どうか、その一歩を―――

 エリオスの決死の交渉の甲斐かいあって、ルゥは一縷いちるの希望を繋いだ。



 本当に、彼は大した男だ。



 彼ならやってくれるとは思ったが、世界を相手にしてあそこまでの猶予ゆうよをもぎ取るとは。



 途中からルゥ本人が彼の味方に回ったのも、大きな勝因と言えるか。



 ―――やはり、世界は人間をぎょせないのだな。



 エリオスはともかく、下手な抵抗をさせないように手を下してあったルゥにまで、ああも簡単に逆らわれてしまったではないか。



 陰からあの交渉を行く末を眺めているのは、本当に愉快なものだった。



 ただ口惜しいのは……ルゥが、自身の運命もエリオスと二人で背負った代償も忘れさせられてしまったことだ。



 交渉を終えた後のルゥは、親の愛情しか知らない無垢な赤子に戻っていた。



 これも、世界から私への牽制か。

 小癪こしゃくな真似を。



 あの記憶が残っていたならば、ルゥが世界を憎むのもあっという間だったはずなのに。



 ……まあいい。



 こうして時間を稼げたことで、第一の目標は達した。

 育てる時間はたっぷりとある。



 ルゥが大事なことを忘れてしまったというのなら、また教えてやればいいのだ。

 しかも、自分からそうだと気付くように。



 己の力だけで辿り着いてしまった絶望というのは、どこまでも生き物を歪めてしまうものだ。



 私やエリオスがそうであるように。



 世界もそれを恐れたから、あんな介入の方法を選んだのだろう。

 そして猶予を与えるなら、その介入の事実をルゥが覚えているのは都合が悪かった。



 結局のところ、ルゥに憎まれたくないのだろう?



 ああ、その気持ちは分かるとも。

 私が世界の立場なら、同じことをしただろう。



 だって、世界存続を確実にするためには、ルゥにいにしえの封印を解いてもらわないといけないからな。



 そしてそのためにも、ルゥには世界を愛してほしいものな?

 だから、エリオスたちが聖域に住むことを許したのだろう?



 人間から隔離された小さな箱庭で、余計なことは知らず、エリオスたちから最大の愛情を注がれて幸せでいればいい。



 そうすればルゥは、エリオスたちを心から愛すると同時に、自分の幸せが存在するこの世界も愛してくれるからな。



 ルゥがそうなってくれれば、あの子は躊躇ためらうことなく封印を解き放ってくれるだろう。



 そこで犠牲になるものを、素直な心で受け入れた上で。



 だが……それでくさいものにふたをした結果、現実は理想どおりに進むのかな?



 もしもルゥが私やエリオスと同じ道を歩んだとしたら、あの子はどうなってしまうだろうか。



 外から与えられる希望と、内から湧き出す絶望。

 そのどちらが勝つと思う?



 愛か、憎しみか。

 より強いのは、どちらの感情だろうか?



 さあ、ここからが本格的なゲームの始まりだ。

 どちらがルゥの心を手に入れるか、未来が楽しみだな。



 手始めに私は、エリオスに気付かれないよう、遠くからルゥの無意識に語りかけた。



 お前は、世界の災厄を秘めた存在だ。



 よく感じてみるといい。

 自分の中に、自分ではない何かがないか?



 ……よし。感じたな?



 優秀な子だ。

 では、次の授業といこう。



 正体を知られたら、お前に命はない。

 今愛情を注いでくれている両親ですら、お前にやいばを向けるだろう。



 お前がそういう存在であること。

 それは他でもない、お前の魂が知っている。



 だってお前は、何度も何度も、気が遠くなるほど長い間、仲間であるはずの人間に殺されてきたのだから。



 さあ、今度は魂の嘆きに耳を傾けてごらん。



 ゆっくり、ゆっくりと。



 ルゥの無意識に、気付きの種を与える。

 そして、それをルゥが自分で拾うのを待つ。



 決して、強制的に思い込ませることはしない。



 いくら無意識に働きかけているとはいえ、その働きがあまりに強すぎると、この毒の存在に気付かれてしまうからな。



 世界が私に犯したミスを、この私が犯すわけないではないか。



 あくまでも、自分自身で気付いて受け入れる。

 これが何よりも大事だ。



 一滴。

 また一滴。



 無意識に落とす水滴は波紋を広げ、やがて本能を呼び起こす。

 そしていつか、その心を穿うがつ力に育っていくことだろう。



 ―――ほら。



 早くもルゥが両親を怖がって焦り始めた。

 それを悟られないよう、無邪気の仮面を被って己の心を隠したぞ?



 血の力とは、すごいものだな。

 やることがエリオスとそっくりだ。



 どうやら、エリオスと一緒でひどく聡明な子らしい。



 ここまでは上出来だ。

 では、私も次の段階に移ろう。



 ルゥの意識が焦るのに合わせて、それとなくあらゆる知識を流し込んでやることにする。



 ルゥは私の想像以上に早く、己の力を研ぎ澄ませていった。



 知識を与えているのは私だが、それを飲み込んで己のものに昇華させるまでのスピードが半端ではない。



 親から受け継いだ優秀さもあるのだろうが、それ以上に気がいているようだ。



 まあ、それも仕方ないか。

 一刻も早く力を身につけないと、己の身を守れずに殺されてしまうかもしれないからな。



 あの幼さで自分の魔力を使って体が耐えられるかという一抹の懸念はあったが、どうやらそれも問題なさそうだ。



 一般的な子供と比べると、明らかに魔力が安定している。



 やはり、生まれる前から自分のものとは違う力を抱えていることと、その魂の特殊性が起因しているのだろうか。



 魂の魔力耐性が相当高いように見える。



 それに加えて、世界からの守りが聖域に満ちる強い魔力からルゥを守っているようだ。



 もっと頑張っておくれ。

 そうやって努力を積み重ねることが、お前に芽生えた闇を育ててくれるから。



 そんなルゥに精霊たちが協力したのは、嬉しい誤算だったといえよう。



 世界よ、いいのか?

 ルゥに力をつけさせると、私にとっては好都合だぞ?



 それともあれは、人間であるルゥが無意識に抑止力を荒らしまくっている結果か?



 まあ、精霊の介入が意図的かどうかなんてどうでもいいがな。

 だが、とりあえずは礼を言ってやろうか。



 おかげで、ルゥの力は私好みに育った。



 あと一歩。

 あと一歩だ。



 ルゥの意識の大半は、恐怖と猜疑さいぎ心に飲み込まれつつある。



 ……しかし、あの子はまだ人間への希望を捨て去りきれていない。



 愛情しか知らないが故に、自分が上手く立ち回れば普通に生きていけると、大きな夢を抱いている。





 それを壊してやれば、ルゥはきっと―――




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