第9話 阿遅鉏

 雲に覆われて濁った空が、森林の隙間から覗いていた。


 馬に揺られる阿遅鉏あぢすきは、おとろえを自覚せずにはいられない。長時間の移動は腰にくる。蓄積した疲労も老人のなにを好むのか知らないが、なかなか出てゆこうとしない。言葉に重みを持たせるために、常々気丈な態度を示してはいる。八百五十歳を超え、中央の議会においても年長ではあるが、年老いた様子など感じさせてはいないだろう。だが、過ごした時間のぶんだけ、確実に身体が死に近づいていくのが生命なのだ。


 木々が生い茂る森羅しんらで、国の中心から少し離れた北西に、阿遅鉏あぢすきが代表になっている地域があった。


 事実上、三つの砦に、十六の村、約一万三千六百人の代表というのが彼の地位だ。


 人間たちが急襲してきた『はじまりの戦』から戦闘に参加し、変化を余儀なくされた天狗たちのなかで――当初の地位は低かったものの――彼は政務や軍備の発足に関わってきた。


 一方で、長い年月をかけて体制が整ってくると、阿遅鉏あぢすきは農耕の事業に力を入れた。


 肉も食えるが、森羅の天狗たちは草食だ。


 生来、彼らは自生する植物を食して生活していた。しかし戦と人口の増加で不足が問題視されるようになり、各地域で森林に手を加える動きが活発となった。


 そこで彼は中央で培った人脈を生かし、養蜂ようほうや受粉の技術を取り入れたりきのこ菌床きんしょう栽培方法を発見したりしながら、人々の信頼獲得に努めてきた。


 天狗は自然を生かすことにこだわり、畑を持たない。だが植物の発育を促すために、ある程度の伐採をすることはあった。今阿遅鉏は、循環を促すための土について着目していた。


 気分がえないのは、空や衰退すいたいしている身体のせいだけではなかった。


 さきほどのやり取りを思いだす。彼は月魔つくまの君主継承を後押しすべく、中立思想の天狗たちのもとを回っていた。


「――いや、しかし……」


 ――今の平和を、壊す必要はないだろう。


 相手の天狗がみ込んだ言葉を理解して、阿遅鉏は弁を振るった。


 同盟は一時的な停戦を生むだけということに加え、現状の不完全さや、均衡きんこうがいつ破られてもおかしくない状況だという説明を並びたてた。


 しかしいずれも結果は同じで、空振りに終わるばかりだった。


 誰もかれも、直接的な表現ではないにせよ、阿遅鉏の考えに同意していないことが明らかだった。


 どっちつかずの立場を保ちたいという腹だ。


 何事も白黒はっきりさせたい彼にとってはうなづき難いことではあった。だが仕方ない。他人の思考を動かすのには限度がある。


 衰えを意気ごみで叱りつけて突き進む彼は、領地が近づいてきたときに煙があがっていることに気がついた。


 森林に覆われているせいで、発見が遅れた。


 馬の速度をあげる。入口近くにいる村人に話しかけた。


「なにがあった」


「ああ、阿遅鉏様……。わたくしもよくわかりません。ただ、森から火があがっていると。阿遅鉏様が、しばしば訪れる場所の近くです」


 舌打ちして馬を走らせた。


 蹄が土をたたく。疲労が飛ぶ。


 目的の場所までたどり着くと、色濃い蒸気じょうきが立ちのぼっていた。下馬げばし、荒い息を抑えて問う。

「火のもとは」


「それが、火はあがっていないのです」


「火が、あがっていない?」


 首をかしげた阿遅鉏は、煙をあげている場所に近づいた。


 たしかに火はない。


 入口にいた村人の言葉は、勘違いから生まれたものかもしれない。


 眼前には、動物のふんや砕いた岩石、枯れ葉などを混ぜた、いずれ土に入れて攪拌かくはんしようと思っていたものが山積みになっている。いくつかあるのだが、それぞれ組み合わせや入れたものの種類の数が違った。そのうちのひとつが蒸気をふいている。


 彼は手を伸ばした。


「あ、危のうございます」


 無視して触れた。


 熱を持っている。しかしやけどするほどではない。


掬鋤すくいぐわを持て」


 彼の言葉に、ひとりの男が掬鋤を持ってきて差しだした。受け取る。突き刺し掻き分けていくと、肌に触れる空気が熱を帯びてきた。


 火元は見つからない。


 どうやら、中のほうが温度が高いらしい。触れると、やはり熱かった。


「広げるのだ」


「しかし……」


「これしきの温度で火はかぬ。急ぐのだ」


 動かぬ村人たちをよそに阿遅鉏が掬鋤を動かしていると、やがて彼らも加わった。広げてからしばらく経つと、煙は消えた。


「悪いが、念のために水を用意して、見張りをひとり立ててくれ。ないとは思うが、万が一にも火があがり、森に移ってはかなわん」


 目配せし合う村人をよそに、頼んだぞ、と言ってその場を後にした。


 失敗かもしれない。


 さらなる問題を生む可能性もある。


 しかしそれは、土に混ぜ、育まれる植物をみないとわからない。


 信じて進むしかない。


 彼からにしてみれば、同じことが国にもいえた。


 阿遅鉏は妻と娘に加え、娘婿むすめむこをすでに亡くしていた。八百歳を超えた彼の親は他界しており、孫もいない。


 はじまりの戦のとき、彼は三百歳を超えていた。陽光のもとで当初より軍に加わり、故に皇太子こうたいしの死にざまを知る数少ない天狗の一人だった。


 中央である程度の地位を築いた後、地方強化のために出向した。


 問題は阿遅鉏が不在のときに起きた。


 妻と娘が、遠征えんせいしている間に殺されたのだ。


 無論、遠征で不在のなか村や城が襲われるという話は聞いたことがあった。

 だが、百年、二百年と自らの身に起きなかった出来事に対し、どこか現実味が欠けていた。本殿から出ていくときに妻や娘を残すこともできたが、伴侶は近くにいるべきだというのが元来天狗の考えだった。


 それらが災いし、妻と娘を失うことになった。


 散りばめられた死体に崩壊している家々の光景は、脳に深い皺となって刻まれている。人間を駆逐せんと最前線を希望した娘婿が戦死したのは、それから三十年後のことだった。


 ――より大局たいきょくを動かさねば届かない。


 そう理解した彼は、中央で地位を築くことに心血しんけつそそぎ、今にいたっている。


 阿遅鉏が月魔を推す理由は別にもあった。


 はじまりの戦で、彼の父が月魔に同行していたのだ。


 はじめ、父は月魔のことをよく思っていなかった。しかし彼の発案によって成功した夜襲に、父は年長者として同行していた。そして次々と功績こうせきをあげる月魔と間近で接していくうちに、父の言動に変化が現れはじめたのだった。


 阿遅鉏より月魔は年下であったが、顔を会わせる度に重ねられる父の言葉や、耳に届く月魔の活躍が、陽光のもとで働く彼にも影響を与えた。


 ――人間を、滅するために彼は動いている。


 そう思うのに十分だった。


 そしてやがて、崇拝すうはいにも近いといえる形で月魔をみるようになっていったのだ。


 たずねた中立思想の天狗たちに自らの家族が見舞われた出来事を話し、説得の材料にすることが彼にはできた。


 しかし――。


 阿遅鉏は自ら取った選択について、再度確認するように繰り返した。


 使うべきときは今ではない。


 議会では口を滑らせそうになってしまったが、皇太子が陵辱りょうじょくを受けていたのは禁忌きんきの話だ。箝口令かんこうれいかれている。事実を知る、年老いた曲者の数少ない天狗どもは重役を担っている者が多い。


 反感を買えば、今後に与える影響もかんばしくない。


 しかし自らの身におきた出来事ならば話は別だ。


 事実を知る者たちの思考にも、妻や娘たちの話はよい結果をもたらしてくれるだろう。


 この手段を汚いとののしる権利は誰にもない。


 起きた出来事をどう使うかは、個人の自由なのだ。咲耶さくやの件と同様に。


 中立思想の彼らは、咲耶の死についてまだ知らない様子だった。しかしいずれ噂は波及し、彼らの耳にも届くだろう。それは、そう遠くない未来だ。


 そして彼らの考えは、間違いなく月魔派に傾く。


 身のうえばなしを使のは、その時だ

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名もなき大陸 ー八つ国軍記物語ー 向野 空 @mukounosora2

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