転落の始まり

 終業時間も差し迫って、ざわめくオフィス。

 その一席に座り、尚希は慣れた手つきでパソコンのキーボードを叩いていた。



 会社に退職の旨を伝えてから二週間。

 引き継ぎメンバーの選定から引き継ぎのスケジューリング、引き継ぎ資料の作成にと、やることが多すぎて困る。



「植松さん、これどうぞ。」



 ふと声をかけられて、手元にコーヒーが入った紙コップが滑ってくる。



「お、サンキュー。忙しくて入れてくる暇もなかったから、助かるわー。」



 軽く礼を言って、コーヒーをすする。

 しかし、相手はそれで去っていかない。



 どうしたのだろうと顔を上げると、そこには亮太を筆頭に、チームの皆が勢揃いしていた。



「本当に……本当に辞めちゃうんですか?」



 もう何度目の質問だろう。

 しかし、尚希は嫌な顔一つせずに彼らに対応する。



「まあな。前々から言ってただろ? こうしてここで働いてるのも、家業を継ぐまでっていう約束だったって。」



「で、でも! 植松さん、ここでの仕事をめちゃくちゃ楽しんでましたよね!?」



 亮太がそう訴えると、他の皆も我先にと残念がるような言葉を連ねてくる。



 やれやれ。

 亮太は単純に便利な自分を手放したくないのだろうが、他は上から自分を引き留めろとのお達しを受けていると見える。



 まあ退職の話を切り出した時、課長も部長も泡食って卒倒しそうになっていたから、こうなってもおかしくないとは思うが。



(優秀な人間っていうのは、立つ鳥跡を濁さずってことも難しいのかねぇ……)



 ふとそんなことを思って、無意識に自画自賛している自分に笑いが込み上げてくる。



「ああ、もちろん楽しかったよ。でも、家業の方も楽しいんだ。本格的にあの仕事をやり始めて、オレの生き甲斐はあっちなんだなって思った。」



 思い返すのは、次の領主として思い切り働いたあの日々。

 亮太たちには悪いから言わないが、地球でのことなんて忘れてしまうくらいに充実した日々だった。



 どこで何を見ても〝これは商品になりそうかな〟と、気付けば商売のことに紐づけて考えている。

 興味が湧いて詳しい話を聞けばわくわくとしたし、それが新たな契約に結びつくと、ほくそ笑まずにはいられなかった。



 ふらっと現れた青臭い若造がアイレン家の跡取りだと知った人々の呆気に取られた顔と、その後血相を変えて慌て出す彼らの姿を見るのも面白かった。



 張り切りすぎたせいで仕事の量がえげつないことになって、カルノには怒られ、他には泣かれ……実たちにも、相当手伝ってもらうことになってしまったのだが、懲りずに次の仕事を探している自分がいる。



 これが、血に染み込んだ商売人魂というやつだろうか。

 自分がここまで貪欲だったなんて知らなかった。



 自分が一番輝けるのは、この街なのだ。

 ふとした拍子にそう思って、感慨深い気分になったのを覚えている。



 ほとんど〝知恵の園〟で暮らしていて、ニューヴェルのことなんて、書類上でしか知らなかったはずなのに。

 ここ数ヶ月で自分は、あの街にかなり愛着を抱くようになっていた。



 自分はもう、ニューヴェルを捨てられない。

 あの街から離れるのは、自分の方が耐えられないのだ。



「う……植松さぁ~ん……」



 亮太の顔が子犬よろしくといった雰囲気で、弱ったように歪む。



「そんな顔されても、辞めるもんは辞めるんだから仕方ないって。お前も早く、次のパートナーでも探せよ?」

「あ、そこはまあ……おど――― こほん。頼めば協力してくれる人が、何人か……」

「何か暴露しかけたな。」



 尚希は穏やかに笑う。

 すると突然、亮太が机をバンと叩いた。



「ど、どうした?」

「決めました。」



「何を…?」

「今日はとことん飲みに行きますよ!! 経費で!!」



 亮太が宣言すると、後ろの同僚たちも燃え上がる。



「経費で落ちるのか、それ……」

「落とします! 植松さんを酔わせて退職を取り消させようとしましたって言えば、課長たちも文句言いません!」



 その課長たちは、ただ今会議中。

 だからこんなに堂々と宣言できるのだろう。

 亮太ほどのスキルがあれば、本当に課長たちを上手く言いくるめそうだ。



「別に構わないけど、酒は一杯しか飲まないからな。」



 先にそう断っておき、尚希は空になった紙コップを捨てようと椅子から立ち上がる。





 その瞬間――― ぐらりと視界が歪んだ。





「!?」



 急に襲ってきた眩暈めまいに逆らえず、倒れるように床へと崩れ落ちる。

 どうにか机を掴んで支えにするも、目に映る世界は縦に横にと大きく揺れ、全身は冷たいしびれに侵されていく。



 それらと必死に戦っていて、ふと妙なことに気付いた。



 周囲がやけに静かだ。

 人が倒れているというのに、駆け寄ってくることはおろか、声をかけてくることすらしない。



 なんだ。

 この違和感は。



 体の異常とは別種のしびれが、なめるように背中を這う。

 固唾かたずを飲んで、ゆっくりと顔を上げる。



 亮太たちはその場から動かないまま、じっとこちらを見つめている。

 光が拡散したぼうっとした瞳と、感情の一切を失った顔で。



 それは、とある魔法に囚われた者の姿を彷彿とさせた。



(まさか……あいつが…っ)



 状況を把握した時には、もう遅い。



 奥歯を噛む尚希を見下ろす人々の唇が、にやりと不気味な弧を描く。



 そんな人々の姿が暗闇にかすんで消えていくのを、止めることはできなかった。


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