生に恋している。いいよな。いい……。プロは多くを語らない。


 白けた様子で、机に片肘をついて座っているのは、悪友だけだった。


 休み時間に入ってもニーニェ先生は巨大化しっぱなしだ。屋上に行って昼ごはんを食べようとしたら、桃色の川が屋上の上を横切っていた。

 川ではなくて、どうやらニーニェ先生の長い髪が屋上にかかっているらしい。


「有川ちゃ~ん」


 ニーニェ先生の街全体を震わせるような声。

 笑いかけられながらそんな大きな音量で自分の名前を呼ばれるのは恥ずかしいなんてものじゃない。

 ニーニェ先生への数少ない不満だ。

 というかクラスメイトの僕への視線が痛すぎるんだよ……。


 ニーニェ先生、髪の毛触っていいですか? しょうがないなあ、いいよ。やったあ。

 屋上を横断する髪の大河に、靴を脱いで乗って、這いつくばって頬ずりをする。

 こんなに大きいのに、極上の紗に触れているみたい。

 それでいて、人間ひとり程度の重さでたわんだりもしない。

 そして何より不思議ないい匂いがする。ずっと嗅いでいたくなるような。

 どんなシャンプー使ってるんだろう? 僕も使ってみたいな。同じ匂いになりたい。

 周りを見たら、男女問わず生徒が、同じように髪の毛に抱きついている。

 おまえだけのニーニェ先生の髪ではない、と言われている気がした。

 それはわかっているつもりだけど。

 なんか先生に気に入られている気配は、感じている。錯覚だと思う。思い上がらないようにしたい。


 ふとニーニェ先生のほうを伺うと、もう興味を失ったのか、そっぽを向いていた。

 視線は校庭の方に向けられている。髪の毛から降りて、フェンスに近づいてそちらを見てみる。

 すると、やはり生徒が男女問わず、白タイツに包まれた脚を広げて座るニーニェ先生の、その脚の間に屯していた。

 なんなら教師もいる。

 まあつまり、覗いているのだ。あいつらは。パンツを。

 何度見ても、うわ、と思う。

 こうして屋上──ニーニェ先生と近い目線から見下ろすと、

 小学生ぐらいの幼女の股間に、何十人もの虫けらみたいな小人が集っているのがありありとわかる。

 醜悪。


「も~ アリンコたちはほんとにせんせーの下着見るの好きだねぇ」


 ニーニェ先生のからかうような声が降り注ぐが、特に咎めたりはしない。

 むしろ、見せることを楽しんでいるフシすらある。

 ふしだらですよ。先生。僕はそう注意する。


「なに? 有川ちゃんも見たいの?」


 そうじゃなくて。


「それとも、この子たちみたいに、あんよに登ったりしたい?」


 脚を指差す。

 それによじ登っている生徒たちは、黒の詰め襟や紺のセーラーだから、タイツの白さでくっきりとその姿がわかる。

 それもしたいけど。そうじゃなくて。


「それともこっち?」


 お腹を指差す。

 ニーニェ先生の剥き出しのぽよんぽよんのおなかの上で遊んでいる生徒たちがいる。

 くそ。みんなやりたい放題かよ。


「ふーん?

 つまりダニみたいに髪の毛の上に乗っかって頬ずりしたりするのが

 こどものパンツを見たり脚にすがりついたりすることよりも高尚だと思ってるの?」


 僕がなにか言い返す前に、ニーニェ先生は、髪の上やふとももの上、服の上に乗って遊んでいる生徒たちに、降りるように促す。

 それから、よっこいしょと立ち上がった。

 高層ビルのような巨大構造物が移動することで、空気の流れが生まれ、風が巻き起こる。

 飛ばされないように、フェンスにしがみつく。

 退去しなかった、あるいはできなかった生徒たちが、髪に掴まったまま上空に連れ去られるのが見えた。


「ほーらっ。有川ちゃんたちにも見せてあげる!」


 地鳴りがする。空気が揺らぐ。

 また、巨大化している気がする。

 もう100倍近くなっているんじゃないだろうか。ニーニェ先生にとっては僕たちは本当のアリのようなものだ。

 校庭の土をその重さで掘り返しながら、ニーニェ先生は校舎をまたいで立つ。

 誇らしげに腰に手をついた、仁王立ちの姿勢。

 大人のロールプレイをしているタイトスカートの下に隠れているのは、

 パステル調のいちごとかソフトクリームとかのマークがプリントされている、あざといぐらいの女児用のショーツだった。

 プリントのひとつひとつよりも、僕たちはちっぽけな存在だろう。

 その上を歩いたなら、出来たしわの一つ一つにも、足を取られてしまいそうだ。

 目をそらすこともできない。

 全身が桃色の空を遮っている。ニーニェ先生という新しい空が生まれたようだった。


 例え、そっぽを向いたとしても。

 巨体に温められた、ニーニェ先生の甘酸っぱいにおいのこもった空気が、むわりと漂っていて。

 頭上にあるものを、意識せざるを得なかっただろう。

 大きすぎるニーニェ先生は、存在だけで、僕たちを支配している。


「嬉しいでしょ?

 十年ぐらいしか生きてないこどもに丸ごと見下されて。

 狭っ苦しいお庭で生きてるアリと同じだ、ってわからされるの!」


 すべてを見透かしたような声。

 こどもらしい甲高い声が、甲高いままに、かたかたと校舎の窓を震わせる。

 こどもの下着を見せられて、どうしようもなく嬉しくなってしまっている。

 僕たち全員が。


「もっともっと、大きくなっちゃおう、かな!」


 叫ぶ。

 すると、ショーツの天がせり上がっていく。

 再びニーニェ先生の身体が膨らんでいるのだ。

 肩幅の広さだった脚も外側に膨らんでいって、建物がかわいらしいストラップシューズの下に消えていく。

 もう、この街どころかこの国に、彼女より背の高い建造物は存在しないだろう。

 あるいは山ですら。

 ストラップシューズの留め金にすら、屋上にいる僕たちは見下されるようになる。

 すでにこの校舎は、ニーニェ先生の靴よりも小さい。

 なにかの間違いで靴底にでも落ちてしまったら、一生をそこで終えることになるだろう。

 靴のような大きさの校舎に塵のような小人が大真面目に通う光景は、滑稽でたまらないものはずだ。


「うっふふっ。

 もう、校舎ごとみ~んな踏み潰せちゃうねっ」


 髪の毛にひっつこうが、下着を見られていようが、気になるはずもない。

 同じ人間ではないのだから。

 わざとらしく片脚を振り上げると、今度は黒いシューズの底が、代わりに空を覆う。

 彼女にとっては埃同然の、巨大な土の塊が、ぼろぼろと落ちてくる。

 これも彼女の日々の戯れの一つにしか過ぎない。

 それをわかっているから、生徒たちも過剰に怯えたりはしない。

 あるいは、本当に踏み潰されてしまってもいい。

 そう思っているのか。


「でも、そんなことはしないよっ。

 せんせー、みんなのことが、大好きだから!」


 靴を再び、元の場所に戻して。

 大きな地響きとともに、校舎を見下ろして座り込む。

 女児の曲がった膝という山脈に、僕たちは取り囲まれるのだった。

 もちろんスカートはめくれあがって、中身が巨大なビルボードのような存在感を放っている。

 あれだけ大きいともはやいやらしさを感じない。


「大好き、かあ……」


 つぶやく。

 僕たちの小ささを、卑しさを、まるごと受け入れてくれる、小さくて大きな女の子。


「……僕も、」


「それは恐怖を恋慕と勘違いしてるだけだ」


 冷水のような声がした。


「恐怖で心を縛って、愛する素振りで開かせる。そうして救われたと勘違いさせる。

 よくある手口だぜ」


 隣を見れば悪友が立っていて、呆然としていた僕を、手を引いて、屋上から連れ出していった。

 邪魔をしないで欲しいよ。

 もっとニーニェ先生のことを見ていたいのに。


「有川ちゃんと羽田はだくんは仲がいいんだね。せんせー嫉妬しちゃう」


 巨大化を解除した、あるいは縮小化したニーニェ先生が、階段の踊り場で僕たちを待ち受けていた。

 羽田というのは悪友の名前だ。仲がいい?

 まあ仲がいいことになるのかな。羽田は僕の手を握ったまま、ニーニェ先生を睨みつけている。

 なんか手汗が滲んでてキモいよ、羽田。

 それに、顔が青い。歯を食いしばりすぎている。

 睨みつけてるのも、虚勢だってわかる。

 かわいそうだな。

 ニーニェ先生のことを、怖いとしか思えないんだって。


「ね、有川ちゃん。髪の毛にゴミがついちゃってるみたいなの。とって?」


 返事を聞く前に、ニーニェ先生はくるっと背中を向ける。言われた通りに、彼女の後頭部を見下ろす。

 すると、つむじのあたりに、なにか動く黒く小さなものが見えた。まさにアリのような。

 それはよく見ると小さい人間だった。

 もっとよく見れば、うちの制服を着ている男子生徒だった。

 甲高い声で誰かが叫んでいた。僕の声だった。


「先生、これ」


 潰さないように、慎重に指にとって、ニーニェ先生に見せる。ああ、と先生は悲しそうな顔をした。


「せんせーが小さくなるときに、くっついてきちゃったんだね。

 だからどいて、って言ったのに……」


 両手で彼を包み込むようにして、語りかける。

 ニーニェ先生が巨大化する時、誰かがくっついていても、別に一緒に巨大化はしない。

 しかし、逆に縮小する時は、そうではないらしかった。


「ただでさえ小さいのに、もっともっと小さくなっちゃって……。何度も何度も言ってるのに。

 一度小さくなっちゃったら、戻れないんだよ、って。

 もうこうなったら、君は誰かに飼われて生きていくしかないんだよ。かわいそうに……」


 心の底から哀れむような声だった。

 ピルケースのような箱を取り出すと、その中に彼を入れてしまう。


「もうこれで何十匹目になるかなあ……みんなどうしたらやめてくれるんだろ。

 ごめんね~有川ちゃん。嫌なことさせちゃって」


 去っていくニーニェ先生。その背をぼんやりと見送ってしまう。

 僕は、適切な反応を返せないでいた。

 ああなってしまった生徒は、多くはニーニェ先生が面倒を見ることになるようだ。

 どんな日々を、送ることになるのだろう?

 誰もニーニェ先生が、どんなところに住んでいるのかを知らない。

 ニーニェ先生の部屋は、どんな感じなんだろう。

 ピンクが好きみたいだから、壁紙も天井もピンクだったりするのかな?

 ああして小さくなって連れ去られないと、わからないのかな。


「よかった。おまえが小さくなったりしてなくて……」


 横に立っていた羽田が呟く。なんだよそれ。どういう意味。


「羨ましい、だなんて思ってないだろうな」


 うるさいよ。




 翌日。

 いつもの通学路を歩いて、学校へ。

 雲ひとつ無い桃色の空が今日もきれいだ。

 昨日の巨大化で学校の敷地の外の建物が無数に踏み潰されていたが、それももうすっかりもとに戻っていた。

 まるで夢のように。

 毎日のようにああいう遊びをされているのにこの街が更地にならないのは、ニーニェ先生が都度直してくれているからである。

 僕の家がうっかり踏まれたときもあった。

 そのときはてへへと舌を出して笑って、すぐに元通りにしてくれたこともある。

 あのときはまるで魔法のようだった。実際魔法使いなのかもしれない。


 踏まれた現場を通ると、道路にうっすらと靴痕らしきものが残っている。

 ニーニェ先生は完全に復元できるわけではないらしい。

 この靴跡を愛好する街の住民もいるようだ。


 ホームルームの時間、ニーニェ先生は彼を飼ってくれる生徒を募集した。

 残念ながら誰も名乗り出なかったので、先生が飼うことにしたようだ。

 人気のクラスメイトが小さくなってしまった場合は、取り合いになったりもするのだが、幸か不幸か、今回はそうはならなかった。


「ハムスターぐらいなら、クラスのみんなで飼うのもありだったんだけどねえ」


 さすがにアリみたいな大きさの生徒をクラスで飼ってもしょうがない。

 アリ観察キットに一匹だけ居てもむなしいだけだろう。

 100倍ぐらい大きい集団に囲まれて暮らしていたら、きっと気が狂ってしまうだろうし。


 それにもうハムスターはいる。

 二匹に増やしてもいいのかもしれないけど。


 その日の放課後、帰り道に、羽田が声をかけてきた。


「逃げよう」


 人気のない路地に僕を連れ込んで開口一番切り出してきたのは、それだ。


「なんだよ。乱暴するのかと思ったよ。それで今日はどういう冗談?」

「どっちだよ冗談言ってるのは。

 見ただろ。人間がまたアリみたいに小さくなって、拉致されただろ。

 それだけじゃない。またたくさん建物と人が踏み潰された」


 拉致とか殺人とか。いちいち表現が穏やかじゃないなあ。


「あのなあ。ニーニェ先生を大きいからって怪獣扱いするなよ。

 人が小さくなったのは事故だし、先生は人を踏み潰したりなんかしないよ。

 ちゃんと建物だって元に戻してくれてるだろ?」

「人が死んでないのは、死体を出してないってだけだよ。

 行方不明者が何人出てると思ってんだよ、山田先……山田が来てから」

「いい加減怒るぞ。何がそんなにニーニェ先生のことが気に入らないんだよ」

「何が、って」


 信じられないというような目で、羽田が僕を見る。ためらいのあとに言葉が吐き出された。


んだろ!

 どうかしてるのはお前だよ有川!」



 僕もなんというべきか、少しのあいだ言葉が見つけられないでいた。


「……だ、だって、あれは、事故で」

「事故でも、事故じゃなくても! 一緒だろ! いいか。逃げるぞ!

 明日そうなってるのが、おまえじゃないとは限らないんだよ!」


 強引に僕の手を引いて、羽田は桃色の夕焼けの下を走り始める。

 それに逆らう気になれなかったのは、羽田に力ではかなわないからか、

 変に拒むよりは一度好きにさせてやったほうがいいだろうという打算からか、

 はたまた羽田が、メガネの奥で涙をにじませていたからか。


 ねえ羽田、それにニーニェ先生。

 生きている価値も意味もないような僕に、どうしてこんなにこだわるの?


 そう背中に問いかけることはしなかった。

 答えが返ってこないと知っているから。

 踏切を越えて、どこまでもどこまでも僕たちは走っていく。

 今にして考えれば、どうして電車のような交通機関を使おうとしなかったのか。

 というか、鉄道が動いていないことに疑問を持てないでいる時点で

 ニーニェ先生を出し抜こうなんて話は、まさに机上の空論だった。


 ちっぽけな僕たちは、信じたいものしか信じることができない。

 箱の中のアリは、盲目のようなものだから、信じたいものを選ぶことすらできない。


「なんだ、ここ」


 走り続けて、街の端。僕と羽田は、呆然としていた。ピンク色の平原が広がっている。

 僕たちの頭上に広がっている空と同じ桃色だ。

 触ってみると、のっぺりとしているのがわかる。まるで3Dソフトの、作っていない部分のようだった。

 セミどころか、僕たち以外のどんな生き物の気配もしない。

 ここには生命がない。


「なあ」

「ん」

「空って、本当は青くなかったっけ?」


 言われてみれば、そんな気がする。

 いつからか、この街を覆う空は、朝も昼も夜も、ずっとピンク色だった。


「行こう」


 羽田はふたたび走り始める。僕もそれに続く。羽田に促されるでもなく、僕もそうしたいという気持ちになっていた。

 羽田のような確固たる目的意識が宿ったわけではない。果てがあるともわからない旅。


「これ、『はいスケ』だよな」

「はあ?」


 まあ、はいいろランドスケープとはぜんぜん違うんだけど。

 はいスケの舞台は灰色の街だし、旅をしているのは二人の女の子だし。


 でも、最後に破滅が待っているのは同じだ。


 どれだけ走っただろうか。ももいろのランドスケープは、終わりを迎える。文字通りに。

 唐突に直線で区切られている。足元に垂直にのっぺりとした断崖が広がっている。

 視界は霞がかっていて、どれぐらいの高さがあるのかすらもわからない。

 

 どこかからか、生暖かい風とともに、甘酸っぱい香りが漂ってくる。

 いつまでも嗅いでいたいような、蠱惑的な香り。

 どこかで覚えのある香り。


「出られない、ってこと?」

「……」

「……」


 戻ろうか。そう切り出そうとして。


「ほんと、有川ちゃんと羽田くんって、なかよしだよね」


 ニーニェ先生の声が、なにもないはずの空から降ってきた。


「わたし、ピンクが好きでね。髪の色がそうだからかな。

 壁紙とか机とか、全部ピンクで統一してるんだ。素敵でしょ?」


 ふふ。やっぱりな。解釈一致、ってやつだ。

 でも、どうして壁紙や机の話をしはじめるんだろう。


「ねえ有川ちゃん」


 今度は声は後ろから響いた。振り向けば、ニーニェ先生が僕たちと同じ尺度で佇んでいる。


「せんせーね、有川ちゃんのことが好き」


 まるで羽田なんて見えていないかのように、つかつかと僕に歩み寄ってくる先生。

 今は僕なんかよりも小さいというのに、不思議な威圧感がある。

 伸びた指がとんと僕の胸を突く。

 ひぅ、と声が上がった。

 背伸びした彼女の、顔が近い。


「ねえ、有川ちゃん。せんせーに、踏み潰されたい?

 お父さんと、お母さんみたいに」


 尖った八重歯を見せて笑う。紅い口内も見えた。

 教室の窓に近づいた唇を思い出す。

 ずっと見ていると、まるで自分がその紅い洞窟の中に落ちていくような錯覚にとらわれる。

 残酷なことを言われているはずなのに、どうしてか胸が高鳴る。


「僕は、踏み潰されたく……ないです」

「どうして?」

「だって、踏み潰されちゃったら、あなたの特別には、なれないから」


 きょとん、としていたが、数秒後、にへらぁ~~と笑う。

 ほしいものを買ってもらったときの、こどもみたいに。


「せんせーはね、有川ちゃんのこと、欲しかったんだ。

 だから、まず、街ごと有川ちゃんを捕まえることにしたの」


 言葉が意味を置き去りにして、耳を通り過ぎていく。


「それから、有川ちゃんの持ってる全部を奪おう、って思ったの」


 陶然とした声。ピンクジルコンの瞳が、まばゆく輝いている。


「そうしたら心も身体も、せんせーのものに、なるんだよ」


 視界の端で羽田が叫んでいる。逃げろ、とか、離れろ、とか。


「べ……別に、そんなこと、しなくたって」


 僕の家の上にストラップシューズを乗せて、

 楽しそうに笑っているあなたと、目が合ったときから、僕は。


 どん、とニーニェ先生の小さな身体が突き飛ばされる。羽田だ。

 そうして僕の手を引いて、また走ろうとしている。

 断崖とは反対の方向。


「ごめん、羽田」

「なんだよ! 謝るな!」


「もう、君とは破滅できそうにない」


 え、と叫んだ顔の形のまま羽田の表情が固まる。

 それから、僕よりも背の高いはずの羽田が、いつのまにか僕を見上げていた。

 次に幼児ぐらいの身長に。次に瞬きしたときには、ネズミのような大きさに。

 縮んでいた。


 


 呪文を唱える声がしていた。

 アリの大きさになって、僕の足元から、絶望の表情で見上げている、羽田がいた。

 いや、絶望の表情かどうかなんて、僕には小さすぎてわからないけど。

 後でニーニェ先生がそう言っていたのだ。


「はーいっ。またこれで有川ちゃんのもの、奪っちゃったねっ」


 ウキウキした様子のニーニェ先生が、僕の腰越しに、羽田を覗き込んで見下ろす。


「……別に、僕のものじゃないですけど……」


 もっと気の利いたセリフは言えないのだろうか。情緒がないなんて人のことは言えないなあ。

 羽田。お前、ニーニェ先生に直々に小さくしてもらえるなんて、ちょっとうらやましいよ。


「有川ちゃんも小さくされたかった? 小さくされてみじめにペットになりたかった?」

「僕の心を読まないでください、カジュアルに」

「それとも小人をペットにしたい? 飼っていいよ。そいつ」

「…………嫌です」


 受け答えが僕の声で、僕の預かり知らぬ仕組みで、交わされる。

 足の下のピンク色の大地はあまりにも確かなのに、ババロアのように不確かで。

 正解のないところに、来てしまった。

 どう答えれば、先生は褒めてくれる?

 それとも、叱ってくれる?


「有川!」


 まさに蚊のささやく、小さい声で羽田が叫んでいた。


「お前って黒いパンツ穿いてたんだな!」


 じゃあせんせが踏んじゃお、と。

 ニーニェ先生が僕の前に回り込んで、ストラップシューズを振り下ろすと、

 あっけなく羽田の姿は消えた。


 その小さな小さなストラップシューズを、ずっと凝視していた。

 数分、あるいは数時間もの間。

 もっと幼い頃からずっといっしょにいた、羽田の姿と声を……きっとそれ以上のものを消してしまった、靴のことを。

 喉の奥がからからに乾いているのを、感じていた。


「先生……」

「ん? なに」


 やっと言葉をつむぐ。


「羽田、最後なんて言ってたんですか? 聴こえなくて」

「ん~と」


 ニーニェ先生はちょっと考える素振りをしてから、僕のプリーツスカートを手でべろんとめくった。


「ほんとだ、黒だ~」


 ……やめてください。

 手をぺし、っと払う。


「いつもせんせのパンツ見てるんだからいいでしょ」

「あれ見てるっていうか露出につき合わせられてるだけじゃないですか!!」

「人をヘンタイみたいに。この生意気アリンコめっ」

「対象がアリでも人でも露出ヘンタイなのは変わりませんっ」

「正論を言うなんて、かわいくないぞっ」


 どんどん、と拳で軽く僕のお腹を突いて、じゃれついてくる。

 まるで普通のこどものように。

 地面に目を落とす。

 何もなかった。

 誰もいなかった。

 誰かが生きていた、その痕跡すらも。

 桃色の地表に薄らいで溶けてしまったのだと、妄想してしまうぐらい。

 あるいは、僕が認識することを拒絶していただけかもしれない。


「僕のこと好きだって言うなら、……他のやつに、下着なんか見せないで、くださいよ」

「わかった。パンツの奥は有川ちゃんだけに見せるねっ」


 街に戻ろっか~、と軽い調子で僕の手を引っ張って歩き出す。

 ニーニェ先生のちいさな歩幅に合わせて、続く。

 ただ、彼女の愛を、受け入れるしかなかった。

 それがしあわせなんだと、思うことにした。

 他に選べるものは、きっとないのだと。


「あ、これ『はいスケ』だな」

「なにそれ?」

「後で教えてさしあげます」


 先生は、いっしょに深夜アニメを観てくれるといいな。




(了)

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