【短編】赤ちゃんプレイがしたいなぁと漏らしたらラブコメ始まった

夏目くちびる

第1話

「急に何を言い出すのよ、バカなんじゃないの?」


「……いや、すいません。ついうっかり」



 放課後、俺は文芸サークルの部室でツカサ先輩と珍しくも二人きりになっていた。普段なら、三、四人で集まって他愛も無いトークを交わしてるのだが、今日はみんな忙しくて顔を出せないらしい。



 ツカサ先輩は、理工学部で4年生のクールなお姉さんだ。長い黒髪と、ちょっとおっかない切れ長の目。身長が高く足も長い代わりに、おっぱいは小さい。酔っ払うと、そこのところを気にしていたりする。



 クールな見た目で、見た目以上にクールで、しかし実は優しくて面倒見のよい天才女てんさいじょ。それが、彼女ことツカサ先輩なのだ。



「まったく。私の経験上、ついうっかり性的欲求を口にする男はロクな奴じゃないわよ」


「へぇ、先輩はそういう事を聞く機会がよくあるんですか?」


「22年間生きてきて、一度も経験がないから普通じゃないって分かるのよ。下心丸出しの方が、まだ理解出来るわね」


「な、なるほど」



 あまりにも至極真っ当な意見に、俺は返す言葉が見つからなかった。それもこれも、今読んでいるライトノベルのせいだ。こんなふうに素直に甘える姿を見たら、俺だって羨ましく思ってしまう。



「君は、そういう願望があるの?」


「えぇ、まぁ。あまり、大きな声では言えませんが」


「ふぅん。どうして、私の前でうっかりしちゃったの? 自分で言うのも何だけど、私ってそういうことを軽蔑するイメージがあるでしょう?」


「そんな事ないですよ。先輩といると、落ち着くから口が滑ったんです。今日はラーメン食べたいとか、明日は温泉に行きたいとか。そういう、他愛のない呟きの延長線上にあった言葉だと思ってください」



 聞いて、先輩は呆れたようにため息を吐くと、自分の手に持っていた文庫本をパタリと閉じて読書用のメガネを外した。



「その延長線に変態チックな暴露を置いておくのは理解出来ない。というか、私って気が抜ける程に軽んじられているのかしら」


「そんなことないですよ。内緒にしてましたが、実はサークル内でも一番尊敬してます。カッコいいです。『落ち着く』っていうのは、半分くらいは大好きと同義だと思ってください」



 すると、今度は瞬きを二度してから、ゆっくりと窓の外を見て目を合わせずに口を開いた。



「……君って、そういう歯が浮きそうな事を平気な顔して言うわよね。恥ずかしいからやめてよ」


「もう少し、酔っ払ってる時にするべきでした。反省します」


「そういう意味じゃないのに、もう」



 しかし、意外にも俺は先輩からお叱りを受けなかった。こういう事を言えば、少しくらいは年上っぽい偉そうな講釈を垂れてもおかしくないハズなのに。



「でも、うっかりってことは本音なんでしょう? 君って、飄々としてるようでも本当は寂しいの?」


「寂しい、ですかね。俺、あんまり感情を表に出す方でもないので、他人から誤解されますし。自分を変えようと思って明るく振る舞えば、今度は節度を守れずに失敗しますし」



 大学へ入学した当初、友達が欲しくて陽キャの立ち振舞を真似しようと頑張ってみたのだが、結果的にしっかりとキョロ充臭い不自然さを身に纏ってしまった。



 以来、俺は高校時代と同様に静かに暮らしいてる。文学サークルを選んだのも、ここなら黙っていても他人に迷惑をかけなくて済みそうだと思ったからだ。



「だから、寂しいです。いつか、本音をブチ撒けられる人と出会いたいって思います」


「そっか」



 呟くと、先輩は再びため息を吐いて頬杖をついた。俺はカメラマンではないが、思わず指でフレームを作って囲いたくなるくらい絵になる仕草だと思った。



「先輩。そんなに親身な顔をされると、恋してしまうので止めてください。俺が告白したら、先輩は断る手間をかけさせられるんですからね」


「どういう毒舌なのよ、それは……」


「青春に対するルサンチマンですよ、先輩。俺は、欲しいのに手が届かないモノを見るとムカつくんです。なので、手に入れたいと思わないように自分を抑えたんです」


「君の言葉選びって、本当にどういう思考から成されているのか気になるわ」


「過去と諦めです」


「暗いわねぇ……」



 そして、先輩は三度ため息を吐いて、いつもよりも優しい目をしながら俺を見た。



「分かりました。エッチな事はしてあげられないけど、ちょっとだけなら慰めてあげる。そんな寂しそうにされたら、放っておけないじゃない」


「ま、マジなのですか?」


「えぇ、でも他の子には内緒よ」



 そんな事を言われれば、俺のような寂しがり屋が我慢出来るハズもなく。先輩ならば、きっと嘘をついて俺をからかうようなことはしないだろうと思いつつ。



 俺は腰を上げると、部室の鍵を掛けて静かに先輩の隣りに座り。



「じゃあ、おいで」



 手を広げて、先輩を胸の中へ誘った。



「……えっ?」


「いや、ですから『おいで』と言ったんです。赤ちゃんプレイ、付き合ってくれるんですよね? 俺も少し恥ずかしいので、躊躇しないでくださいよ」


「ちょっと待って! そっちなの!?」


「そっちって、どういう意味ですか?」


「普通は男の人が甘えるモノでしょ!? 寂しいから甘えたいんでしょ!?」


「そうですか? 誰かに必要とされたいって欲求は、結構普通のモノだと思いますけど」


「そ、そうだけど! でもでも! そうだけどそうじゃないでしょ!?」



 あのクールな先輩が目を回しているのを、俺は間違いなく初めて見た。先輩の予想では、俺が頭を撫でられながら世の中の辛みをバブバブと語る見通しだったのだろうか。



 よく、分からない。世の中の男って、不思議な願望を持ってるんだなぁ。



「ツカサちゃん、おいで。パパがナデナデしてあげるから」


「ほ、ほぇ……」



 俺では男が甘える事の理解が出来なかったので、言い訳もそこそこ聞きにゴリ押してみると、先輩はフラフラしながら頭だけを中途半端に俺の胸へ預けた。



 考える事が難しくなってきてはいるモノの、まだまだ理性は働くらしい。だから、俺は彼女の頭にそっと触れて、髪の流れに逆らわないように優しくゆっくりと撫でた。



「赤ちゃんが、そんなに遠慮がちな甘え方をするんですか?」


「うるひゃい! わ、わ、私がどれだけ恥ずかしい思いをしてるのか分かってるの!?」


「そういう女の人を見て満たされたいから、赤ちゃんプレイを求めたんじゃないですか」


「あぁいえばこういう……」



 しかし、黙って撫で続けると、俺から離れようとしたのか、それともとうとう諦めたのかは判断がつかないが。先輩は俺の胸に手をついて、僅かばかりに体重を預けて息を呑んだ。



 瞬間、俺は彼女を左腕で抱き寄せた。プルプルと震えるつむじは、やたらと色っぽい匂いがする。鼻の奥から心臓まで、キュッと締め付けられるような匂いだ。



「よちよち」


「い、い、一応確認なのだけれど、これは私が君のお願いを叶えてあげてるのよね? 決して、私が君にお願いを叶えてもらってるワケではないわよね?」


「その通りです。ツカサちゃんは頭がいいでちゅねぇ、ご褒美あげましょうね」



 つむじにキスをしたその時、先輩の中で何かが壊れたようだった。これまでは強張っていた体が、スッと柔らかく解けてふにゃりとなったのだ。



「……ぱ、パパ」



 パパ呼びをされた刹那、俺の心の中にパズルの最後のピースをはめ込んだかのような耐え難い達成感が猛烈に芽生えた。その快感に身を任せ、ゆっくりと腕に力を込めて抱き寄せると、先輩は俺のシャツをギュッと握り締めたまま動かなくなる。



 強い彼女を支配しているようで、何か熱いモノが込み上げてきた。



「なぁに?」


「論文が、終わらないの」


「そっか。今、かなり忙しい時期だもんね」


「なのに、学部のみんなは私に『教えて』って言ってくるの。私だって、自分の研究でいっぱいいっぱいなのに。研修だって、凄く忙しいのに」



 ――なでなで。



「それは大変だねぇ。でも、ツカサちゃんは頼られたら見捨てられないんだよね?」


「うん」


「偉い偉い。ツカサちゃんは、たくさん頑張ってて凄く偉いでちゅね。パパは、全部分かってますからね」


「……ふにゅ」



 先輩の口から、これまでに聞いた事の無い謎の擬音が聞こえて来た。隠れて見えないけど、果たして彼女は今、しっかり唇と舌を動かして発音しているのだろうか。口元がだらしなくなった先輩の顔も、それはそれで見てみたい気もする。



「ねぇ、パパ」



 どうやら、先輩の中で俺を『パパ』と呼ぶことに躊躇が無くなったようだ。ずっと頭を撫でていたから、この右手が先輩の頼り甲斐や恥じらいを全て吸い取ってしまったのかもしれない。



 どんどん、庇護欲が増して来る。この子には、俺がいないとダメなんじゃないか?なんて、そんな勘違いを起こしそうだ。



「なんでちゅか?」


「私ね、この前同じ学部の人に告白されたの」


「そっか、恋人になってあげたのかな?」


「うぅん、忙しいから応えられないって。それに、私が好きな理由も私が優しくてカッコいいからって。私、本当はそんな風に見てもらいたいんじゃないの」


「ツカサちゃんは優しくてかっこいい子だよ。みんなツカサちゃんの事が大好きだし、もちろんパパも大好きだよ」


「……そうじゃないもん」



 何やら、また一つ幼児退行が進んだようだ。妙に舌ったらずな発音で、やや甘ったるげな声になっている。この人、実は他の人に優しくされたいから優しくしていたのだろうか。女の人は、自分が欲しいモノを無意識に他人にあげて欲求を隠してしまうというし。



「そっか、違ったんだね。ごめんごめん」


「や、もっとちゃんと謝って」


「ごめんねぇ」



 両腕で強く抱き締めると、先輩は俺の胸に当てていた手を背中に回してとうとう抱き着き返す体勢を取った。興奮しているのか、髪の毛を持ち上げてうなじを見るとジワと汗ばんで濡れている。



「あのね、ツカサね」


「ふふ。うん、どうしたの?」



 思わず、笑ってしまった。すると、先輩は一瞬だけ顔を上げて顔を真っ赤にし、今度は隠すように額を胸へ押し付けてジタバタしながらグリグリ悶えた。今の一人称は、間違いなく先輩の深層心理から無意識的に呼び起こされた、真の欲求の現れだ。



 きっと、今日は先輩と俺が本当の意味で出会う運命的な日だったのだ。そんな事を、勝手に思っていた。



「なんでイジメるの?」


「ごめんごめん、ごめんね。別に、そういう意味じゃないんだよ。ただ、ツカサちゃんはかわいいなって」


「かわいい?」


「うん。本当は、パパがいないと泣いちゃうかわいい子なんだなって。みんなより甘えん坊で、凄くかわいいよ」


「……もっと言って」


「かわいいよ、ずっとパパがいい子いい子してあげるからね。これからは、頑張ったら必ずご褒美をあげるからね」


「じゃあなんで今までご褒美くれなかったの!?」


「ふふ。ごめん、怒らないでよ」



 急に、キーキー喚きながら俺の事を「あほ」だの「だめ」だの、おおよそ先輩の口から飛び出たとは思えない知能指数の低い罵倒を繰り広げ始めた。それを聞きながら、俺は「あぁ、これは謝っても許してくれなさそうだな」と思った。



「やだっ!」


「じゃあ、耳かきしてあげる。好きでしょ?」



 前に、酔っぱらって『ついやり過ぎてしまう』と漏らしていたのを、俺は思い出していた。確か、自分のモノを持ち歩いているとも言っていたハズである。



「しゅる」


「ふふ。ほら、貸してごらん」



 先輩は、使い込まれた上品なブランド物のバッグから、青色の化粧ポーチを取り出してそこから耳かきを手にした。膝をポンと叩くと、もはや本当に今日まで積み上げて来た自分のイメージを忘れてしまったかのように、俺に耳かきを渡してコロンと膝枕に寝転んだ。



「あ~、あ、あ~っ」



 カリカリと耳の中を掻いても、いつも自分でやっているからか垢は取れない。綺麗そのもので、本当に耳かきが好きなのが分かる。だから、俺は先輩の軟骨と迷走神経を本当に少しだけ強めにカキカキして刺激した。



「あっ、あっ、うぅ」


「こら、変な声出さないの」


「だってぇ」



 先輩は、ツーっと涎を垂らして俺を見た。だから、親指でその軌跡を拭ってあげると、今度は反対の耳をやれと言葉にもせず、寝返りをうって俺の腹に顔を押し当てた。



「綺麗なお耳でちゅねぇ」


「綺麗にしてて偉い?」


「うん、偉いよ。よちよち」



 頭を撫でると、先輩はきっと幼少期の頃のままの無邪気な微笑みで喜んだ。こんな顔、他の男が見たらギャップで卒倒してしまうんじゃないだろうか。



 でも、俺はそうならなかった。もしかすると、心の中では分かっていたのかもしれない。磁石や水滴が引きあうように、誰かに必要とされたいと言う、俺と先輩の真逆な社会的欲求が互いを求めあう気持ちを。



 ……なんて。もしもそうならって、これは俺の願望だ。



「はい、おしまい」


「えへへ」


「どうしたの?」


「パパがやってくれると、ツカサが自分でやるより気持ちいい」


「そっか。これからは、パパがやってあげるからね」


「……他の子には、やっちゃダメだよ?」



 俯いて口にしたそれは、先ほどまでと違う大人の先輩の大人なわがままに聞こえた。



 だから、俺は仕上げに耳の穴へふぅと息を吹いて。



「大丈夫、先輩だけですよ」



 若干の悪戯心を含んだまま、優しく囁いた。



 俺は、大人の先輩すらも包んであげたかった。どうしてか、俺には自分の表と裏の全てを認めて欲しいと、先輩が言っているように聞こえたからだ。



「……的な感じで。先輩、ありがとうございます。かなり、寂しさも紛れましたよ」


「そ、そう。なら、よかったわ」


「気が付いたら、外も暗くなってますね。帰りましょう」


「うん」



 こうして、俺はツカサ先輩に願い事を叶えてもらったのだった。



 帰り道、俺は耳かき用のローションを買って鞄の中に仕込んでおくことにした。何となく、近い未来に、今度は俺が先輩にお願いをされるんじゃないかと思ったからだ。

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