第17話【3】
何の成果も、得られませんでしたッ。
そんな現実から逃避するように、俺はメイドさんが作ってくれたクッキーを片手に自室で本のページを捲っていた。
零さないようにひと口で食べれば、シンプルであるが故に純粋なプレーン味の美味しさが舌の上で踊る。
その甘さに舌鼓を打ちつつ、俺はぼーっと恋愛小説のページをひとつ繰った。
セナと別れた後は特に何も無く、結局夕飯の1時間前までランダムに歩いても怪しい気配は無かった。
流石に一朝一夕でどうにかなる案件ではないので、へこたれてはいられない。
俺は最終日まで序列戦は無いし、それまでに興味のある先輩も居ない。
予定はスカスカだからいくらでも調査に時間を割くことができるだろう。
焦ってはダメだ、絶対に。
焦ると言えば、アリスだ。
彼女は何かに怯えているのか、妙に今回の件を解決するのを急いている気がする。
確かに良くないモノだし解決は早い方がいいのは勿論だが、それで相手に気取られたり真相を違えては本末転倒だ。
明日もこの調子なら、また調査という名目でデートにでも誘い心を
──コンコン。
「失礼します」
「ん……モナさん」
控えめなノックの後入ってきたのは、アリスの専属メイドであるモナさんだった。
基本的に全ての業務を取り仕切っている、
あまり俺を訪ねてくることはないが、何かあったんだろうか。
「仕事ですか?」
「いいえ、単純な呼び出しです。アリス様の自室へご案内するよう言われています」
「了解しました。すぐ行きます」
「では、私は部屋の傍でお待ちしています」
そう言い残してモナさんは出ていった。
俺は寝転がってついていた髪の癖を直し、食べ終えたクッキーの包みを片付ける。
急ぎの要件でもないみたいだし、服装はこのままでもいいか。
何の変哲もない部屋着。
魔力伝導性があるわけでもない本当にただの服ではあるが、肌触りが良く普段着として重宝させてもらっているモノだ。
下手に高価な服を着るよりもローブを羽織った方が早いので、コレは長い間俺のお気に入りになるだろう。
姿見でさっと確認。
我ながら中々良い顔をしていらっしゃる。
ここだけは父上に感謝をするとしよう。
「準備できました」
「ではこちらに」
セナさんに付いていく。
俺と同じくらい高い身長はいつ見ても綺麗な姿勢を保っていて、まさにデキる女性という雰囲気を醸し出している。
実際彼女はアリスが頼むよりも先に欲しいモノを渡したりと、とても鋭い目と卓越した仕事能力がある。
彼女が幾つかはわからないし知ろうとも思わないが、結婚するならばすぐに相手が見つかりそうな魅力的な人間だった。
廊下には誰も居らず静寂に満ちている。
まぁ時間も時間だし、わざわざ部屋の外に出る要件もないだろう。
そう言えば、結局アリスの用は何だろう。
「あの……アリス、何か言ってました?」
「晩酌の相手を連れてきてくれ、と不機嫌そうに頼まれました」
「晩酌? 酒でも飲んでるんですか?」
「はい。もしつまみが必要でしたら、すぐに用意致します」
「ああいえ、大丈夫です……ハイ」
俺、酒飲んだことないんだけど。
大丈夫かね……酔ってアリスに襲い掛かったりしたら、ワンチャン殺される?
ヤバい、今更怖くなってきた。
話聞くだけにしようかな……。
「アリス様、失礼します」
いつの間にか着いていたらしく、モナさんはノックの後控えめに扉を開き中を見る。
問題なかったのかその中に進められ、俺はおずおずとアリスの部屋に足を踏み入れた。
ここに入るのは、目覚めた初日以来だ。
懐かしい匂いがする──フローラルで、妙に
あの日から変わっていない、不思議と落ち着くアリスの匂いだ。
俺は変態か──変態だ(自問自答)
「こんばんは、シグマさん」
「あ、ああ。こんばんは」
頭をブンブン振っていると、今朝とは違う雰囲気のアリスの声が
はっと顔を上げて見てみれば、ほんの少しだけ頬を上気させたアリスが窓際に腰掛け妖艶に微笑んでいた。
薄紫のネグリジェはその幼い体躯を
こうして御託を並べたが、要するに俺はアリスに見惚れていた。
王族として、策略家として、か弱い女の子として。
様々なアリスを見てきたが、そのどれとも違うただただ魅力的な姿だった。
「こちらにどうぞ。ワインは飲めますか?」
「……さあ。1回も飲んだことないんだ」
「そうですか。では乾杯の後のひと口だけでも飲んでみては如何でしょう? 上物なので美味しいと思いますよ」
「……わかった」
俺はアリスの言葉に従って彼女の対面に腰を下ろし、窓の外を見る。
その間にモナさんが慣れた手つきで新しいグラスにワインを注ぎ込む。
トクトク──心地いい音がやがて止み、彼女は頭を下げ部屋から出ていった。
グラスを持って中の液体を揺らす。
芳醇な葡萄の香りが鼻腔を
コレ、相当高いだろ──そんな意図を込めたつもりだが、答えることなく彼女は自分のグラスを持ち上げた。
「乾杯」
「か、乾杯」
グラスをぶつけようとすると当たる寸前で引っ込められる。
しかし考えてみればワイングラスは割れやすいし、こっちの方が良いな。
喉に赤紫色の液体を通す。
葡萄の甘みとほんの僅かな苦味がして、今まで味わったことのない感覚だ。
うん……美味しい。
だが俺が出会ってからアリスが酒を飲んでいたことなんてないのに、何故唐突に晩酌に誘ったんだろうか。
美味しいのは確かだが、この歳で飲むアルコールはあまり体に良くないらしいけど。
「んっ……ぷはぁ。どうです?」
「美味い。酔いとかはわからんが」
「ふふ、ならよかったです」
「……で、なんで突然晩酌を? アリスが酒飲んでるとこなんて見たことないぞ」
「飲みたい気分だっただけですよ。それに折角あなたが居るのにひとりで飲むなんて、勿体ないでしょう?」
「……そうか。付き合うよ」
「ありがとうございます」
愚痴くらいなら幾らでも聞ける。
共感してやれるかはまた別だが、話を聞くだけなら猿にだってできる。
アリスのことを支え助けるのが俺の駒としての役割であり、俺の願い。
彼女が望むなら、幾らでも付き合おう。
グラスをもう一度傾ける。
よく冷えたワインはあまりにも甘美で、理性という名のタガが緩んでいく。
しかし、俺の心はいっそ
「──本来お兄様が座る玉座を奪う理由としてきた『戦争の回避、勝利』の両方を覆しかねない魔道具です、あれは」
何の脈絡もない語り出し。
その声色はひどく沈んだモノだった。
「悪魔の契約……だったか」
「ええ。人為的な魔力の歪みがあったので、ほぼ確定と言えるでしょう。事前に防ぐどころか尻尾すら掴めていない──ふふ、ままならないものですね」
「事前に防ぐなんて無理な話だろ。それに尻尾を掴むって言ったって、まだ気づいて1日しか経ってない。焦りすぎだ」
今にも消えてしまいそうな雰囲気を纏うアリスは自嘲するように嗤う。
俺が否定の言葉を投げかけても、彼女は弱々しく首を横に降ってグラスの中のワインを見つめて涙を滲ませる。
その姿は、あまりにも痛々しかった。
「わたしは、人としてやってはいけないことをして王国中に目を置いていた。王国を守る為と言い訳をして非道を貫いてきたのに、その結果がこのザマ。きっとわたしの所業を聞けば、あなたもわたしが嫌いになる」
「……なるわけねぇだろ。アリスが俺のことを嫌いにならなかったみたいに、俺だってお前のことを好きでい続ける」
「あなたとやってきたことの重さが違うの。──わたしは、あなたの父親と同類よ」
……ハッ、その程度かよ。
今日、恋愛小説の中で出てきた台詞。
好きの反対は無関心──その通りだ。
俺は父上に対する感情は『大嫌い』だ。
それこそこの手であの首根っこを引っこ抜いて、全身をグチャグチャに捻り潰してやりたいくらいの憎悪だ。
だが、今のアリスは大好きだ。
彼女の過去がどうであれ、俺が嫌いになることは決してない。
まして──今まで愛に飢えてきた俺が、この大切な感情をそう簡単に放り捨てるわけがないのだから。
「俺は、シグマ・ブレイズ・エシュヴィデータは、アリスにとってその程度の人間でしかないのか?」
「……ううん。あなたが強くて、優しくて、でもとっても恐ろしいことは知ってる。これはあなたの問題じゃない──わたしの心の弱さの問題なの」
「そうかよ。……俺には頼ってくれ、って泣いて懇願してくる癖に、俺にはこれっぽっちも頼らないのもそのせいか」
「あ……っ」
「俺は言った筈だ──この一生を捧げ、あなたに忠誠を誓います」
俺は曲がりなりにも王族。
王族の誓い──ましてやブレイズ王国の元王子が口にする契りだ。
そう簡単に覆す筈がないのは、彼女だって心の底ではわかっているだろう。
その心に巣食う恐怖を殺す為なら、俺は彼女の望む全てを全うしてやる。
「陳腐だけどな、俺はアリスが幸せでいてくれるだけで十分なんだ。寧ろコレ以上の幸せなんて感じられない。頼ってくれない寂しさ、悔しさは──お前が一番知ってるだろ」
「っ……そうでしたね。わたしはもう、ひとりじゃない。最高神よりも身近で頼れる死神が、隣に居てくれるのですから」
「ああ」
「……ありがとうございます、シグマさん。明日になったら、必ず頼りますから。だから今だけ……今だけ、酔わせてください」
「仰せのままに」
俺たちはテーブルの上のグラスを持ち、ワインを思いきり呷る。
ソレは先程飲んだモノと何も変わっていない筈なのに、妙に甘く感じた。
薄く笑っているアリスを見て、俺は今までにない幸福感に満たされていた。
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