恋人
「結婚しよう、
小さな小箱に納められた、小さな指輪。
それを差し出しながら自分にプロポーズしてくれた男性の言葉に、郁美は涙を浮かべながら頷く。
「はい……! よろしくお願いします……!」
承諾の意を示した彼女の言葉に目を見開き、安堵し、同じく瞳に涙を浮かべた男性は、大きく首を振りながら感激の言葉を口にした。
「や、やった……! やった~っ! ありがとう、郁美! 必ず、必ず……俺は君を幸せにする! 絶対にだ!!」
「ええ、信じているわ。家族になって、一緒に……幸せになりましょうね、
……二人は、付き合って数年の恋人だった。
今、この瞬間、関係を恋人から婚約者に進めた郁美と亮太は、そこからも幸せな時間を二人で築いていく。
家族、友人たちへ結婚報告をした際には、その全ての人々から祝福してもらえた。
おめでとう、おめでとう、と……親しい友人や共に育ってきた兄弟、これまで自分たちの面倒を見てくれた両親に祝ってもらえた時には、二人とも幸せを噛み締めたものだ。
同棲していた家から新しく家庭を築くための新居を決め、そこに引っ越し、新たな生活を夢見ながらの日々もまた幸せなものだった。
いつかはここに新たな家族を迎え入れようと、将来の展望を描きながら過ごす毎日は、郁美も亮太の心を満たし続けてくれた。
そして……二人が関係を婚約者から夫婦に、家族に進めるための儀式であり、幸せの絶頂を味わう場でもある結婚式の準備の際には、それこそ幸せで胸がはちきれてしまうのではないかと思ったものだ。
招待客を集める会場、引き出物、プログラム、ケーキ、etc.
そして何より大事な郁美のウエディングドレス姿を見た亮太は、感極まって涙を流すと共に彼女にこう告げる。
「綺麗だよ、郁美、世界で一番、誰よりも……君は綺麗だ」
幸せだった。何にも代えがたい日々だった。そんな毎日が、ずっと続くのだと信じていた。
初めてのウエディングドレスの試着を終えたその日、亮太が運転する車に乗って彼と会話する郁美は、幸せの絶頂に登り詰めた笑顔を浮かべていた。
「必ず、君を幸せにするよ。死がふたりを分かつまで……君のことを、愛し続ける」
「私もよ、亮太……」
笑顔と、甘さと、幸せに満ちた空間。
それが壊れるのは、正に一瞬のことだった。
郁美も亮太も、何が起きたのかわからなかっただろう。
轟音が響き、何かの衝撃に体を叩かれた次の瞬間には、天地が逆転していたのだから。
痛みも、苦しみも、全くなかった。
ただ、頭から流れる大量の血と、目の前でぐったりとしている亮太の姿を見た時、彼女は自分が幸福の絶頂から絶望のどん底にまで叩き落されたことを理解する。
「りょう、た……りょぅ、だ……」
愛しい人の名前を呼ぶ声も、段々と小さくなる。
代わりに口からは血が飛び出し、彼女の体を真紅に染めていった。
どうしてこうなったのだろう? 何故、このタイミングなのだろうか?
自分は彼と、愛しい人と、幸せを掴もうとしていたところだったのに、なんで……? と、困惑している間に、事態は更に絶望的な方向へと進んでいく。
車からあふれたオイルが何かの弾みで引火し、二人の周囲を炎が取り囲み始めたのだ。
体は動かない。恋人も気を失ったか、既に命を落としている。もう郁美には、どうしようもなかった。
どうしてだろう? 何故だろう? こんな、こんな唐突に終わりが来るだなんて、信じられない。
自分たちの幸せが、こんなところで終わっていいはずがない。
これからなのだ、自分たちの人生は。諦められるわけがないではないか。
死がふたりを分かつまで、ではない。死すらもふたりを引き離すことなどできはしない。
生きるのだ、自分たちは。そして、永久の幸福を手にするのだ、と――そう、郁美が思った瞬間、絶望的な奇跡が起きる。
郁美と亮太、二人の指に嵌められていた結婚指輪から噴き出した黒い影が彼女らを包むと、その肉体の中へと入り込んでいった。
自分の中に、自分ではない何かが入り込むと共に自身の存在が塗り替えられていくことを感じながらも、郁美は愛する亮太へと手を伸ばす。
「亮太……! 私たちは、ずっと、一緒に……!」
その言葉が最後まで紡がれるよりも早く、彼女たちが乗っている車が爆発に包まれた。
燃え盛る炎の中、ゆっくりと立ち上がった郁美と亮太が無表情のまま見つめ合い、唇を重ね合わせる。
自分ではない何かに生まれ変わったとしても、この愛は消えない。
死すらも引き離すことができなかった自分たちの愛を証明するかのように熱い抱擁と口付けを交わした二人の瞳は、これまでの幸福に満ちた美しい輝きを失い、黒く濁りきっていた。
「――み、郁美!」
「あ、ああ、亮太……!」
そうやって、過去の追想を終えた郁美が、いつもと変わらぬ笑みを浮かべる亮太に呼ばれて背後へと振り向く。
彼女と隣り合っていた仁もまた、親し気な二人の様子を見て彼女たちの関係を察したのか、丁寧にお辞儀をして感謝の言葉を述べると、この場を離れていった。
「アドバイス、ありがとうございました。僕はこれで失礼します」
「ええ……彼女さんへのアタック、頑張ってね! 大事なのはハートよ、ハート!」
ぐっ、とサムズアップして仁にそう告げる彼女の姿からは、ただの気のいいお姉さんという雰囲気しか感じられない。
見習いとはいえ聖騎士である仁も、そんな彼女の正体に気付くことなく、二人の下から離れていった。
「……なんだか昔を思い出すな。君に告白した時の俺みたいだ」
「ええ……だからこそ、アドバイスしたくなっちゃったのよね……」
優しく笑みを浮かべ、お互いに肩を寄せながら仁の背を見送る郁美と亮太。
その後、店を出た二人はどこからともなく取り出した真っ赤な招待状を手に、不気味な笑みを浮かべる。
「……さあ、今夜も動かないと。なにせ、結婚式はもうすぐ執り行われるんだから……」
「そうね……早く招待客を集めないといけないわよね……」
もうすぐ、夜が来る。彼女たちの時間が訪れようとしている。
幸せの絶頂からどん底にまで叩き落された彼女たちが配ろうとしているものが本当に幸福なのか、それとも自分たちが味わった絶望なのかは、彼女たち自身にはわかっていない。
だが、悲しくつらい出来事が二人を待ち受けていることだけは、間違いようのない事実であった。
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