彼の望み



「―――嘘だ……」





 茫然とした実は、よろよろとレティルから遠ざかる。



 いつの間にか知っていた、自分が〝鍵〟であるという事実。

 ずっと殺されてきたという、〝鍵〟にまつわる歴史。

 必死に身につけた知識と技術。



 それが全部、レティルに植えつけられたものだったというのか。

 しかも、それだけじゃなくて……



「じゃあ……あの時、あんな所まで人間が来たのは、あいつが迷ったからじゃなくて―――」



 誰か、性質たちの悪い冗談だと言ってくれ。

 目の前の事実を拒否したいのに、頭が勝手に記憶をさかのぼる。



『あなたが……あなたがあの子の心を壊したくせに…っ!』



 自分の存在が城にばれた日。

 父がレティルにああ言い放ったのは、そういう意味だったのか……



 きっと、父はどこかで気付いたのだ。



 自分の元へ狂った人間を差し向けているのが、手を組んでいたはずの彼だったということに。



 全ては仕組まれたことだった。

 この、何もかもを終わらせる神の手によって。



「私は一度として、人間を洗脳して操ったことはない。あの時、あの者が禁忌の森に迷い込んだのは本当だ。私は逃げるあの者を、動物を使ってお前の元へ誘導しただけのこと。お前を殺そうとしたのは、他でもないあの者自身だ。」



「ふざけるな! だからお前は悪くないっていうのか!? あの時のことで、俺がどんだけ打ちのめされたと―――」



「そうだ! それこそが、私の望みだった!!」



 空気を切り裂く声。



 そこに滲むのは、悲しみや苦しみ。

 悔しさや憎しみ。



 そんな負の感情が複雑に絡み合った、全てを押し流して飲み込むような狂気。

 レティルから、初めて聞く声だった。



「………っ」



 実は必死に頭を振る。



 違う。

 認めるな。



 絶望と憎しみに溺れる彼の姿が、父に重なるなんて。

 そんな幻想、意地で振り払え。



 レティルは、壊れた機械のように叫び出す。



「あれでお前は、人間への期待を捨ててくれた! 殺される前に殺せばいいと、そう思ってくれたではないか!! あのまま人間の理不尽な悪意にさらされていれば、いずれお前は人間を殺しただろう。そうすればお前は―――身も心も、私の同志となれた! そんなお前が私の力を引き継いでくれれば、人間の奇跡で、世界のほころびだって断ち切ってくれるかもしれないだろう!?」



「―――っ!!」



 瞬間、思考が止まる。

 唐突に理解させられた。



 なんだよ……

 それがお前の望みだったのか……





 人間への絶望で自分を黒く染めて、彼は自分に人を―――世界を殺してほしかったのか。





 確かにあの時、何度も人間に襲われる中で、自分はだんだんと考えをにぶらせていった。



 自分が何をしたっていうんだ。



 大きな手が自分に迫ってくる度、悲しみのどん底でそう思った。



 もうたくさんだ。



 人間への期待なんて捨てたのに、自分が殺されるのは当たり前だって受け入れたはずなのに、どうして悲しみは消えてくれないの…?



 こんな怖い思いしたくない。

 その目を向けられるのだって嫌だ。



 ―――もう、殺しちゃえ。



 悲しみを拒絶してぼんやりとした頭に、何度その言葉がひらめいただろう。

 何度、無意識に手が動きかけただろう。



 きっと、あと数回。



 あと数回そんなことがあれば―――自分は、人を殺していた。



 だって、あいつらが先に手を出したんだ。

 俺は悪くないもん。



 純粋な心で自分を正当化して、それが間違っているかもしれないなんて疑いもしなかったと思う。



 あの時は、人殺しが悪いことだって知らなかったんだから―――……





『これは、未来を生きる君への忠告だ。』





 今はもういない彼の幼い声が響く。



 〝鍵〟としての魂に刻まれた全ての記憶と思いを引き継ぐ存在だという彼は言った。



 決して〝鍵〟としての心を受け入れるなと。

 それを受け入れたら、自分と同じ人殺しをいとわない化け物になってしまうからと。



 そしてその時、こうも言っていたではないか。



 本当なら、いずれは自分も飲み込まれるはずだった。

 いや、もうほとんど飲み込まれていたって。



 そしてその心を受け入れさせることが、



 レティルが言うとおり。

 本当に、あと一歩だったのだ。



 でも……

 でも…っ


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