第二話 幽霊と秘密 ③

「ひ、秘密基地って、初めてなんですよねっ。そ、そ、そういうの、誘われたこともなかったんで、気が休まらないっていうか、あ、いやっ、息苦しいってわけじゃないんですが」

「おい、茶。あと、饅頭まんじゅう。たしか、急須きゅうすは台所の戸棚に閉まってあるからよ」

「え、はっ、はいぃっ、ちょっと待ってくださいぃっ!」

「部長を顎で使うなっての……」忍は御手洗の頭を叩いて、決まりが悪そうに林檎を見やる。「まあ、埃臭いところですが、ゆっくりしていてください……」

「わ、分かりました。へ、へへ、手伝いが必要なときは言ってくださいね」

 忍は湯沸かしを載せた携帯用の焜炉こんろに火をけると、御手洗の鞄から覗いていた和菓子の詰め合わせを盆に添えてゆく。

「ふん、顎で使われるのはおまえの役回りだったなっ」

 御手洗は不満げに唇を尖らせて、相変わらずの憎まれ口を叩いた。

「いちおう、アンタが家主のようなものだろうが。むしろ、オレも客人だ、手厚く持て成してくれよ」

 忍が言うと、是清はなつかしむように小さく笑った。

「ああ、中坊のころは御手洗が家代わりに使っていたよなあ。もともと、朝露の爺さんが建てたんだっけ。たしか、狩猟小屋に使っていたとか」

「うん、まあ。でも、ここはうちとも近いし。みたらしも一緒に暮らしていたみたいなもの」

 秘密基地には電気やらなんやらが通っていない。御手洗が小倉の家まで風呂を借りに来ることも少なくなかった。御手洗は冷蔵庫の中身を勝手に漁るので、薫にも何度か息の根を止められかけた。

「あ、あの、思ったんですが、部室のほうは片づけなくて大丈夫なんですか?」

「御手洗が理事長に話を通したところ、来週には修繕業者が手配されるらしいぜ。それまでに片づけられるものは片づけておきたいよなあ」

「幽霊部員のき溜めだってのに取り合ってくれるなんてね。オレはてっきり、しぶられるものかと思っていたが……」

「入学時の寄付金なんかに色を付けておくと、こういうときに気を利かせてくれるんだって」

 是清がこともなげに言うと、朝露は首を傾げた。

「ふうん、わたしはかおるに任せきりだった。みたらしのところってちゃんと払っていた?」

「や、知らん。が、多少は払っていたんじゃね〜の、税金対策で」

 御手洗の根なし草生活は両親の徹底した放任主義に支えられている。御手洗のようなじゃじゃ馬を野放しとはいかがなものかと忍は遺憾いかんの意を表したいところだ。

「驚いたね、勘当かんどうされていなかったのか……」

「目に入れたって痛くねえような愛娘まなむすめで評判だっつ〜の」

「あ、みたらしの実家って合宿に使えない? ほら、宿坊しゅくぼうだっけ、神社に泊まれたりするって」

「宿坊も開いちゃいるが、退屈なだけだぞ〜? 遊園地でも行こ〜ぜ、遊園地」

 社家しゃけの跡取りに生まれた御手洗は、いずれは宮司ぐうじの役目を継がなければならないが、それまでは一切の自由を認められている。また、金銭で折り合いが付くのであれば、御手洗の望むものは総じて、御手洗の望むように与えられるという。一介の学生には悪くない話だろうが、学費と生活費を除けば、御手洗は援助を断っているようだ。

「でも、宿坊ってところ、茶道とか学べるって聞いた」

「ん〜? たしか、うちで体験できるのは滝行だのなんだので、茶道はど〜だったか」

「そう、だったら、遊園地で大丈夫」

「いや、大丈夫じゃないでしょう、茶道部の合宿先が遊園地ってのは。そもそも、申請を出したところで学校の許可が下りませんよ」忍は見かねたように口を挟んだ。「神社は分かりませんが、寺院の宿坊だと茶道に加えて、座禅ざぜん写経しゃきょうを学べるようです」

 入部以来、部室に一度も顔を出していない茶道部の顧問が授業のあとで決まりが悪そうに手渡してきた手引てびき書には、たしかそのようなことが書かれていた。

 そもそも、茶の湯は〝禅〟の概念とともに育まれた文化だ。茶道部が寺院で合宿することは理にかなっているだろう。

「おおい、目先の問題は後回しかあ? 野暮やぼなことは言いたくないけれど、まずは茶室を片づけないとねえ? おまえらってさあ、面倒事は放っておいても、だれかが片づけてくれるとか思っているふしがあるし? 部長も気に食わないと思ったときは言ってやりなよ、『わたしを舐めているやつは窒息するまでこの饅頭をのどに詰めて殺します』とかさあ?」

「そ、そうです。ぶっ、部長も押しつけて、掃除も押しつけるなんてっ、ぜぜ、絶対に認められませんよ。んあっ、明日の放課後はっ、部室の前に集まってもらいます」

「りんご、心配しなくても、にいさんを向かわせるから」

「は、はいっ、助かります! って、小倉さん? あの、小倉さんも来るんですよね?」

「まあ、オレはべつに構いませんが……とりあえず、部長も落ち着いてください……」

 忍は湯が沸いたのを見て取ると、人数分の煎茶せんちゃれて食卓に並べた。若葉を思わせる豊かな青の香りが室内を満たす。

「ん〜」御手洗は寝転んだままの体勢で湯呑ゆのみを口元に近づけた。「あっつ!」

「あのっ、ちょっと、白井さん、ちゃっ、ちゃんと座らないと危ないです」

「茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなることと知るべし。礼儀だの作法だの細けえことは犬にでも食わせておけって〜のが御手洗流だ」

「いや、火傷しないか心配されているだけだっての」忍は呆れたように頭を掻いた。「そもそも、アンタはただ茶を飲むばかりで、面倒事はだいたい人任せだがな」

 忍が湯呑みを取り上げて食卓に戻すと、御手洗はしぶしぶと身を起こした。そのとなりに腰を下ろして、忍は茶を啜る。

 茶道部の風景とは思えない倦怠けんたい感が漂うものの、居心地が悪いとも感じない。日本の小学校に編入以来、さんざんと入り浸ってきた秘密基地。むかしとなにも変わらない、与太よた話に花を咲かせる溜まり場だ。

 忍は林檎にそっと視線を移した。

 林檎が嫌気を差していないか、忍は心配だった。

「お、小倉くん? あの、どうかしました?」

「いや、べつに、部長の顔に見惚みとれていただけですが……」

「にいさん?」

「え、あっ、へへっ、小倉くんってときどき、変なふうにお茶を濁しますよね。でで、でも、それって、取りつくろいかた、合っているんですかね」

 梓山に入学して間もないころ、林檎と出会ったときのことを忍は覚えている。

 部活動見学の初日に茶道部の茶室を訪れたのは忍と林檎のふたりだけだった。

 茶室の庭では、入部希望者が現れるとはつゆほども思っていなかった顧問の柳下やなぎした茂雄しげお煙草たばこを吹かしていた。「見学期間、部室に猫の子一匹いないってのは問題でな。顧問の責務で来てみれば、物好きなやつが現れたもんだよ。帰れ帰れ、幽霊部員の巣窟そうくつだぞ、ここ」と語る茂雄を前に林檎は戸惑いの表情を浮かべていたが、茶道部に入れば昼寝の場所に困らないと踏んできた忍には都合が良かった。林檎は入部を見合わせたのだろう、翌日には姿を見せなかった。

 御手洗と朝露と是清はいくつかの部活動に仮入部し、見学期間を満喫まんきつしているようだったが、忍が頼んだわけでもないのに、最終的には三人とも口裏を合わせたかのように茶道部に入ってきた。顧問も来なければ上級生も来ないので、茶をたしなむどころか嗜みかたも分からない四人の、茶道部とは名ばかりの無法地帯が出来上がった、かと思いきや、「茶道部だってのに、茶汲みが不在ってのは頂けね〜よな」と御手洗が気まぐれに捕まえてきたのが林檎だった。

 御手洗と林檎は合唱部の見学時に知り合ったそうだ。一度は入部を見合わせたはずなので、林檎が弱みを握られていることは想像にかたくなかった。御手洗に目を付けられていなければ、林檎は合唱部の活動にはげんでいたことだろう。忍は同情を覚えたが、面倒事に首を突っ込むほどの甲斐性は持ち合わせていなかった。

 挙げ句の果てに茶道部の部長を任された林檎の気苦労は今日まで絶えなかったはずだ。茶道部にはほとほと愛想も尽きているだろうが、林檎の退部は忍の望むところではない。忍も初めこそ茶道に関心を持つことはなかったが、曲がりなりにも楽しめているのは林檎がいろはを教えてくれたからだ。

 林檎は中学生のころに茶道を習っていたという。茶道の〝さ〟の字も知らなかった四人に林檎の存在は欠かせなかった。林檎は忍の知らないことを数多く知っている。林檎の話を聞くことが、忍は好きだった。

「そういえば、部長は実家が舞鶴まいづるでしたよね。どうしてわざわざ、梓山に入ったんですか?」

「えっ、ええっと、わたしの実家って、裕福じゃないんで、ほ、ほら、私立学校って、試験の結果次第で学費が免除されたりするじゃないですか」

「ふうん、孝行娘じゃないの」是清はへらへらと笑いながら頬を掻いた。「親のすねかじって遊んでばかりの学生には耳の痛い話だねえ」

「そ、そんなたいしたものじゃないんです。ただ、父親が怪我で働けなくなったんで、仕方なかったっていうか、それだけのことなんです」

「怪我って」

 林檎の言葉が引っかかったのか、朝露は首を傾げた。

「じつはわたし、東京生まれなんですが、その、小さいころに、いろいろなことが起きて、家も住めなくなってしまいまして」

「〝巨人の遺骸いがい〟を見たのか?」

 御手洗が口を挟んだ。

 伊根の神隠しが世間をにぎわせていたさなか、新宿御苑ぎょえんに突如として現れた正体不明の巨人―――その遺骸を養分に異常成長を遂げた草木は七日と経たないうちに区内一帯を鬱蒼うっそうと覆い尽くした。巨樹の侵食を受けた建物は相次いで崩落、結果として数千人規模の死傷者を出した。

「そ、そう、ですね、親に連れられて、でも、わたし、怖くて泣いてばかりでした。あのときのこと、いまでもまだ、夢に見るんです」

「まあ、無理もないでしょう。神秘だの奇跡だのと呼ばれようとも、災害の記憶ですからね」

「そういうたぐいはかつて、枯れた尾花の風に揺れる姿に見出されるように奥ゆかしいものだったがな」御手洗は軽口を叩くように続けた。「いまじゃあ、日毎夜毎の悪夢よろしく目を塞いでも顔を覗かせる節操なしさ」

 これまで、幽霊は脳で見るというのが通説だったように、目に映るものすべてが実在するとは限らない。

 だが、科学と技術が世界を変えると人々が信じていた時代は、圧倒的な超自然を前に終わりを迎えつつあった。

「あんな、理屈の通らないものと、隣り合わせの日常なんて、どうかしています。白井さんだって、不安じゃないんですか?」

「不安は不安だが、悩んでも無駄っつ〜の? 悪夢に意味を求めるやつはいても道理を求めるやつはいねえっつ〜か?」御手洗は忍の頬にその指をぐりぐりと押しつけた。「忍を見てみろよ。世間の煩わしいあれやこれやに嫌気が差した腑抜ふぬけの選んだ道は六畳一間に閉じこもってのらりくらりと昼寝に耽ることだったわけだ」

「そいつがなにか問題でも……?」

 御手洗のたちが悪いのは、厄介事を持ってくるのが基本的に自分だという事実を自覚したうえで言っているところだろう。

「問題なんてあるかよ。馬鹿を見るのは世界がまだ正気だと信じているやつらだ。身の周りの現象は普遍的な法則上に成り立っていて、世界もまた突き詰めると計算可能なものだと信じて疑わねえ。が、んなものはたかだか百年二百年そこらの経験知に過ぎねえってことさ」

 もしも、世界が悪夢を見ているならば、茶でも飲みながら覚めるのを待てばいい。不条理な世界とまともに付き合ったところで埒が明かないことを忍は知っている。

「わたしも、小倉くんのように、授業にも出ないで、だらだらと、腐っているべき、なんでしょうか」

「ど〜だかな、おまえはおまえの好きにすりゃあいいじゃねえか」

「あの、オレはべつに腐っているわけじゃ……」

「かかかっ、部長って面白いねえ? まあ、世の中がどうであれ、学生は学生の日常を生きるしかないって。やっぱり、学生の本分は勉強、じゃなくて、淫蕩いんとうっていうかさあ?」

「是清……」

 是清の顔がわずかに赤らんでいることに気づいて、忍はなにかを察したように呟いた。

「ああ、忍ってさあ、週末は空いていたっけ? じつはさっき、遊びに誘われたんだけれど、向こうは女の子三人みたいで」是清は手元の携帯端末に視線を落とした。「あとはまあ、人数合わせに寿太郎じゅたろうでも呼んでみるかあ?」

「是非とも参加したいところだが、仕事日だね。そんなことよりも、どうだ、茶の味は」

 忍が溜息混じりに身を起こすと、是清はばつが悪そうに苦笑いを浮かべていた。

 忍は無言のまま、是清が腰かけの陰に隠した焼酎しょうちゅうびんを手に取るや台所の棚に戻した。

「うはははっ、あたしのとっておきを勝手に飲みやがってよ〜」

「こいつはウチのクソババアが晩酌ばんしゃく用に仕入れているものと同じ銘柄めいがらのようだが」

「し、知らね〜よ、んなもんっ」

 おおかた、小倉家の貯蔵庫からくすねてきたものだろう。しかし、このことを薫に知られると御手洗の身になにが起こるか分からないので忍も追及は控えておいた。

「あ、あれ、なんでしょう。なんだかこのお茶、さっきと味が変わったように感じます」

「おい、まさか……」

「まあまあ、怒らないでよ。おれも楽しくなってきちゃったの」

 是清は開き直ったように言って、茶をぐっとあおった。

「学生の本分は勉強じゃなくて、淫蕩」

「お嬢さま……?」

 いつのまにやら、言葉数の減っていた朝露が不意に口を開いたかと思えば、その内容はとても薫に聞かせられるものではなかった。

 是清がしでかしたせいだろうか、朝露の頬はほんのりと紅潮している。

「学生の本分は勉強」朝露は譫言うわごとのように繰り返しながらゆらゆらと立ち上がった。「じゃなくて」

 切れ長の美しいその瞳は、正面の獲物を捉えている。

 そうして、朝露は舞い散る桜のように大きく前に踏み出した。

「い、やんっ」

 本能的な恐怖を覚えた忍が身をかわすや、標的を逃した朝露は勢い余って木壁に、むちゅうとその熱いくちびるを押しつけていた。

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