第8話

 コツ、コツ──。


 メビウス王国、午前6時過ぎ。


 俺は魔物の青い返り血にまみれたローブをなびかせ、同じく血に濡れた黒髪を曝しながら歩いていた。

 俺を見た王国民は皆1歩後退り、目を逸らすかその場から立ち去るかする。

 自分の嫌われ具合に薄く嗤いながら俺はため息を飲み込み、特に気に留めることもせず足を動かし続けた。


 かつて、この世界は神によって直々に統治されていた。

 人はその時意思を持たぬ神の傀儡くぐつであり、その命に大した意味は存在しない。

 全ての命は神の手のひらの上で転がされているただの遊びの一環だった。


 ある日、魔王が人間のように土塊つちくれに魔力を込めて魔物を創り出し、世界を手中に収めようとした。

 魔物は人よりも圧倒的に強く、何千万という人形が壊されてしまった。

 蹂躙される人界、侵食する魔界。

 最高神は最も御身に近いかたちをした生き物──人間にその力を継承し、魔物との全面戦争を臨むこととした。

 コレが、神話で語られる第一次神魔大戦。


 その魔王──魔神クロニクルは、全ての色を飲み込んだような黒髪を持っていた。


 そういうわけで、黒髪は嫌われている。

 俺みたいなヤツは嫌われて当然だが、やはり受け入れるのは少し辛いモノだ。

 しかし、感情は揺れない。

 今俺にあるのは、後悔だけだから。


「はぁ……どんな顔して会えば良いんだ」


 俺は昨夜、アリスを傷付けた。

 彼女と戦い多少冷静になれたお陰か人は誰ひとりとして殺さずに済んだが、それを含んで余りあることを犯してしまった。

 アリスは治癒魔法が使えるのであんな傷でも治せるかも知れんが、ようやくある程度の信頼を得たところでこの暴挙。

 死んで詫びることになったとしても、ひとつとして文句は言うまい。


 ……死ぬ、か。

 今までは気軽に受け入れられたのに、どうして今になってこんなに死ぬのを嫌がっているのか全くもってわからんな。

 それに、人を殺すことにだってただのひとつも抵抗は無かったのに、どうしてわざわざダンジョンに潜ったのか。

 国民数人くらいは殺しても普通バレない。


「マトモになった……わけねぇか」


 そもそも今考えるべきなのは、こんな下らないことじゃない。


 ──コツ、コツ……コツ。


 足を止める。

 大きく深呼吸し、荒ぶる心を鎮める。

 アリスは昨日「手放すには惜しい」と言ってくれていた。

 アクシアには土下座しても足りんが、その前に彼女に謝り再び俺を使ってくれるか尋ねなければ。


 ……怖いな。

 人から拒絶されるのには慣れっこなのに、彼女にそうされるのを想像すると──今から震えが止まらない。

 こんなに臆病だったか、俺は。

 昔はもっと、強かった気がする。


「いや、気のせいか」


 頭を振って邪念を捨て去り地面を思いきり蹴って空へと躍り出ると、そこから見えた庭園にあるティーテーブルの横に降り立った。

 音を立てること無く着地し、地面からゆっくりと視線を上げていく。


 相も変わらずいつも通り、そこに彼女──アリス・メビウス・クロノワールは腰掛けカップを傾けていた。

 陽の光に照らされた美しい豊かな金髪、どこを見ているのかわからないどんな宝石よりも綺麗にきらめく灰の瞳。

 至って表情はいつも通りで、しかしどこか寂しそうにも見える彼女の手は──注視しなければわからないほど小さく、震えていた。


「──おはようございます、シグマさん」


 鈴の音のような心地いい声。

 俺は自然に、跪いた。


「おはよう、ございます……アリスさん。昨日は本当に、すみませんでした」

「まったくです。いきなり叫んだかと思えば目を赤くして廊下を歩いていて、何処どこに行くのかと聞けば邪魔だと罵られ、挙句両手に穴を空けられましたから」

「ッ……すみ、ません。許されざる行いだというのはわかっています。今すぐ首を差し出しても構いません」

「ふふ……。昨日は敬語が無くて結構嬉しかったのですが、戻ってしまいましたね。少し寂しいです」


 この人は、何を言っているんだ?

 俺はッ……俺は、決してやってはいけないことをした最低の人間なんだぞ。

 どうしてそんな風に、簡単に許してしまえるんだ──許してくれるんだ。


 コレが、器の違いか?

 王族という重荷を放り出して逃げた俺と、その任を誇り高く全うする彼女との差だとでも言うのか?

 わからない、わからない、わからない。

 何もかもが、わからない。


 アリスは本当に、凄い人だ。

 人間としての格が違うというのは、こういう人のことを言うのだろうか。

 やはり俺は、彼女に敵わないらしい。


「──シグマさん、あなたは恐らくわたしと同じ天秤の釣り合いが取れていないと落ち着かない人間です。それを解消する為にも、わたしの願いをひとつ聞いてもらえますか」

「……何なりと」

「あなたをゆるす代わりとして、使わなければいけない場面以外──わたしに決して敬語を使わないこと」

「……は?」

「これがわたしがあなたに課す条件です。飲んでもらえますね?」

「え、いや……あの──」

「敵国の王女であるわたしに敬語を使わないのはさぞむず痒いことでしょう。それをこれから先長く続ける……十分な代償です」


 嗚呼……なんて優しくて、残酷な人だ。

 俺がどういうモノを欲しているのかわかっていながらソレを与えず、優しさという甘美なモノで溺れさせようとしてくるとは。


 アリス・メビウス・クロノワールは聖母のように優しく、女神のように寛大で──誰よりも、この俺よりも狂っている。

 彼女の灰色の瞳は、確信を得た未来を見据えてより美しく輝いているようだった。


「承りました」


 俺はゆっくりと、しかし確かに頷いた。


「そうじゃないでしょう?」

「………。わかった」


 クソ、確かにむず痒い。

 慣れるのにはしばらく時間が必要だな。

 やはり彼女は、残酷で酷い人だ。


 アリスは俺の顔を見ておかしそうに微笑むと満足そうに頷いて立ち上がった。

 杖を握る手はいつも通り白く、美しい。

 怪我をしていたなんてこれっぽちも思えない御手がそこにはあった。


「宜しい。そろそろ朝食の時間なので、シャワーを浴びてスッキリしてから事情を話してもらえますか?」

「はい、わかり──わかった」


 差し出された手をしっかりと握り、俺たちは深く頷き合う。

 そのまま歩き出した時、彼女の手は少したりとも震えていなかった。


*  *  *


 シャワーを浴びて返り血や汗を洗い流し、メイドさんたちへ腰を直角にした礼、謝罪と共にローブの洗濯を頼んだ後。


 俺はアリスと向かい合って朝食のパンを齧りながらぽつぽつ会話を交わしていた。

 食事のようなリラックスできる場での方が話しやすいだろ、ということらしい。


 畏まって話すのは緊張するし、なるほど確かにこちらの方が良いかも知れん。

 と言っても、改まって彼女と言葉を交わすこと自体が緊張するのでどちらにしろリラックスはできないのだが。


「あれ、今日のパンはいつもより柔らかい気がします。何故でしょう?」

「……さあ。気のせいじゃないのか」

「そうかも知れませんね。言うほど舌は肥えていませんし、彼女たちは調子で料理の味が変わるようなメイドではありませんから」

「コレ焼いてるんだ……」

「朝食のものだけですがね。昼や夜に出るパンは市販だと聞いています」


 こんな風に俺のことをなるべくいつも通りにしようと言葉を紡いでくれるが、しかし敬語でないだけで落ち着かん。

 美味しい筈の料理もよく味わえず、俺はさっさとソレを飲み込んで息を吐いた。


 早く話して楽になりたいという気持ちと、このクソつまらない話をして軽蔑されるのが怖い気持ちがせめぎ合っている。

 こんなにも強く心を揺さぶられるのは本当に久しぶりのことだ。

 初めて感情が昂ったのは──ああ、初めて豚を自らの手で殺した時だったか。

 懐かしいな、気持ち悪い。

 今食べたパンを吐き出しそうだ。


「──ゆっくりで、良いですよ」

「……悪い」

「いえいえ。わたしもいつかあなたに過去を話す時、きっと同じようになりますから」


 ……話すつもり、なのか。

 別に聞かなくとも俺の忠誠はあなたに捧げるというのに、本当に不思議な人だ。

 仮に彼女の過去を聞くことになるとしたらきっとかなり先だろうし、頭の片隅に可能性を置いておく程度で良いだろう。


 そんなことを考えていると、不思議と荒れ狂っていた心が落ち着いてきた。

 ホットミルクを飲んだことも関係しているかも知れんが、きっと彼女の優しい声音を聞いたお陰だろう。

 アリスならもしかしたら、と自然に考えてしまう彼女の声は本当に不思議だ。


 大きな深呼吸の後。

 俺はゆっくりと、口を開いた──。

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