第22話【3】

「……血の匂い?」


 アリスの向かいの部屋にある部屋で眠っていたモナは、浅い眠りの中不快な香りを感じ取り目を覚ました。


 寝巻きに身を包む彼女はエストックを構え静かに扉を開ける。

 戦闘はあまり得意ではないが、アリスの身を守ることもまた業務のひとつ。

 たとえ力が及ばなくとも、アリスを眠りから覚ますくらいには抵抗はできる筈だ。


 こんな血腥ちなまぐさい匂いを漂わせて王城へ入ってくるなんて、一体何を考えているのか。

 王族の暗殺……?

 いや、いくらモナの鼻がいいから感じ取れたと言えど、これほど濃い匂いでは他の人間にも気づかれてしまうだろう。

 暗殺にしては些か稚拙だ。


 匂いの元へ歩んでいく。

 どうやら殆ど使われていない部屋の方から漂ってきているらしい。

 息を殺して廊下を進んでいくと、最近よく見ることになった扉が目に入った。


「ここって……シグマ様の、お部屋?」


 まさか──!?


 鍵は付いていないので躊躇いなくノブを捻り扉を押し開く。

 そしてエストックを前に中を覗き見れば、見覚えのない少女がそこには居た。

 顔は見えないし、魔力も薄いが……その漆黒の外套にこびり付いた血が、事態が尋常でないことを物語っている。


 恐る恐る、視線を巡らせる。

 あのアリスが強いと形容する方だ。

 まさかとは思うが、もしかして──。


 そんな心配は、杞憂では済まなかった。


「あなたは……モナさんか。すみません、起こしちゃいましたかね」

「……シグマ、様」


 全身に深い傷跡が刻まれた、ふらふらと体を揺らすシグマが立っていた。


「ど、どうしたのですか、その傷!? というか彼女は一体──!?」

「あー……ちょっとやらかしまして。コイツは暗殺者ギルドのひとりです」

「そ、そうですか。……いや、それよりもその傷をどうにかしなくては!」


 酷い傷跡からは想像できないほど少ない血しか流れていないものの、少女の服に付いたモノが返り血ならば相当な出血量だ。

 今すぐ治癒しなくては死に至る──想像するのは容易かった。


 しかし治癒と言っても、モナは水属性が適性ではない上魔法そのものが不得手だ。

 どうすればいい……焦りが募る。

 治療院は既に閉まっている。

 有効な治癒の手段が無い。


 いや……彼女の傍には、誰よりも治癒魔法が得意な《魔導師》が居るじゃないか。


「アリス様をお呼びします。少し待っていてください」

「は? え、ちょっと──」


 シグマの静止の声など聞かずにモナは部屋を出て全力疾走した。


 あまり音を立てては他のメイドを起こしてしまう、なんてことは考えない。

 アリスはシグマのことを大切にしている。

 もしも欠けてしまえば──かつての、あの人間としての大切なモノを失った頃に戻ってしまうやも知れない。

 それと比べれば些細なことだ。


 息を切らしながらアリスの部屋の前までやってきたモナは、一度深呼吸をしてから軽くノックをする。

 許可の声も待たずに扉を開き、丁度ベッドから体を起こしていたアリスへ口を開いた。


「モナ……こんな夜更けに何ですか」

「緊急事態です。シグマ様が大怪我を──」

「ッ……!? わかりました」


 アリスの寝ぼけ眼はモナの言葉で一瞬にして消え去り、怒ったような焦ったような感情がごちゃ混ぜの顔つきになった。


浮遊フライ》で向かうことすら惜しいのか、戦いの場面でもないのに《精霊乱舞フェアリーダンス》を用いて廊下を飛んでいく。

 しかしモナを置いていくことはせず、焦りを抑えるように深呼吸をしながら飛ぶ。

 もうあの時──序列戦で契約の魔道具を見破れなかった時のようなことはしない。

 そんな意思がひしひしと感じられた。


 数十秒とせずにシグマの部屋の前に着き、アリスは杖を突いて扉をノックした。

 苦しそうな「どうぞ」というシグマの声を聞いて痛ましそうに顔を歪め、彼女はその中に足を踏み入れる。

 そこには、先程よりも血で汚れた床、いつの間にか鎖で縛られ吊るされた少女──そして、壁にもたれて微かな喘鳴を漏らすシグマの姿があった。


「シグマさん……っ!」

「ぁ……俺、約束を破ったんだ。ごめん」

「そんなことはいいので、もう動かないでください! すぐに治癒しますからっ!」


 自重するように嗤うシグマは虚ろな目で天井を見上げ、やがてアリスを見つめる。

 そこには明らかな恐怖とやるせなさが宿っていて、モナはかつての主人の姿を思い出して息を飲んだ。


 やはり──このふたりは、似ている。


 今になって前々から感じていたモノが、ようやく確信へと変わった。

 アリスが彼を気に掛けるのも、そういう部分があるからなのだろうか。


「主よ、命を燃やしたの者に、再びの大地を踏み締める力を与えん。

 しろきは清廉なる命の輝きを、あかきは雄大なる意思のほのおを。

 矮小な存在たる我の呼び声に応え、偉大な主の慈悲を彼の者へと与え給え。

 安楽と言う名のたまわり物を今此処ここに。

 ──《完全治癒オーバー・ヒーリング》」


 素早い詠唱を終えると、暖かな光が蝋燭だけで照らされていた部屋に満ちる。

 治癒の対象でないモナにも活力がみなぎるほどの上級光属性治癒魔法──シグマの体から垂れていた血の流れが止まっていく。

 みるみる裂傷が塞がっていき、30秒も経てば傷跡は全てなくなった。


 癒えたのを確認してほっと安堵の息をついたアリスだが、すぐに違和感を覚え訝しげに眉をひそめる。

 しかし、近くて吊るされている意識のない少女のことを見て合点がいったようだ。


「──彼女と、戦ったんですね」

「ッ……ああ。暗殺者ギルドのヤツだ」

「あなたの魔力がこれほど少なくなっているのを見るのは、出会った時以来ですか」


 今のシグマは魔力の溶けた血を流しすぎたこともあいって、以前の死ぬ間際ほどではないが魔力が枯渇しかけていた。

『武力行使はナシ』と言われていたのに、こんな大怪我をしてまで戦った──命令を無視したのが後ろめたいのだろう。

 ありがとう、とお礼を言う彼は一度もアリスと目を合わせなかった。


 アリスはゆっくり杖を突いて立ち上がり、少女の元へと歩んでいく。

 目深に被せられたフードを取ると、彼女が苦しそうに浅い呼吸を繰り返しているのが目に入った。

 殆ど底を尽きた魔力は確かに濃度が高く、相対しているだけで心がざわつく。

 そんな彼女は、あまりにも若かった。


「……貴族学園なら中等部にも満たない。こんな幼い者が暗殺者ギルドに在籍し、あまつさえシグマさんをこんなに追い詰めたのですか」

「肩に紋章があるだろ、ソレが証拠だ。追い詰めたかは、さっきの傷の通りだよ」

「そうですか。……何故、こんなことを?」


 シグマはここで、初めて黙った。

 アリスから質問された時、少なくとも誤魔化すように口を開くのがいつもの彼だ。

 しかし、今の彼はまるで親に叱られる子のように縮こまり、口を開くことなく床を見つめ続けていた。


 アリスは彼へと向き直り、杖を突く。

 ほんの僅かな距離を詰めて、壁に背を預け静かに俯く彼の前へとゆっくり跪く。

 そして瞳を覗き見れば、そこには底の見えない深淵があった。


「──何故、ですか」

「っ……」


 王族としての、声色。


 今のアリスはいち個人ではない──クロノワール家の人間として彼に尋ねている。

 それが伝わったのか、シグマはハッと顔を上げて彼女を見た。


 そこにもまた、深淵があった。


「………。ソイツの目標ターゲットが、アイシャ・アルバートだったんだ」

「……!」

「確かに、ソイツが魔道具のことを知っているかわからないし、仕事後を追ってアジトを突き止めた方が良かった。……でも──」

「でも、何ですか? 理解しているなら、一体何故危険を冒すような真似を?」

「っ……あ、アイシャ・アルバートの方が、学園で接触することもできるし、情報源としては適してるっ。現状じゃ、魔道具のことを確実に知っている人間は……彼女だけだ。失うには──」

「わたしは、エマ・マグノリアの友人です」


 あまりにも冷たい声だった。

 いつからか再び逸らされていたシグマの目がアリスへと向き直る。

 遂に杖も使わずに床にへたり込み、下から彼のことを睨みつけるアリスは──静かな怒りの炎を目に宿していた。


 周囲に満ちる《素魔力エーテル》が肌を刺すような攻撃的なモノに変わり、彼女の怒りを嫌でも感じさせてくる。

 これが、王族──なんてカリスマ性だ。

 逆らうことすら許されない……否、逆らいたいとも思わせてくれない。

 シグマは改めて、目の前に居るアリスが只者でないということを理解した。


「彼女が嫌うものは愚者、そして……嘘。わたしもまたそれらが嫌いです。もう一度聞きますね──何故、こんなことを?」

「………。わか、らないんだ」

「……?」

「わからないんだよ。頭じゃ放置した方がいいって理解してたのに、気づいたら暗殺の邪魔をしてたんだ」

「……ふふ。なるほど、そうですか」

「ッ……! ごめん。ほんと、ごめん」

「いいんですよ」


 先程とは一転した、優しい声色。

 まるで子の成長を慈しむ母親のような暖かいそれに驚き、シグマは顔を上げる。

 先程まで無表情で問いかけてきていたアリスは──いつの間にか、柔らかい笑みをたたえて彼を見つめていた。


「シグマさんもようやく人間らしくなったと言うものですね。わたしの駒でありたいのは伝わってきますが、それと自分の意思を捻じ曲げることを結ばないで欲しかったです」

「………」

「ねぇ、シグマさん」


 アリスはシグマの隣に凭れる。

 そのまま薄暗い部屋の天井を見つめ、彼の右手をそっと握る。

 相変わらずの、小さくて柔らかい手だ。


「わたしはね、シグマさんとは対等でありたいのです。あなたが感じたもの、考えるものを理解したいのです」


 手を握る力が強まる。

 虚空を見つめる灰色の目は、いつの間にか力強い意志の炎を宿していた。


「わたしを暗闇からり出してくれた、優しい死神さん──どうか、孤独なわたしの隣に立ってくれませんか?」


 遠慮なんていらない。

 全てをぶつけて欲しい、全てを知りたい。


 そんな意思が伝わってきて、シグマは涙を滲ませながら深く頷いた。


「……ほんとに、優しすぎだよ、アリスは」

「大した関わりもない人が殺されるのを見て見ぬふりできないあなたは、人のことを言えるのですか?」

「うるせぇ」

「ふふ……」


 ふたりは肩を互いに預け、笑い合った。

 いつの間にかモナは部屋を後にしており、そこには心地よい沈黙だけが流れている。


 朝日が窓から差し込み、暗闇に包まれていた部屋を少しずつ照らす。

 それはまるで、シグマの心が晴れやかになったのを体現しているような、そんな美しい光景だった。


 少女がひとり吊るされている異質な光景な筈なのに、妙にそれらは自然体だった。

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