身を切られるほどの苦悩

「なっ…!?」



 青くなる実に、レティルは訥々とつとつと続ける。



「世界の真理に触れてしまった私はもう、この世界に存在することを許されないのだ。この肉体を脱ぎ捨てた瞬間、よろいを失くした私は抑止力に囚われ――― 私ではなくなる。」



「そんな……」



「信じたくないか? 私だって、信じたくはないさ。だがな……現実は、とことん残酷なものなのだよ。」



 レティルの声が、今までとは違う揺れ方をする。



「あれは……エリオスがお前を地球に連れていってから、割とすぐのことだったか。」



 ここではないどこかを見つめて、レティルはその時のことを語る。



「ふとした拍子に、自分がどこの誰か分からなくなった瞬間があった。あの時はサリアムやアーノルトが傍にいたから、事なきを得たが……それからの私は、常に自分を失う恐怖と共にあった。」



 震え始める自身の体を掻き抱くレティル。



「忘れる、なんて生ぬるいレベルではない。本当に、知らない状態になるのだ。何十年、何百年といたはずの場所が、瞬き一つの間に、初めて見る場所に変わる。目の前で語らっていた人間が、少し目を離した隙に意識にも留まらない通行人になる。……ははは。さすがに焦ったな。」



 無理に笑って絞り出した声の、切なさったらない。

 それにつられて、実も奥歯を噛み締める。



「私も、必死に抵抗したとも。あんなに政治に介入したのは、過去の戦乱を治めた時以来だったな。城の人間がいちいち私に指示を仰ぎに来るようにして、私はそれで、自分という存在を認識できるように努めた。もはやエリオスの庭になっていた〝知恵の園〟までは、私色に染められなかったが……エリオスが相変わらず私を邪険にしてくれるおかげで、私はどうにか、私を失わずにいられた。」



 エリオスの名前が出た瞬間、レティルの瞳がさらに潤む。

 執着と紙一重の愛情を滲ませて、彼は語り続けた。



「エリオスを通して、人間や世界への憎しみを噛み締められる時だけが、私が一番〝私〟という存在を感じていられる時だった。さすがは私の同胞だ。エリオスはいつも、私に大事なものを思い出させてくれた。」



 独白のように一人の世界に入っていたレティルの瞳が、ここでまた自分を捕らえる。



「そしてルゥ……お前も、私という存在を繋ぐためには絶対に必要だったのだ。だから、お前を必死に捜した。お前が桜理を大事にしていたから、桜理をこの世界に縛りつけることもした。そうすれば、お前はこの世界に戻ってくるしかないだろう?」



「………」



 何も言えない。

 そのとおりだと思ったのもあるが、この後にレティルが何を言うか分かってしまったからこそ、余計に紡げる言葉がなかった。



「なのにお前は……全部を捨ててしまった。せっかくあそこまで絶望を大きく育てたのに、お前はまた、無垢な子供に戻ってしまった。」



「………」



 やっぱり、そう言うのか……



 なんだか、分からなくなってきた。



 桜理から幸せを奪ってしまったと。

 今までそう思って、父に助けを求めることなく記憶を手放した自分の逃げを呪っていたけれど。



 あの時レティルの策略に乗せられて、桜理を助けようとこの世界に戻ってきていたら……彼女が生きているこの世界は、今も無事であっただろうか。



 そんな疑念が、取り払えない。



「その後お前は……私の手でも見つけられないどこかに隠れてしまった。この私が身を粉にしたのに、何故かお前の消息を辿れなくなってしまった。あの時は、本当に焦った。まだお前にこの力を託していないのに、私は悲願を達成できないまま消されてしまうのか? 悩んで、悩んで、悩み尽くして……やはりお前を取り戻したくて…っ。だから私は……身を切るような思いで、エリオスを城から追い出したのだ…っ」



 苦渋に歪む、レティルの顔。



「お前に、あの時の私の葛藤かっとうなど分かるまい。お前を見つけるためには、人間にお前を捜させるしかなかった。でもそのために私は、私の想いを映してくれるエリオスを手放さなければならなかった。お前がいない今、彼だけが私を繋ぐ唯一の頼みの綱だったのに…っ。お前にもエリオスにも雲隠れをされて、あの時の私が、どれだけ必死だったかなんて…っ!」



 一息の内に言いきって、レティルはそこで肩を落とす。



「まあ……それはもういいのだ。結果的にはセリシアがお前を見つけてくれたし、私もなんとか自我を保てたからな。お前がこの世界に戻ってからは……もう、時間との勝負だった。」



 そう語る姿は彼自身が言うように――― なんだか、空気の中に淡く溶けていきそうなほど、小さくか弱く見えた。


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