跳べ、風神
飛鳥休暇
風神、最後の跳躍
アメリカ合衆国コロラド州、コッパーマウンテン。
選手の待機場所で、
白く染まった息は長い距離を泳いだあと、力尽きたかのように消えていく。
「さすがに緊張してんのか?」
ロープで隔てられたメディア席からからかうような声が聞こえてきた。
「あぁ、イガさん」
風間はその人物を確認すると、笑って軽く手を上げた。
イガさんと呼ばれたひげ面の中年も応えるように手を上げる。
「風神様のラストランを取材するためにわざわざアメリカまで来てやったっていうのに、しょぼくれた顔してんじゃねーぞ」
そう言って長年の付き合いであるスポーツライターの五十嵐がわざとらしくカメラを風間に向ける。
「なに言ってんですか。目的はおれじゃなくて、雷神でしょ?」
風間が大げさに肩をすくめて、後方から近づいてくる人物を指さした。
「ははっ。そりゃそーだ。でもな、今日の成績次第じゃお前の引退も大きく取り上げるつもりだぞ。だからがんばれよ」
そう言って親指を上げた五十嵐は、すぐに興味の対象を風間の後ろの人物へと変更した。
「おーい!
五十嵐が意味深に指を三本立てると、風間の背後でため息が聞こえる。
「今日も元気っすね、イガさん」
振り返ると、
「選手のおれらよりもずっと元気だ」
風間が一回り以上歳の離れた雷哉にそう返す。
五十嵐は雷哉に向けて繰り返し三本指を突き出している。
「やるんだろ? 三回」
風間も五十嵐と同じ質問を雷哉に問いかける。
「当然。今日は歴史が変わる日だよ。全員の度肝を抜いてやる」
雷哉が胸を張ってそう答える。そして、そう答えるだけの実力が雷哉にはあった。
「はは。その自信がうらやましいよ」
風間は心の底からそう思っている。かつては自分も持っていた全能感。いまやそれは見る影もなく無くなってしまったもの。
「……ほんとに、引退するの?」
雷哉がそっぽを向きながら聞いてくる。目を見て聞けないのは、それを信じたくないからなのか。
「あぁ、おれは今日で引退する。もう身体がいうことを聞いてくれないからな」
乾いた笑いと共に風間がそう言うと、雷哉はそっぽを向きながら、「ふーん」と返すのみだった。
ほどなく、試合開始の時刻となった。
選手たちは順番にスノーモービルに乗せられぐんぐんとスタート地点まで上がっていく。
スノーボードワールドカップ、ハーフパイプ決勝の舞台へと。
長さ約二百二十メートル、幅二十二メートル、大きく弧の字型に成形されたコースでジャンプの高さやそのトリックによって競い合う世界でも人気の競技だ。
厚い雲に覆われたせいか昼間にもかかわらずあたりは薄暗くなっており、視界を保つために会場内には照明が灯っていた。
本来は決勝では一人三本の演技をするのだが、あいにく今日は風が強く、一人二本の演技で終わるということが事前に伝えられた。
正直、風間は助かったと思っていた。
現在の自分の身体では三本を滑る体力は残っていないと考えていたからだ。
なんの因果か、今日がラストランだと決めていた風間は全選手中の最終滑走者となった。
その風間の目の前で、雷哉が準備を始める。
すでに十名以上が滑り終え、順番は後ろのほうにさしかかっていた。
雷哉がスタート地点に立った瞬間、会場が大きく沸き上がった。
すでに彼は押しも押されもせぬハーフパイプ界のスターとなっていた。
雷哉はゴーグルの位置を調整すると、そのまま一気に滑り出した。
しっかりと固められた雪の上を板が鈍い音を立てて加速していく。
そして軽くジャンプをしてから、雷哉がさらに加速力を上げて腰を落とす。
その第一エア。
雷哉が繰り出したのはトリプルコーク
地面に対して斜め軸に三回転、さらに横にも一回転する技で、全世界でたった一人、神野雷哉しか成功していない大技中の大技だ。
風の影響か、着地の瞬間ほんのわずかに体勢を崩した雷哉だったが、すぐさま修正し次の技へと移る。
キャブダブルコーク1440。
こちらも斜めに捻りを加えながら縦二回転、横三回転する大技。
通常であれば1440を二回も飛べれば優勝争いに名を連ねる。
しかし雷哉はさらに大技を繋げていく。
フロントサイド
ここで雷哉はフロントサイド1440にチャレンジ。
しかし、最後の最後でバランスを崩し大きく転倒してしまう。
会場全体がため息に包まれた。
1440を三本。これが五十嵐が雷哉に問いかけていたものの正体だった。
雷哉が悔しそうに太ももを叩く。
最後の瞬間、思わず風間も拳を握りしめていた。まだ自分の演技が始まっていないにも関わらず、心拍数が上がっていた。
「惜しかったな、くそ」
雷哉の気持ちを代弁するかのように風間が吐き捨てる。
それは風間自身も雷哉の前人未踏のチャレンジに期待していたからだ。
その後二人ほどの選手が滑走を終え、ついに風間の番がやってきた。
スタート地点に立つと、遙か下に観客席が見える。
ウインタースポーツの初心者であれば、この場に立つだけで腰が抜けてしまうことだろう。
まるで崖のようにも思える傾斜を滑り降りながら、高く跳び、さらには身体ごと回転させたりする。
まるで狂気の沙汰だ。考え出したやつの顔が見てみたい。
でも、風間はそんなスポーツを十五年以上続けてきたのだ。
風間は大きく息を吐くと、気合いを入れて地面を蹴った。
何度か腰を落としぐんぐんと加速していく。
そしてジャンプするポイントを見定めると、風間はぐっと腰を落とした。
鋭く氷を削る音と共に風間の身体が宙に浮かぶ、勢いのままに腰を捻り回転を加えていく。
ダブルコーク1440。
いまはトップ選手たちには必須となったこの技も、数年前には風間だけに許されたまさしく必殺技であった。
しかし。
着地した直後大きくバランスを崩して風間は転倒してしまう。
「いってー」
さして強打したわけでもない腰を風間は何度もさすった。
それは今日この日に風間に引退を決めさせた元凶でもあった。
風間は立ち上がるとゆっくりと滑り降りてゆく。
大きく転倒した場合、その後どれだけ技を決めたとしても上位を狙えるポイントは入らないからだ。
ゴール地点まで滑り降りると、そこに雷哉が待っていた。
「残念」
「お前もな」
軽口を叩き合うがお互いの心中は穏やかではなかった。
残された滑走はあと一本。
「どうするんだ? チャレンジするのか?」
風間がスタート地点を見上げながら雷哉に問いかける。
「当たり前。歴史を変えるっていったでしょ」
「ふっ、そうか」
「そっちはどうなの?」
雷哉の言葉に、風間がなんのことかと目線を合わせる。
「滑るの、楽しい?」
風間はふっと息を漏らす。
「生意気言うようになったじゃねーか」
雷哉の頭を叩こうと手を振ったが、それはひらりとかわされてしまった。
「仁さんのラストラン、楽しみにしてるよ」
それだけ言うと雷哉は用意されていたスノーモービルの後ろに跨がり、運転するスタッフと共に再びスタート地点へと上っていった。
「生意気言うようになったじゃねーか」
風間は誰に言うわけでもなくもう一度そう呟き、雷哉と同じく用意されていたスノーモービルに跨がると、運転手の肩を叩き発進させた。
******
二本目の滑走も順調に進んでいた。
現在のトップはスイスのボーマン・ダニエル。
二本目に1440を二本組み入れた演技をミス無く決め、現在九十二点という高得点を叩き出していた。
ハーフパイプの点数は五人の審査員がそれぞれ百点満点で採点をし、一番高い点数と一番低い点数を除いた残り三人の平均点がその選手の点数となる。
つまり、審査員の全員が九十二点を超えるような点数を出さなければ今大会で優勝することは出来ない。
それこそ、1440を三本跳ぶような演技でなければ。
風間はスタート地点へ向かう雷哉の背中を見送る。
雷哉の気持ちは固まっているはずだ。根っからの負けず嫌いのあいつが守りに入るはずがない。
長年の付き合いである風間はそう確信していた。
雷哉はゴーグルの位置を調整すると、思い切りよく滑り出した。
何度も腰を落とし加速していく。
それは一本目よりもさらに速いように思えた。
雪の谷間に雷哉の姿が消えたかと思うと、次の瞬間ロケットのような早さで雷哉が飛び上がってきた。
空中で全身をくるくると回転させる。
フロントサイドトリプルコーク1440。
着地も完璧だった。
勢いのまま次のエアへ。
キャブダブルコーク1440、そして続けざまにフロントサイドダブルコーク1260へ。
そのどれもが一本目よりも高く、完成度も上だった。
しかし最後まで気は抜けない。一度の転倒ですべてが台無しになるからだ。
バックサイドダブルコーク1260を飛び終えいよいよ最後のエアへ。
大きく飛び上がった雷哉の身体は瞬時に回転していく、一回、二回、三回。
着地が決まった瞬間、会場から地響きのような歓声が上がった。
フロントサイドダブルコーク1440。
人類史上初、1440を三回跳ぶという最も難度の高い
ゴール地点に辿り着くと、雷哉は両の拳を突き上げ観客にアピールする。
歓声は鳴り止まない。
観客のみならず、出場してる全選手がリスペクトを込めて雷哉の拍手を送る。
表示された点数は九十六点。
もちろん、圧倒的一位の点数だ。
「やりやがったよ」
風間も雷哉に拍手を送る。
遠く豆粒のような大きさの雷哉と目が合ったような気がした。
風間はふっと笑みを漏らす。
「プレッシャーを与えてくるじゃないか」
弟分の渾身の演技に、風間は出会った頃のことを思い出していた。
******
風間と雷哉が出会ったのは十年前。
当時からすでにハーフパイプ界を牽引する存在だった風間に、大学の大先輩から「息子にハーフパイプを教えてやって欲しい」と頼まれたことがきっかけだった。
風間二十四歳、雷哉は十歳の年だった。
出会った頃の雷哉はとても小柄で、女の子にも見えるような可愛らしい顔をしていた。
スノーボードはそこそこ滑れるようだったが、ジャンプやトリックの経験がなかった雷哉に対して、初めは小さなジャンプ台から慣らしていくことにした。
雷哉は見た目とは裏腹に非常に根性があった。
初めはみな怖じ気づいてしまうはずのジャンプも、雷哉は臆せず飛び出し、そして何度も転んだ。
「空中姿勢がなってない!」
風間の厳しい言葉にも雷哉はくじけることなく黙って頷き、そしてまた練習を繰り返した。
ある程度ジャンプに慣れてくると、今度は空中で回転することを覚えさせる。
一回転程度であればすぐに習得できるのだが、二回転以上になるととたんに難易度が上がってくる。
雷哉が成功するまで、風間は何度も何度も、日が暮れるまで練習に付き合った。
こいつはきっといい選手になる。そんな確信が風間にはあった。
そうして練習を繰り返し、一年後には雷哉はジュニアクラスでの試合に出場できるほど成長した。
しかし、初めて参加した試合は緊張のためかミスが多く、表彰台どころか下から二番目の成績に終わってしまった。
試合後、雷哉は人目も
見かねた風間が雷哉のそばに歩いて行く。
「初戦で勝てるなんてそんな甘い世界じゃないぞ」
体育座りのような格好で縮こまっている雷哉に声をかけるが、雷哉はしゃっくりを繰り返すばかりで返事をしてこない。
風間は呆れたようにため息を漏らす。
「もう辞めるか?」
風間がわざと冷たい言葉を放つ。しかし、その言葉には俯いたままではあるが雷哉は大きく首を横に振った。
「だったら立てよ。今日からまた練習だ」
雷哉がようやくその顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔だ。まだ風間とは目を合わさず、まっすぐどこか遠くを見つめている。
「はぁ。……なぁ、雷哉。スノボは好きか? 滑るのは楽しいか?」
「……ずぎ。だのじい」
雷哉が鼻声でようやく答える。
「だったら大丈夫だ。いつか、おれと一緒の舞台でやるんだろ?」
優しく微笑む風間に、雷哉が真っ赤に腫らした目を向ける。
「やる。いつか仁さんを超える選手になる」
涙でぼろぼろになった少年の言葉に、風間は思わず吹き出してしまった。
「十年はえーよ。小僧」
風間はそう言って雷哉の頭を軽く叩いた。
一度の挫折が雷哉の心に火をつけた。
それまでにも増して練習に打ち込んだ雷哉はめきめきと上達していき、身体が成長するとともに出来る技も加速度的に増やしていった。
そして今から四年前の
ついに風間と雷哉は同じ舞台に立つことになった。
日本と時差のないその大会は国内でも非常に注目が高く、風間と雷哉はその名前をもじって「風神雷神コンビ」と呼ばれ一世を風靡した。
結果は風間が銀メダル、雷哉は六位入賞となった。
「次は絶対に仁さんを超えるからね!」
一人前の口を叩くようになった雷哉は風間に向かってそう言った。
「おうおう。やれるもんならやってみろ」
風間も挑発するように答える。
追ってくる後輩のためにも、第一線で活躍し続けてやろうと思った矢先のことだった。
風間はとある試合の演技の際、空中でバランスを崩し激しく転倒し腰の骨を折る重傷を負ってしまった。
長い長いリハビリ生活の始まりだった。
ようやく試合に出られるようになってからも、全盛期ほどの演技をすることは出来なくなってしまっていた。
そして、ついに風間はこの大会を最後に選手を引退することを決めたのだ。
******
「十年、かからなかったなぁ」
風間が現在一位である雷哉の得点を見ながら呟く。
そして気合いを入れるように腰を上げるとスタート地点へと向かった。
スタート地点に立つと、見下ろしたその景色をまぶたに焼き付ける。
まるで風間の最後をお膳立てするかのように、先ほどまで荒れていた空に晴れ間が広がった。
白銀の世界の中に不釣り合いに浮かび上がる人工的な弧の字。
ゴール地点の奥には、最後の演技者である風間のスタートを今か今かと待ちわびる観客たちが見えた。
――滑るの、楽しい?
かつての自分への意趣返しのような先ほどの雷哉の言葉が頭に響く。
「決まってるだろ」
風間はゴーグルの位置を調整すると、勢いよく飛び出した。
一方、雷哉はゴール地点のそばから風間の姿を見上げていた。
自分を育ててくれた兄貴分のラストラン。
その勇姿を祈るような気持ちで見守る。
風間がスタートを切ったのが見えた。
ぐんぐんと速度を上げ第一エアに差し掛かったその瞬間、雷哉は思わず呟いた。
「――跳べ、風神」
静まりかえった会場に、剣豪が刀を振り抜いたような鋭い音が響いた。
弧の字の先端から飛び出したそれは、あまりにも高く、恐ろしく優雅で、――そして美しかった。
風間が第一エアに選んだ技はグラブと呼ばれるもので、ジャンプ中に板を手で持ち空中姿勢を整えるだけという単純なものだった。
しかし、ただそれだけの単純な技が、会場全員の目を奪った。
最高到達点まで達すると、風間の身体は空中で一瞬静止する。
静まりかえった会場内で、全員が息を飲むのが分かった。
「天使がいる」
現地の子どもの舌っ足らずな英語が雷哉の耳に届いた。
止まっていた時が動き出すかのように風間の身体が下降し、見事に着地を決める。
そのままの勢いで第二エアへ。
全盛期を思わせるようなダブルコーク1440。
見事に成功したかに思えたが、着地でバランスを崩して転倒。
風神と呼ばれた男の最後の演技が終了した。
「あー、ダメだったかぁ」
風間は転倒したまま大の字になって空を見上げた。
雲間から見える青はどこまでも優しく、背中に感じる雪の冷たさも心地よかった。
失敗はしたものの、風間の心はどこか晴れやかだった。
ぱらぱらと音が聞こえてくる。
それはまるで通り雨のように、初めは小さく、しかし次第に大きなうねりを伴って風間の耳に入ってくる。
会場中の人間が立ち上がり風間に送る拍手の音だった。
風間はゆっくりと立ち上がると、観客に手を振りながらゴール地点へと滑り降りていく。
喝采は止まない。
全員の脳裏に、風間の跳躍が焼き付いていた。
あのあまりにも高く、恐ろしく優雅で、美しかった跳躍が。
ゴール地点まで辿り着くと、すぐさま雷哉が駆け寄ってきた。
「あぁ、おめでとう。雷哉」
風間は優勝を決めた雷哉に祝福の言葉を口にする。
「違うよ仁さん。仁さんこそ」
そこから先は言葉にならなかった。雷哉はあの時のように鼻水を垂らしながらぼろぼろと泣いている。
そんな雷哉を、風間は優しく抱きしめた。
******
「それでは優勝した神野雷哉選手にインタビューしていきたいと思います」
表彰後、メディアに囲まれた雷哉に無数のマイクが向けられる。
その中には付き合いの長いスポーツライターの五十嵐の姿もあった。
「史上初の1440を三回組み入れたルーティンを成功させました。率直にいまのお気持ちをお聞かせ願えますか?」
女性リポーターが笑顔で聞いてくる。
「自分自身、いつか絶対にやってやろうと思ったチャレンジなので、成功して素直に嬉しいです」
雷哉も安堵の表情を浮かべながら答える。
「今回で神野選手は圧倒的なチャンピオンになったと言えると思います。次の目標についてお聞きしたいのですが、いかがでしょう? 目指すは次のオリンピックでしょうか?」
「目標ですか? そうですねぇ」
語尾を伸ばした雷哉の目線がハーフパイプのある位置で止まる。
ちょうど第一エアを跳ぶあたりだ。
「――まぁ、僕の目標はいつだって同じです。この競技を始めたときからずっと」
そう言うと雷哉は笑みを浮かべた。
【跳べ、風神――完】
跳べ、風神 飛鳥休暇 @asuka-kyuka
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