独白

水野酒魚。

独白

 わたくしは、その街では名の通った商家の三男としてこの世に生を受けました。

 父は子煩悩こぼんのうな人で、末の息子である私を大変可愛がって下さいました。

 母は元々商家の娘で、あきないのことをよくよく承知した方でございました。

 堅実な父とやり手の母は、二人で共に良く働き、家の資本を倍ほどにいたしました。

 何不自由なくとは、我が家のことでございましょう。

 私は、幸福な幼年時代を過ごしました。

 兄弟たちはみな父母を尊敬し、また愛しておりました。

 上の兄と下の兄は十二歳になると、父母を手伝って商売の道に進みました。

 姉は独立心旺盛おうせいな人でしたので、十五歳の年に新しい店を開きました。

 私も、将来は商売の道に進むものだとばかり思っておりました。兄たちを手伝って、店を大きくしていくものだと。

 ですが、とおになったばかりの春、私は運命に出会ってしまったのです。


 私の住んでいた街に、国で一番ともうたわれる魔法師まほうしの先生が引っ越していらっしゃいました。

 先生は街にきよを構えると、ご自宅で魔法士まほうしを育てるための私塾を開かれました。

 私は六歳の年から、商いに必要な学問を教えられておりました。私は、それが嫌いではなかった。むしろ、学をおさめる事を楽しむ子供でございました。

 好奇心から、私は魔法を習いたいと父に訴えました。

 父は、私の願いを二つ返事で聞き届けて下さいました。

 大枚をたたいたのでしょう。三日後に、私は先生のご自宅に招かれたのです。

 魔法師の先生のご自宅は、かつて羽振りの良かった商人が別宅として建てた古い建物でございました。往時から贅沢品ぜいたくひんだった建材がふんだんに使われた瀟洒しようしやな邸宅は、先生の神秘的な雰囲気に良くお似合いでした。

 私は一目で、その邸宅と先生のとりこになりました。

 初めてお目にかかった時、先生は四十代後半。理知の光をひとみにたたえ、鼻梁は高く、厚い唇は優しく微笑んでいらっしゃいました。

 私は、いたく感激いたしました。どうか、この方の元で、魔法士になる修行を積みたいと、心の底から願うほどに。

 先生は私に微笑みかけながら、おつしやいました。

「この子に素質があるかどうか、見てみましょう」

 先生は私の手を取って、何もかもを見透かすようなあおい眸で、私の心と覚悟を試すように真っ直ぐに私の眼を見つめて下さいました。

 私の心臓は胸の中を跳ね回り、先生が触れて下さった手のひらは熱く、緊張に震えておりました。

「……素質は十分なようだ。この子をわたしに預けて下さいませんか?」

 先生のお言葉に、私は雲を踏むような心地で舞い上がりました。可愛い末息子を手放すことにしぶる父を、私はどうにか説得いたしました。

 こうして、私は先生の弟子になったのでございます。


 先生は熱心に丁寧ていねいに、私に魔法をご教授下さいました。

 自分で言うのもおこがましいものでございますが、私には確かに才能がございました。

 火水風雷金土、全ての属性に適正があると先生は仰って下さいました。

 先生が教えて下さる事の全てを、私はようやく水を与えられた若木のように吸収いたしました。

 毎日が、楽しくて楽しくて。先生に弟子入りして、あっという間に二年の月日が経っておりました。

 十二歳になった私は、まさしく幸福の絶頂にあったのです。


 忘れもしない。ある春の夜。私は先生の寝室に招かれました。

「ねえ、可愛い弟子や。お前は良くはげんでいるね。今日はそんなお前をねぎらおうと思う」

 先生はそう仰って、私に砂糖菓子を下さいました。子供の手のひらにって、転がるほどの大きな砂糖菓子。

 私は先生にお礼を申し上げて、自室に戻ろうといたしました。

 大切な砂糖菓子。私は無作法ぶさほうにならぬよう、一人でその味を噛みしめるつもりでおりました。

 先生は笑って「この場で食べても良いんだよ」と仰って下さいました。

 それで、私は砂糖菓子を口に頬張ほおはりました。

 甘い砂糖菓子はホロホロと口の中で崩れて、中からもっと甘いシロップがとろりと流れ出してまいります。私は夢中でその甘味を飲み込みました。

 甘い甘い、みつの味。それが喉を滑り落ちて行って、腹の中にたどり着くにつれ、私は味わったことのない、不思議な高揚感に包まれました。

 身体の芯が温かく火照って、そのくせ、立っているのも困難なくらい手足に力が入らないのです。これも何かの魔法薬なのだと、私は悟りました。

 先生は優しく笑って、「それはね、媚薬びやくだよ。この薬の作り方も、いずれお前に教えようね」と仰いました。

 私は溺れる者のように、腕をばたつかせてふらふらと先生の胸に倒れ込みました。

 先生は私を抱え上げると、ご自分の寝台に運んで下さいました。

 そうして、私は先生の寵愛を受ける身となったのです。


 毎夜、毎夜。先生は私を愛して下さいました。

 始めは先生が下さる痛みや苦しみが、何かのばつなのではないかと、私は疑いました。

 それでも、先生は私を教え導き、いつくしんでくださいました。

 私の身体からだを、心を、丁寧に開いて下さいました。

 その頃、数人いた弟子の中で、先生が愛して下さったのは一人だけ。私ただ一人。

 程なくして、私は先生が下さる全てのものに夢中になりました。

 先生が愛して下さるのは、私だけ。

 先生のしとねはべる度に、私は優越感とも言える感情で満たされます。

「可愛い弟子たちの中で、最も美しい弟子よ」と、先生は仰います。

 私は先生に選ばれた。私は先生のもの。私には、それが誇らしかった。

 先生は私との逢瀬おうせを「誰にも言ってはいけないよ」と仰いました。

「私はお前だけを愛しているのだからね。だからこれはわたしとおまえの秘密なのだよ」

 もちろん、私は、誰にも言うつもりなどございませんでした。秘密をかたくなに守って、家族にも決して伝えませんでした。

 先生を取り上げられるのが怖かった。先生が私以外の誰かに取られるのが怖かった。

 私は、確かに先生をおしたいし、愛しておりました。


 そんな幸福な時が、永遠に続いていくのだと、私は思っておりました。

 十四歳で声変わりを済ませて、私の手足は嫌になるほどひょろひょろと伸びて行きました。顔つきも、ゆっくりと青年のそれに変わりつつあります。

 先生が下さる砂糖菓子の量は、次第に減って。

 先生が私を寝室に呼んで下さる回数も、近頃めっきり減っておりました。

 もう一週間以上も、先生は私をお呼びにならない。

 私は、すでに十六歳になっておりました。


 その日は朝から暑い、真夏の日でございました。

 私は、先生のために朝のお食事を運んでまいりました。先生のお好きなものばかりを盆にのせて、先生によろこんでいただけるようにと心を込めて、私が用意いたしました。

 こうして先生にお仕えしていれば、きっと先生の一番でいられる。

 きっと先生は、再び私を夜伽よとぎにお呼びになる。

 私は、純粋にそう信じておりました。

 ですが、上機嫌で先生のお部屋に向かった私は、そこで見てはならない物を見たのです。

 眠そうに目をこすりながら、お部屋の扉から出て来た少年。

 近頃先生に弟子入りした、よわい十二歳、最年少の弟子でございました。

 弟弟子おとうとでし気怠けだるげで、それでいて満足げな様子に、私は全てを察しました。

 私は十六歳にして、若さ、いとけなさと言う物に、完全に打ち負かされたのでございます。


 先生のご興味は、もうすっかり弟弟子に移っておりました。

 青年になりつつあった私は、もう、先生の最も美しい弟子では無かった。

 私は自分を憎みました。成長する身体を憎みました。

 何故、人は子供のままいられないのでしょう?

 何故、人は人を愛しい、恋しいと感じるのでしょう?

 何故? ナゼ? なぜ?

 答えなど出ない問いに、私は一人、絶望いたしました。


 十七歳の誕生日に、私は先生に告げられました。

「十八歳になればお前も成人だ。その頃には、お前も一人前の魔法士となれる。喜びなさい」

 もう、その頃には、私が夜に先生のお側に侍ることは無くなっておりました。

 先生は何事も無かったように、私を優秀なただの弟子として扱いました。

 先生の甘いささやきも、あの砂糖菓子の媚薬も、今は私の知らぬ誰かのモノ。

 私は、心にぽっかりと空いた穴を埋めたくて、誰でも良いからなぐさめて、愛して欲しくて夜になると街角に立ちました。

 顔形を魔法で変えて、時には性別すら偽って。

 一時いつとき人肌に触れ、その温かさを味わっても、胸に空いた穴はますます大きくなるばかり。

 私に触れる腕も、睦言むつごとつむぐ声も、みな、先生では無いのです。

 愛しい、恋しい、やり場の無い気持ちだけが降り積もって。

 私は、次第に押しつぶされて行きました。


 先生は、今日もかわいい弟子を連れて、寝室に入られます。

 今日はあの子に、特別甘い砂糖菓子を下さるのでしょう。

 私には耐えられない。もう耐えられない。


 寝室に呼ばれなくなったとしても、私はこの街で初めて先生の弟子になった者でございました。

 先生の朝食を準備するのは、まだ私の大切な役目。

 先生の好物は新鮮な果物、甘いミルク、温かなハーブ茶、それから異国風の柔らかなパンと良く焼いた鶏の卵。

 私は丁寧に、精魂せいこんかたむけて朝食を作ります。

 先生に喜んでいただけるように、楽しんでいただけるように。

 それから私は、朝食を盆いっぱいに載せて運びます。

 先生はもう起きて、着替えを済ませていらっしゃいました。

 お食事でございます。先生。私は盆をクロスのかかったテーブルに置きました。

「有り難う。お前の作る朝食はいつも美味しいよ」

 お世辞でも嬉しいです。先生。さあ、今日の朝食は特別美味しく出来ました。召し上がって下さいませ。

 先生が朝食を召し上がる間、私は先生のベッドを整えます。

 それはいつもの光景で、とくだん珍しいことではありません。

 ああ。先生が私の朝食を召し上がって下さる。私が作る最後の朝食を。

 もうじき、食事のすべてに少しずつ混ぜた媚薬が効き始めるでしょう。

 先生が、作り方を教えて下さった、薬。

 あれは、ゆるやかに身体の自由を奪う薬でもあるのです。

 先生が私だけのものにならないというのなら、誰のものにもならなければ良いのです。

 先生には誰も触れられない。先生は私だけのもの。

 ああ、先生。もう手足に力が入らないのですね?

 解毒の魔法を使われる前に、のどつぶしてしまいましょう。

 誰かが異変に気がつく前に、先生をくらい地下の国にお送りいたしましょう。

 大好きだった、この邸宅ともお別れです。直に先生と一緒に灰になるでしょう。

 さようなら。

 私の先生。私だけの先生。

 愛しています。あなただけを。

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独白 水野酒魚。 @m_sakena669

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