デマゴーグ

 「扇動政治家」という意味である。この意味において、ドナルド・トランプも立花孝志も明らかなデマゴーグである。本人達もこのことを自覚しているであろう。では、デマゴーグによって導かれる社会がどの様に変容していくかについて、彼らは考えているだろうか。今日はこのことについて考察してみたい。

 今回の兵庫県知事選挙は誰も予想しないような展開を見せ、ドラマチックな結末を迎えた。その変遷をここで述べる必要は最早ないだろう。ただ、ひとつ言えることは、立花孝志の参戦が斉藤元彦の再選に大きく寄与したということだ。選挙戦を見ていてこれほどの興奮を覚えたことは、私自身、かつてなかった。立花の用いた手法をデマの拡散だと言って批判する向きもあるが、何が真実で何が間違っているかは情報を受け取る側が判断することである。様々な情報を総合した上で、多くの人は大筋で彼の主張を認めたのだ。重箱の隅をつつくように彼の流した情報の瑕疵を探してみたところで、大勢は変わらぬであろう。マスコミが作り上げたストーリーを信じるのは自由だが、守旧派の面々は自分がデマに踊らされている可能性を検証してみる必要はあろう。

 ところで、本稿を書くに当たってデマという言葉の語源を調べてみた。「デマ」の語源はラテン語の「噂」という言葉で、本稿のテーマである「デマゴーグ」ではない。デマゴーグの語源はギリシャ語の「民衆を導く者」という言葉である。元々ネガティブなニュアンスを持つ言葉ではなかったが、時代の流れと共に「民衆の感情に訴え、誤った方向に導く者」という意味で使われるようになり、現在の「扇動政治家」という意味を持つに至った。デマとデマゴーグは語源からして異なる言葉なのだが、デマゴーグは往々にして民衆を扇動する手段としてデマを用いるため、全く関連のない言葉とも言えない。

 閑話休題、本論のテーマはデマゴーグに導かれる社会についてである。歴史を振り返ってみると、ヒトラーにデマゴーグの典型を見ることが出来よう。歴史に悪名を轟かせる彼だが、ヒトラーとて最初から極悪非道の輩であったわけではあるまい。一旦民衆の強い支持を得ると、引き返せなくなるのが扇動政治家の特徴ではないだろうか。人々の感情に訴えるというその手法の故に、彼はそれをコントロールし続けなければならなかった。第一次世界大戦の敗戦国であったドイツはヴェルサイユ条約によって連合国に多額の賠償金を負わされた。経済的窮地に陥った国を救う唯一の方策が帝国主義に舵を切ることであった。民族主義を煽ることで国威を発揚し、彼は自らの政策を正当化した。さらにユダヤ人をスケープゴートに仕立て上げ、国民の不満を逸らした。侵略と他民族の迫害は彼の犯した許されざる大罪であるが、彼の視点からはこれが唯一合理性のある結論であった。奇しくも戦後ナチスの弾劾裁判で、ハンナ・アーレントは「悪の汎用性」という言葉でその悪行を形容したが、ヒトラーの立場に立てば、彼は自分のやるべきことをやっただけだったのかも知れない。

 トランプや立花孝志をヒトラーに準えるつもりはない。しかし、デマゴーグは自分の意思とは関係なく世の中の流れに従って政策決定を行わねばならぬ立場に追い込まれる。その流れの原因を作ったのが自分だからである。だからこそ、彼らは民衆扇動に当たって自らが用いるレトリックに重々気を付けねばならない。それが自らの行動を縛る原因となるからである。デマゴギー(扇動政治)の目的はデマゴーグの意思の下に世論を形成することであるが、問題は民衆の感情を煽る点である。感情のうねりによって生まれた世論は誰にも止めようがなくなる。理性による歯止めが利かないためである。デマゴーグのレトリックがどこから生じるかと言えば、デマゴーグ本人の思想からだ。その思想に含まれる様々な要素が民衆扇動の過程で増幅される可能性がある。それが世の中にとっての危険思想であったとしたら、ナチスドイツが犯したような悲劇が生まれる。本人がそれを意図しなかったとしても、危険思想が一人歩きを始めるということである。いくら権力を掌握したからといって、600万もの人間を死に追いやる者があるだろうか。民衆の間に感情のうねりが生じると、デマゴーグ本人にもそれを止めることは出来ないのである。(この意味において、ナチスを支持したドイツ及び周辺国の人々は、その過ちの責めをヒトラー1人に負わせることは出来ない。)

 斉藤知事が副知事の選任に苦心しているとの報がある。彼が立花孝志を任命しない理由の一端は、デマゴギーの危うさを懸念するからであろう。本人が善意をもってやっていることだとしても 、また、仮にその主張の90%が正しいとしても、ほんの少しの誤った部分が思潮のうねりを伴って増幅されれば 、民衆の愚行を止めることはできなくなる。ヒトラーの悲劇は彼自身が一流の弁舌家であったことだ。ドナルド・トランプ も 立花孝志 も十分に その素質を備えている。民衆とともに自分の弁舌に醉い、その招く結果を顧みないとしたら、無責任のそしりは免れぬ。デマゴーグ を自認するのであれば、その人間は聖人でなければならない。それがありえないとすれば、ネットメディアの課題は デマゴーグ の暴走にいかに歯止めをかけるかであろう。


P.S.

 ネットメディアには自浄作用が働くという意見がある。長い目で見れば嘘やデマは淘汰され、後に残るのは真実のみだという論だ。果たして本当にそうだろうか。歴史を振り返れば、闇に葬られた真実は数多あろう。我々が歴史によって知りうるのは真実のほんの一端に過ぎない。場合によっては、我々が歴史として信じているものは時の権力者が自らの都合に合わせて生み出した虚構であるかも知れない。昨今のマスメディアが権力者の手先となって同じことをしてきたことを思えば、ネットメディアとて同じ轍を踏まぬとは言い切れまい。

 ナチスという虚構を信奉したドイツ国民は自らの過ちに気付かぬまま歴史的大罪の片棒を担いだ。「悪の汎用性」という言葉を持ち出せば、それが罪ではないかのように聞こえる。(ナチスを批判するユダヤ人の側からこの言葉が出てきたことには驚きを禁じ得ない。)しかし、それは罪の意識を持たねば何をしても罪にはならないと言っているに等しい。この言葉の裏にはある種の諦観が潜んでいるが、世界はこれを受け入れることを拒んだ。戦後ドイツは自ら犯した過ちの責めを負い、長い贖罪の時を過ごすこととなった。これを自浄作用と呼ぶことは可能かも知れない。しかし、一度世論の大きな流れが生まれれば、それが歴史に大きな爪痕を残す危険を孕んでいることは、誰もが肝に銘じておかねばならない。自浄作用が働くのは歴史の流れの中でのことで、それが犯した過ちをなかったことにしてくれるわけではないのだから。











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徒然なるままに Hiro @jeanpierrepolnareff

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