常世の国

ふさふさしっぽ

常世の国

「とこ、よ、えき」


「は?」


「とこよえき」


 認知症で寝たきりの母が、最近同じことをうわごとのように呟くようになった。


「とこ……何よ」


 何度も繰り返すので、わたしは仕方なく、ぼうっと天井を見つめている母に問うた。


「とこよえき」


「とこよ駅?」


 なんだ駅の名前かと思って、わたしはスマートフォンで調べてみた。するとうちのすぐ近くに「常世駅」という駅があることが分かった。

 母の介護をするため、この実家に戻ってきてから三年になるが、スーパーへ行くにしろ、母を病院へ連れて行くにしろ、わたしは専ら車を使うので、今までこのような駅の存在はまったく知らなかった。

 わたしが子どものときはどうだっただろうか。

 わたしは中学高校とバス通学だったし、友達と遠出するときはバスで隣町の駅までわざわざ行っていたはずだ。

 やっぱり「常世駅」なんて利用した記憶がない。こんなに家のすぐ近くにあるというのに。もしかしたら、わたしが家を出たあとにできた駅なのだろうか。


「とこよえき、行きたい」


 わたしの思案を母は珍しくはっきりとした声で遮った。

 わたしの記憶にはない駅だけれど、母の記憶のどこかには「常世駅」は刻まれているらしい。わたしの名前はおろか、自分の名前さえ忘れているのに、滑稽なことだとわたしは思った。

 けれど母が「常世駅」に行きたいというのであれば、喜んで連れて行ってあげようと思う。

 わたしは今とても晴れやかな気分なのだ。

 母の身支度をしてやって、ベッドから車椅子に移動させ、万が一のための変えのおむつを持ってこの暑い日に外に出るのは面倒だが、まあいいだろう。

 最後の親孝行、というやつだ。


 家を出て「常世駅」の場所をスマホで確認しながら、母と二人蝉しぐれの中を歩いた。わたしがいつも行くスーパーとは逆方向だ。

 八月の日差しが容赦なく照りつける。わたしはそのあまりの暑さに家を出たことを早くも後悔し始めていた。しかし母は相変わらず「とこよえき、とこよえき」となんだか楽しそうに繰り返している。車椅子を押しているわたしからはその表情は伺えないけれど、そのお気楽な調子がわたしの癇にさわる。母に帽子を被せるのを忘れたことに気がついたけれど、どうでもいいと思った。どうせ暑いも寒いも分からないのだから。

 狭いわき道に入って、舗装されていない砂利道を歩くこと五分。林を抜け、急に視界が開けたと思ったらそこにぽつんと「常世駅」はあった。

 線路が一本と、小さな古ぼけた駅舎があるだけ。

 後ろは今抜けてきた林。他は田んぼが広がっていた。

 うちのすぐ近くのはずなのに、なぜか全く知らないところのような気がして、少し不安になる。


「お母さん、常世駅よ」


 わたしは母に努めて優しく言った。そう言って、なんとなく、はやく引き返そうと思った。すると


「でんしゃに、のりたい」


 母は赤ん坊のように駄々をこね始めた。わたしはかあっと苛立って、黙らせようとしたが、視界の隅に人が立っているのをみとめ、さっと振り上げた手を引っ込めた。

 いつからそこにいたのか、プラットフォームに駅員が立っていた。俯いていて顔はよく分からないけれど、若い男性のようだ。

 と、線路の向こうから電車がやってきた。ああ、電車が来たから駅員が出てきたのか。

 わずか二両の電車は静かに駅に止まり、ドアが開く。中に人は誰もいなかった。


「お母さん、乗るの?」


 駅員の目を気にして、仕方なくわたしはゆっくりとした口調で母に聞いた。母は頭を大きく何度も振って頷く。

 しょうがない、一駅だけ乗って戻ってこよう。今日は最後の親孝行の日だものね。

 そう思ってわたしは車椅子を押した。しかし、キャスターが電車とホームの間に引っかかってしまい、上手く乗り込めない。

 わたしは舌打ちして自分が先に乗り込むように体の向きを変えた。車椅子を押すのではなく、引っ張る形だ。

 そのとき、


「乗るのはお前だけだ」


 母がこちらを振り向き、はっきりした声で言った。いつもはどこを見ているのか、焦点の定まらない目が、今は真っすぐにわたしを捉えていた。


「は? 何言って」


 そう叫んだとき、何か小さなものが「ジジジッ」とドアから飛んで入ってきて、わたしの顔にぶつかり、またドアから出て行った。蝉だ。

 わたしは咄嗟に車椅子を離してしまった。

 蝉が飛び去って行く。

 あ、と思ったときは遅かった。ドアがわたしと母をちょうど二つに分けるようにして閉まった。

 ドアの向こうで母がわたしを凝視していた。

 電車がゆっくりと動き出す。

 母が視界から消えていく。

 咄嗟にしまった、と思ったけれど、すぐに引き返せば問題ないとわたしは思い返した。別にわたしのせいじゃないし、いざとなったら駅員もいる。けれども遠ざかる駅には線路に背を向けるように車椅子に座る母しか見当たらなかった。

 さっきまでいた駅員はどこに行ったのだろう。わたしは首を傾げた。母を放って駅舎戻ってしまったのだろうか。いい加減な駅員だ。

 いいや、そんなことよりも、わたしは母の放った言葉と、わたしをにらむように見ていたあの目に腹が立って仕方がない。

 何あの目つき。

 生意気な。

 わたしがいなきゃ、何にもできないくせに。

 あんたは、もうすぐ焼け死ぬんだよ。

 そう心の中で毒づくと、怒りも収まり、自然と笑いが込み上げてくる。


 わたしは母の面倒を見るのにうんざりしていた。まだ四十二なのに、なんでこんな田舎で母親のおむつを変えなくてはいけないのか。

 たしかに最初は田舎に戻って母の面倒を見ながらのんびりするかとも思ったけれども、母の認知症がこんなにひどいとは思わなかった。これじゃ終わりが見えない大きい赤ん坊のお世話を毎日しているようなものだ。

 そんなとき、こんな田舎に一件しかない飲み屋で、五十手前くらいの男性と知り合った。東京でビジネスをしていて、ここへはちょっとした息抜きに立ち寄ったという。

 わたしの愚痴を嫌な顔一つせず聞いてくれた彼は、ふっと真剣な顔になり、こんな世の中を生き抜くためにビジネスを方向転換したいとわたしに打ち明けてくれた。わたしには難しい話はよくわからなかったけれど、それには百万円ほど必要らしい。

 わたしは彼を助けたい、と思った。それに、今こそ人生最大のチャンスだ、とも思った。わたしには、いざというときのために大事に大事にとっておいた百二十万円がある。

 そのことを彼に話すと、彼はわたしの手を取り「君は僕の女神だ。ずっと一緒にいてほしい」と優しく微笑んでくれた。

 その瞬間、わたしは、わたしの本当の人生の始まりを感じた。


 あとは邪魔な母をどうするかだが、それは簡単だ。認知症の母親が誤って火を出したように見せかけ、殺してしまえばいい。母は寝たきりだけれど、四つん這いで歩くことはできるのだ。わたしが家を空けているあいだ、誤って仏壇の蝋燭の火を倒した、これで行こうと思った。

 わたしはここのところ毎日そうしているように、母が死んだ後に待っている素晴らしい未来を想像した。ドアに背を預け、彼との生活をひとつひとつ思い描くことに浸る。

 ふいに、スマホが鳴ったような気がして、我に返った。彼からのラインかなと思って、いそいそとスマホを取り出す。

 彼からのラインではなかった。なぜかネットで「常世」が検索されていて、「常世」についての検索結果が出ていた。

 なんでだろう、と思ったけれど、まあそんなこともあるんだろうと浮かれた気分でいるわたしは深く考えなかった。なんとなく、「常世」の検索結果を見る。


「常世」 死後の世界または黄泉の世界。対義語として「現世」(うつしよ)がある。


 ふうん。


「常世の国」というと、海の彼方にあるという異世界をいう。一種の理想郷である。


 理想郷! そう、まさにわたしは今までの灰色な人生を脱ぎ捨てて、理想郷へと飛び込んでいくのだ。

 わたしの胸は高鳴った。


「次は、常世の国~、常世の国~」


 電車内にアナウンスが流れた。

 常世の国? 常世駅の次が常世の国駅? 変なの。

 そう思ったけれど、わたしは「常世の国駅」で下車し、母のところへ引き返さなければならない。

 電車が減速する。なんだか窓の外の景色が曇ってきたように見える。霧だろうか。

 プラットフォームは霧に包まれていた。電車が音もなく停車して、間もなくドアが開いた。乗ってくる人はいないようだ。わたしは霧の中へ一歩足を踏み出す。氷の中にいるような冷気が体を包み込み、体が強張った。霧で、前が、

 みえ、ない。


「ああ、くさいね、くさいねえ!」


 女の怒鳴り声でわたしは覚醒した。目には見慣れた部屋の天井が映っている。何とも言えない不快なアンモニア臭が鼻についた。


「なんの役にも立たないくせに、よくもまあこんな小便を垂れ流すよ、恥ずかしくないのかい? あたしだったらとっくに舌噛みきって死んでるよ」


 突然目の前に母の顔が現われた。ゴミ溜まりを見るかのような嫌悪感をむき出しにした顔をしている。いつものぼんやりと呆けている顔ではない。認知症になる前の母だった。

 わたしは何がどうなっているのか分からずに、何か言おうとした。けれど口から出た言葉は、まともな言葉にならず、代わりによだれがだらだらと流れた。よだれを拭かなきゃ、と思ったけれど、体が思うように動かない。起き上がることも、右腕を動かすことも。頭では分かっていることが、体に伝わらないのだ。

 そこで気が付いた。わたしは今ショーツを履いていない。下半身を丸出しにしたまま、ベッドに仰向けに寝ている。そして、さっきから漂っているアンモニア臭は、自分から発せられている!


「いや、いやっ。恥ずかしい」


 わたしは必死に叫んで、体を左右に捩り、足を閉じようした。しかし口から発せられるのは「やーやー」という意味をなさない音ばかりで、その上、力を入れたためか知れずに排尿していた。


「ああ、シーツが汚れちゃったないの、この馬鹿!」


 母が、わたしの頭を掴み、激しく揺さぶった。わたしはどうすることもできずに喘ぐしかない。


「なんであたしがあんたの面倒見なくちゃいけないのかねえ。大人になったら親も子もないだろ、ったく、さっさと死んでくれよ」


 母はそういうと、てきぱきと慣れた手つきでわたしにおむつを着けた。尻を拭いてもらえず、シーツも変えてもらえなかった。

 そしてベッドをリモコンで起こすと、わたしの首にビニールの涎掛けみたいなものを装着し、なにやら次々と口に押し込んだ。


(なにこれ、腐ってる!)


 わたしはもごもごと口を動かし、母が無理やり入れてくる腐った食べ物を吐き出そうとした。しかし母親は左手でわたしの頭を固定し、上を向かせ、悪臭漂う残飯を右手で次々にわたしの口にねじ込んだ。


(苦しい、くるしいよ、お母さん)


 わたしは心の中で叫びながら涙を流した。苦しいのか悲しいのか、情けないのか分からなかった。

 どうしてこんなことになったんだろう。わたしは、確かにさっきまで電車に乗っていたはずなのに。

 ベッドの上でもがきながら、必死に頭を働かせて記憶を辿った。わたしは母の介護をやっていて、常世駅、という駅に母が行きたいと言うから連れてきただけだ。それで、誤ってわたしだけ電車に乗ってしまったのだ。

 そうだ。


「ど、どこ、よ、え、ぎぃ」


「は? 何言ってんのあんた」


 残飯を押し込み終わった母が怪訝そうな顔をわたしにむける。


「とこよ、えき」


 わたしのその言葉を聞いて、母が一瞬真顔になったあと、にたあ、と笑った。目を大きく見開いて、口が大きくさける。ホラー映画で見る、気が狂った残虐な殺人鬼の顔だと、わたしは思った。

 その殺人鬼が、おもむろに言った。


「そうよ。ここは常世の国。あたしの理想郷だよ」


 母の理想郷。ここが母の理想郷なのか。わたしの介護をするのが。

 ただ一つ言えるのは、さっきから母がわたしにしている仕打ちはわたしが今までさんざん母にやってきたことだということだ。

 わたしはもっともっとひどいことを母にした。介護してやっていることを理由に。

 これから多分わたしはそれと同じことを母にされるのだろう。わたしは漠然とそう感じた。

 それが母の望みだから。


 そして、きっと、最後には。


(完)

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