魔兎

「大丈夫だよ、ママ。パパもきっと、すぐに帰ってくるよ」


「ええ……そうね、そうよね。絶対、帰ってくるわよね……」


 日が沈んだ、人気のない夜の道を歩く親子連れの会話。

 自分を励ます幼い息子の言葉に、母親は浮かべていた暗い表情を弱々しい笑みへと変えて頷く。


 昨晩、どんなに待っても帰ってこなかった夫を心配している彼女だが、息子はそれ以上に不安なはずだ。

 唐突に父が消えてしまった今だからこそ、母親である自分がいたずらに子供の不安を掻き立ててはいけないと、親としての責務を果たすべく自分自身を鼓舞した彼女は、息子に明るい笑みを見せながら元気に言った。


「きっとすぐにパパは帰ってくるわ。そうしたら、今まで何をしてたんだって一緒に叱ってあげましょうね」


 元気になった母親の言葉に、同じく笑みを浮かべながら頷く息子。

 心を支えてくれる我が子の存在に感謝し、この子のためにも頑張らなければと、母親が強く決心した、その時だった。


「こんばんは、いい夜ですね……」


 不意に背後から響いた声に、親子がぎょっとしてそちらへと振り向く。

 そこに立つ、ウサギのぬいぐるみを手にした女性の姿を目にした二人は、彼女から異様な雰囲気を感じて一歩後退った。


「柏木明夫さんの奥さんとお子さん……ですよね? 大変なことになってしまって、可哀想に……」


「あの、どなたですか……?」


「ふふふ……知るわけない、ですよね? でも、旦那さんの方は覚えてくださっていましたよ? ふふふ……!!」


「……主人を知っているんですか? もしかしてあなた、主人がいなくなったことに何か関係があるんじゃ――!?」


 不敵に微笑む女性の意味深な発言に目を見開いた母親が、まさかといった表情を浮かべながら彼女へと詰め寄る。

 必死の形相で自分を問い詰める母親をまじまじと見つめていた女性は、不意に手を伸ばすと、小さく鼻を鳴らしてから口を開いた。


「あの男は私から息子を奪った。私は、その罪を贖わせただけ……そして、あの男の家族であるお前たち二人も同罪よ。罰を、受けなければならないわ……!」


「えっ……? あぐぅっ!?」


 女性の掌から放たれた衝撃波が母親の体を吹き飛ばす。

 石壁にぶつかり、その場に倒れ伏した彼女は、そのまま気を失って動かなくなった。


「ママっ! ママーッ!!」


「……あなたへの罰は、私と同じ苦しみを味わうこと。息子を失った母の苦しみと絶望を、一生背負って生き続けなさい。そして……あなたにも罰を与えないとね?」


「ううっ!?」


 倒れ伏した母親に縋り付き、その体を揺らして名を呼び続ける子供。

 その子を無理矢理に母親から引き剥がした女性が、ウサギのぬいぐるみを見せつけながら言う。


「お父さんとお母さんに愛されて、何一つ不自由なく育って、幸せな人生を歩んで……本当に羨ましい。私の息子は、拓也は、そんな幸せを味わうことすらできなかった。本当の母親から引き離され、父親と後妻に虐待され、私に助けを求めながら死んでいった。……でも、私たちはやり直せる。あの子を蘇らせて、今度こそ幸せに暮らすの。そのために……あなたの命を、あの子にあげてちょうだい」


「あ、あ、あ、うああああっ!?」


 女性が持つウサギのぬいぐるみが、恐ろしい姿へと変貌していく。

 耳は尖り、口は裂け、生え揃った牙が鋭い光を放ち、かわいらしかった風貌が完全に化物のそれへと変化する。

 ぎょろり、ぎょろりと動いた二つの眼が少年を捉え、光った瞬間、独りでに宙に浮かんだぬいぐるみが大きく口を開き、彼へと襲い掛かっていく。


 息子と同じくらいの年の少年、その命を食らうことで、きっと息子も蘇ってくれるはずだ。

 そうでなかったとしたら、また別の子供の命を捧げればいい……と、我が子のために他者を犠牲にすることに対して何の罪悪感も抱かなくなっている女性の耳に、数発の銃声が響く。


「ぐっ!? ああっ!?」


「わ、あっ……!?」


 一発目の弾丸がぬいぐるみの胴体にぶち当たり、少年に襲い掛かろうとしていた怪物の体を後方へと弾き飛ばす。

 二発目、三発目の弾丸をその身に受けた女性が苦し気に呻き、怯んでいる間に、彼女と少年との間に二つの人影が割って入った。


「ギリギリセーフ、だね。なんとか間に合った。こっちの倒れてる女の人の方も命に別状はないよ」


「良かった……! 悪いけど、二人をお願い。彼女の相手は僕がする」


 こくん、と仁の言葉に頷いた花音が取り出した羽ペンで怯えている少年の額を撫でる。

 そうすれば即座に彼の瞳にぼんやりとしたもやがかかり、そのままどさりと音を立てて母親の傍に倒れこんでしまった。


 親子の傍に腰を下ろし、術を使って防御用の結界を張る花音。

 彼女が防備を整えたことを確認した仁が、聖剣を手にしながら悪魔に憑りつかれた女性へと声をかける。


「……もう、やめましょう。こんなことしても、あなたの息子さんは戻ってこない。あなたは騙されているんだ」


「そんなことない! あの子は必ず帰ってくる! 私には聞こえるの。あの子が、拓也が、私に助けを求める声が……! 僕を生き返らせて、ママ……って、あの子は私に言い続けてる。あの子のためなら、私はなんだってするわ! それが、それが……母親の使命だから!!」


 仁の言葉に首を振り、息子の形見であるぬいぐるみを見つめながら女性は言う。

 言葉の端々から感じられる狂気は暴走した母性愛が故のものなのか。血走った眼で仁を睨み叫んだ彼女の前でゆっくりとウサギのぬいぐるみが浮かび上がり、そこから真っ黒な煙が発せられていく。


 暗く、黒く、悪しき波動を感じる煙は息子を想い涙を流す母親を包み込み、狂気へと変わった愛を貫くための力を彼女へと与える。

 命と己の魂を犠牲にして力を得た彼女は、黒煙の中でその姿を人外の怪物へと変貌させ、仁の前に立ちはだかった。


「あなたに私たちの幸せを壊させはしない。私は今度こそ、あの子を幸せにするの。悪魔に魂を売って手に入れた、この力で……!!」


 白く、されど醜い毛皮を纏い、丸太のように太い腕の先に鋭い爪を生やした怪物。

 紅に爛々と輝く両の瞳は彼女の狂気と、泣き腫らした苦しみを湛えているようだ。


 息子の遺品であるウサギのぬいぐるみが巨大化したような、その内側に込められた我が子の絶望と悲哀によって異形の怪物へと成り果てたような、そんな風貌の悪魔へと変貌した女性……いや、ギジボを真っ直ぐに見つめながら、仁が首を振る。

 彼女の言葉を、想いを、否定するように強く剣を握った彼は、静かにこう述べた。


「僕にも、あなたの息子さんの声が聞こえるよ。こんなママの姿は見たくない、誰か止めてあげてって……そう、叫んでる。あなたの息子さんは復讐も蘇りも望んでない! もうこんなことは止めてくれ!!」


「黙れ! 私たちの邪魔をするのなら、容赦はしない! あなたたちの命も拓也に捧げなさい!!」


 絶叫と共に拳を繰り出し、先端に生えた鋭い爪をミサイルのように発射するギジボ。

 もう言葉では彼女を止められないと判断した仁は覚悟を決めると、手にした聖剣で十字を描く。


 燃え盛る蒼い炎が作り上げた炎の十字架はそれに触れたギジボの爪を空中で粉砕すると共に、跳躍した仁へと悲しみを止めるための力を授ける。

 鎧を身に纏い、聖騎士へと転身した彼は、跳躍の勢いのままに繰り出した跳び蹴りでギジボを吹き飛ばすと、唸るようにして言った。


「待っていてくれ、拓也くん。君のお母さんの絶望と狂気は、僕が断ち切ってみせる!」

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