美しい闇

 永遠にも、一瞬にも思えた不思議な時間。



 それは、彼が柔らかく微笑んだことで終わりを告げる。



「では、僕はこれで。――― 金輪際、僕に関わらないでくださいね?」



 最後にまた痛烈な言葉を叩きつけた彼は、私の返事を待たずに枝から飛び降りる。

 そして彼は、何事もなかったかのような軽い足取りでそこを去っていった。



 一度もこちらを振り返らない。

 まるで、この場には自分以外に誰もいなかったとでもいうかのように。



 結局私は、彼が消えて周辺の気温が元に戻るまで、動くことができなかった。

 

 

 ――― なんて美しいのだろう……

 

 

 私はしばらく、感動に打ち震えていた。



 あれぞまさに、純然なる闇だ。

 彼が抱える闇に比べたら、これまで見てきた闇など些末なものでしかない。



 確かに幼い頃に植えつけられた負の感情は、その幼さ故に純粋で強く、盲目的で暴走しがちなところがある。



 だがやはり、所詮は幼い子供だ。

 心のどこかでは愛情で癒されることを求めていて、それが与えられると、簡単に闇を手放してしまう。



 まれに闇を手放さない強者つわものが現れたとしても、向こう見ずに突っ走るだけの悪意は、あっさりと大人たちに潰されてしまった。



 しかし、彼は違う。



 彼は他とは違って他者に救いを求めず、むしろそれを拒絶している。

 人間だけではなく、私の手すらも跳ね除けるくらいに強く。



 さらに、聡明な彼は従順という仮面を被り、自らが出る杭にならないように器用に立ち回っている。

 そして彼は、誰かに潰されないように己の闇をひた隠しにしながらも、時にはその闇で容赦なく他者を貫く。



 他者への期待を捨て、胸にくすぶる激情を緻密ちみつに制御し、それを使うために己の手すらも黒く染め上げた。



 だからこそ、彼が持つ闇はここまで美しいのだ。

 とてつもなく洗練された悪意ではないか。



 彼の姿は私の胸に強く焼きついて、憧れにも似た思いを抱かせた。



 あれこそが本物の深淵。

 憎しみの究極の形。



 私もああなれたなら、彼のように美しくあれるのだろうか。

 あの極みに、私も辿り着いてみたい。



 どうしても知りたい。

 彼のことを、もっと深く。



 衝動をこらえきれなかった私はその夜、眠る彼に忍び寄って、こっそりとその記憶を覗いた。

 そして、彼という人間を作り上げた軌跡を知ったのだ。



 愛する子供が、絶望の底で泣いている。

 予知能力に目覚めると同時に見た、真っ暗な未来。



 それを拒絶したくて、未来は変えられるはずだと必死に努力し、その結果人間への希望を捨てた過去。

 いっそのこと、愚か者は皆ついえてしまえという、清々しいまでの怨嗟。



 ――― 彼だ。



 歓喜以外の気持ちなどなかった。



 なるほど。

 この未来だけは実現させてなるものかと、だから彼は結婚したくないと言ったのか。



 救いたくても手が届かない、絶望の淵に落ちていくしかない彼の子供。



 彼には絶望の理由までは見えていないようだが、彼の子供として生まれるのは、きっと―――



 そうだ。

 そうに決まっている。

 そうであってくれ。



 彼とその子供こそが、私の救いへの道標みちしるべなのだ。



 私は、そう確信した。


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