第9話 阿遅鉏
雲に覆われて濁った空が、森林の隙間から覗いていた。
馬に揺られる
木々が生い茂る
事実上、三つの砦に、十六の村、約一万三千六百人の代表というのが彼の地位だ。
人間たちが急襲してきた『はじまりの戦』から戦闘に参加し、変化を余儀なくされた天狗たちのなかで――当初の地位は低かったものの――彼は政務や軍備の発足に関わってきた。
一方で、長い年月をかけて体制が整ってくると、
肉も食えるが、森羅の天狗たちは草食だ。
生来、彼らは自生する植物を食して生活していた。しかし戦と人口の増加で不足が問題視されるようになり、各地域で森林に手を加える動きが活発となった。
そこで彼は中央で培った人脈を生かし、
天狗は自然を生かすことにこだわり、畑を持たない。だが植物の発育を促すために、ある程度の伐採をすることはあった。今阿遅鉏は、循環を促すための土について着目していた。
気分が
さきほどのやり取りを思いだす。彼は
「――いや、しかし……」
――今の平和を、壊す必要はないだろう。
相手の天狗が
同盟は一時的な停戦を生むだけということに加え、現状の不完全さや、
しかしいずれも結果は同じで、空振りに終わるばかりだった。
誰もかれも、直接的な表現ではないにせよ、阿遅鉏の考えに同意していないことが明らかだった。
どっちつかずの立場を保ちたいという腹だ。
何事も白黒はっきりさせたい彼にとっては
衰えを意気ごみで叱りつけて突き進む彼は、領地が近づいてきたときに煙があがっていることに気がついた。
森林に覆われているせいで、発見が遅れた。
馬の速度をあげる。入口近くにいる村人に話しかけた。
「なにがあった」
「ああ、阿遅鉏様……。わたくしもよくわかりません。ただ、森から火があがっていると。阿遅鉏様が、しばしば訪れる場所の近くです」
舌打ちして馬を走らせた。
蹄が土をたたく。疲労が飛ぶ。
目的の場所までたどり着くと、色濃い
「火のもとは」
「それが、火はあがっていないのです」
「火が、あがっていない?」
首を
たしかに火はない。
入口にいた村人の言葉は、勘違いから生まれたものかもしれない。
眼前には、動物の
彼は手を伸ばした。
「あ、危のうございます」
無視して触れた。
熱を持っている。しかしやけどするほどではない。
「
彼の言葉に、ひとりの男が掬鋤を持ってきて差しだした。受け取る。突き刺し掻き分けていくと、肌に触れる空気が熱を帯びてきた。
火元は見つからない。
どうやら、中のほうが温度が高いらしい。触れると、やはり熱かった。
「広げるのだ」
「しかし……」
「これしきの温度で火は
動かぬ村人たちをよそに阿遅鉏が掬鋤を動かしていると、やがて彼らも加わった。広げてからしばらく経つと、煙は消えた。
「悪いが、念のために水を用意して、見張りをひとり立ててくれ。ないとは思うが、万が一にも火があがり、森に移ってはかなわん」
目配せし合う村人をよそに、頼んだぞ、と言ってその場を後にした。
失敗かもしれない。
さらなる問題を生む可能性もある。
しかしそれは、土に混ぜ、育まれる植物をみないとわからない。
信じて進むしかない。
彼からにしてみれば、同じことが国にもいえた。
阿遅鉏は妻と娘に加え、
はじまりの戦のとき、彼は三百歳を超えていた。陽光のもとで当初より軍に加わり、故に
中央である程度の地位を築いた後、地方強化のために出向した。
問題は阿遅鉏が不在のときに起きた。
妻と娘が、
無論、遠征で不在のなか村や城が襲われるという話は聞いたことがあった。
だが、百年、二百年と自らの身に起きなかった出来事に対し、どこか現実味が欠けていた。本殿から出ていくときに妻や娘を残すこともできたが、伴侶は近くにいるべきだというのが元来天狗の考えだった。
それらが災いし、妻と娘を失うことになった。
散りばめられた死体に崩壊している家々の光景は、脳に深い皺となって刻まれている。人間を駆逐せんと最前線を希望した娘婿が戦死したのは、それから三十年後のことだった。
――より
そう理解した彼は、中央で地位を築くことに
阿遅鉏が月魔を推す理由は別にもあった。
はじまりの戦で、彼の父が月魔に同行していたのだ。
はじめ、父は月魔のことをよく思っていなかった。しかし彼の発案によって成功した夜襲に、父は年長者として同行していた。そして次々と
阿遅鉏より月魔は年下であったが、顔を会わせる度に重ねられる父の言葉や、耳に届く月魔の活躍が、陽光のもとで働く彼にも影響を与えた。
――人間を、滅するために彼は動いている。
そう思うのに十分だった。
そしてやがて、
しかし――。
阿遅鉏は自ら取った選択について、再度確認するように繰り返した。
使うべきときは今ではない。
議会では口を滑らせそうになってしまったが、皇太子が
反感を買えば、今後に与える影響も
しかし自らの身におきた出来事ならば話は別だ。
事実を知る者たちの思考にも、妻や娘たちの話はよい結果をもたらしてくれるだろう。
この手段を汚いと
起きた出来事をどう使うかは、個人の自由なのだ。
中立思想の彼らは、咲耶の死についてまだ知らない様子だった。しかしいずれ噂は波及し、彼らの耳にも届くだろう。それは、そう遠くない未来だ。
そして彼らの考えは、間違いなく月魔派に傾く。
身のうえ
名もなき大陸 ー八つ国軍記物語ー 向野 空 @mukounosora2
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