第二話 幽霊と秘密 ④

「オイ、ツユちゃんの様子が変だぞ。テメェのことだ、なにか知っているンじゃねェか?」

 忍が食後に居間で映画を観ていると、風呂上がりの杏が声を掛けてきた。通常、使用人が主人よりもさきに風呂を使うことは許されないが、杏は朝露の希望で自由を認められている。

「いや、知らないね。いちおう、部活動じゃ一緒だったが」

 朝露の酔いはすでにめているはずだが、調子が悪いのか、夕食にも顔を出さないで部屋にこもりっぱなしだ。

 酩酊めいてい中の奇行を見るのも一度や二度ではない。とはいってもやはり、恥ずかしいものは恥ずかしいのだろう。

「カオルもウジヒデも心配していたぞ。ウチも心配」

「放っておいてやれよ。ダレだって、アンタのように気楽じゃいられないんだ」

 瞬間、真横から繰り出された杏の拳を盆皿で受け止める忍。というのは都合の良い妄想で、盆皿ごと叩きつけられた忍の頬はぐにゃりと歪んでいた。

 いくばくかの沈黙のあと、忍は何事もなかったかのように人差し指を口元に近づける。

「なんなン、この映画?」

「『羊たちの沈黙』だが、アンタは口を開かないと生きていけないのか?」

「フゥン、なんだか暗くね? シノブみたいなンばっかりじゃン」

「なあ、そのだらしなく開いた口の中にありったけの椎茸を詰め込んでやってもいいんだ」

「ウン、べつに効かねェし。ウチ、椎茸は食べられるようになったもン」

「へえ、じゃ、遠慮なく……」

 忍は食堂から持ってきた干し椎茸を杏の口に詰めてゆく。杏は初めこそ勝ち誇ったような笑みを浮かべていたが、口内で膨張を続ける椎茸に恐怖を感じたのか、「モゴモゴ」と苦しげに呻きながら去っていった。

「忍」

「はあ、なんでしょう……」

 杏と入れ替わるように現れたのは薫だった。朝露のことだろうかと忍は物憂ものうげに向き直る。

「もうじき、高子さまの命日だ。いちおう、親戚周りに連絡を入れておきな。参加者が多けりゃあ、教会の手配も任せるよ」

「まあ、五年も経ちますからね。ひとまず、段取りは立てておきます」

 揺るぎようのない腐りきったき溜めに浸かっていた忍がのうのうと生きていられるのは朝露の祖母、高子がその機会を与えたからだ。

 京丹後きょうたんごと呼ばれるこの町で、高子と過ごした時間はそう長くない。だが、小倉忍として生きるために必要なものの多くは高子から学んだ。

「あの子を守ってやって」

 なによりも、高子の遺したその言葉は、いまもなお、忍の中で呪いのように息づいている。

「朝露さまも忍くんも大きくなったから、記念式に向けて礼服でも仕立てたらいかがです?」

 屋根裏部屋の掃除でもやっていたのか、会津あいづ氏秀うじひですすだらけの顔を覗かせた。

「たしかに、本家の人間が来ることを考えれば、朝露お嬢さまには小倉家の当主に見合うものを用意しておきたいですね」

「ふふ、だったら、馴染なじみの店を教えましょう。土曜日あたりでも、ふたりで行ってきなさいよ」

 氏秀はかつて、杏の父親が組長を務める暴力団の相談役だったが、薫の誘いをきっかけにいまでは小倉家の資産運用を任されている。

 薫と氏秀は高子に心酔していた。高子の亡きあとも小倉家を離れないのは、その恩義に報いるためなのかもしれない。

「ウジヒデ、ウチは? ウチも買いに行きたい」

「おや、杏嬢ちゃんは古いのが入るでしょう。これからまだまだ背が伸びるかもしれませんよ」

 苺大福を齧りながら戻ってきた杏の要求に、氏秀は首を傾げた。

「シノブとツユちゃんだけなんてありえンし。ウチだって新しいのが着たい着たい着たい」

「杏」

 薫の静かな呼びかけに、杏はしょんぼりと項垂うなだれた。かと思えば、忍に目を留めるや、さきほどの仕打ちを思い出したのか、威嚇いかくするように唸りを上げた。

「なに、みんなでここに集まって」

 帰宅後、自室に籠りきりだった朝露がふいと姿を現した。

「朝露さま、夕食はいかがなさいますか?」

「ううん、さきに体を洗ってくる」

 朝露の様子が普段と変わらないことに安堵あんどしたのか、薫の表情は心なしかやわらいで見える。

「ツユちゃん、シノブに酷い目に遭わされたときは相談しろよ。ウチが速攻で血祭りに上げてやるかンな」

「うん、あとで相談する」

「ん……?」

 忍が呟いたその直後、視界端の映像では腹を割かれたはりつけの死体がちらりと流れた。


 梅雨つゆ明けの匂いに、渓谷を下る水流の音。

 命の芽吹く深緑と、鈍色にびいろの空。

 重たい雲間から穏やかな陽光の差す夏の日に、市街に通じる畦道あぜみちを少女は歩いてゆく。

 そのあとを、少年が遅れがちに追いかける。

「なあ、アンタ……」

 少年の声に、少女は応えない。

「待ってくれよ。歩くの、早いな……」

 日本を訪れて二年近くが経とうとしていたころ、養子縁組を結んだ少年の義父が行きずりの女と心中した。

 顔を合わせたのも数えるほどで、少年は義父の死に一切の感慨を持たなかったが、少女も同じような心持ちとは限らないだろう。

 少女の実父に当たるその男は、伊根の神隠しに妻が巻き込まれたことで、気が触れたように心を閉ざしていったという。

「婆さんは老いさきが短いからって自分の息子と縁組を結ばせたんだろうが、目論見もくろみは外れたわけだ」

 語りかける少年と、黙りこくる少女。

 いまではもう、たったふたりの身寄り。

「オレはせいせいしたよ。アイツが小倉家の跡取りだって聞いたときは耳を疑ったぜ」

 少女は足を止めて、少年をじっと見つめた。

「なんだよ、アイツのことを慕っていたのか……? アイツはアンタのことなんか気にも留めていなかっただろうがな」

 それでも、少年の挑発には乗らないと心に決めていたのか、少女は口を結んだ。

「アンタのようなヤツは許す口実ばかりを考える。『むかしは優しかった』だの『あのヒトも苦しんでいた』だの反吐へどが出るぜ。そんなものに縋りつくことで満たされるとでも……?」

 腐りかけのがわいで落として取りつくろったぐずぐずの思い出に寄るべを求めることの愚かさを少年は分かっていた。

「アイツはただ、オノレに酔いしれて、アンタを残してくたばった、身勝手なろくでなしだ」

 一瞬、少女の瞳が揺らいだ。

「へえ、〝お人形さん〟でも表情ってのは作れるんだな」

「っ、さい」

「ん、なんだって……?」

「ぅる、さい」

 少女のしぼり出した言葉から伝わるのは、明らかな怒り。

「まあ、オレも口数は少ないほうなんだがな。アンタが聞き上手なせいで調子が狂うんだよ」

「ぅざ」

 勇気を奮い立たせるように小さな両の手を握り締めた少女を前に、少年は溜息を吐いた。

「いちおう、言っておくが、人形にき使われるなんてのは嫌だからな」

 少年の言葉に、少女の瞳はきょとんと丸くなる。

「オレも小遣いが欲しくなったのさ。だから、アンタも気は使わないでいい」

 少女は状況が飲み込めないのか、黙ったままで。

 少年は気恥ずかしそうに、その寝癖頭を掻いた。

「今日づけで、オレはアンタの使用人だ。あのクソババアの下で、アンタに仕えてやるよ」

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腐れ乙女の茶話拾遺 赤樫いつき @redoak

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