狂愛
ごく普通の狭いアパート、それが仁の抱いた素直な感想だった。
弁護士事務所で手に入れた資料に記載されていた住所に向かった彼と花音は、ギジボに憑依されたと思わしき母親の住処へとやってきた。
鍵開けの術を使って内部に侵入した二人は、適度に整理されているボロアパートの内部を見回した後、慎重にその探索に移る。
居間を抜け、奥にある部屋を隔てている襖を開いた仁は、そこに一歩足を踏み入れると共にはっと息を飲む。
あまり広くはない、六畳程度の和室。
畳が敷き詰められたその部屋には……小さな仏壇と、少年の遺影が飾られていた。
きっとこれが、親権を奪われた上に元夫夫婦に虐待されて亡くなった子供なのだろうと……痛ましいその事件に思いを馳せて苦し気な表情を浮かべる仁に向け、仏壇の調査をしていた花音が言う。
「線香立ての中に灰が積もってる。暫く掃除されてない証拠だね。ってことは、母親はここに帰ってない可能性が高い」
「悪魔に憑依された後、ターゲットを付け狙って街を放浪してるってことか……」
ギジボに憑依された人間がこの母親である可能性を示唆する証拠が見つかってしまったことに、心苦しさを感じる仁。
居間を見た際にも人が生活していた形跡が薄かったことから予想はしていたが、これでほとんど彼女が悪魔に憑りつかれたことが確定してしまったと、そのことを無念に思った、その時だった。
「っっ……!? 聖剣が……!!」
首から下げた十字架が青白く光り輝き始めたことを見て、呟きと共に驚きの表情を浮かべる仁。
花音もまた突然の現象に驚いていたが、すぐに気を取り直すと彼へとこうアドバイスをする。
「仁くん! それ、カルの時みたいに聖剣が何かを伝えたがってるんだよ! あたしも手を貸すから、意識を集中してみて!」
「わ、わかった!!」
ギジボに憑依された母親の目的を探る千載一遇のチャンスに際して、花音に言われるがままに意識を聖剣へと集中させていく仁。
花音もまた仁の手を握り、彼の精神を穏やかにするまじないを呟きながらその手助けをする中、聖剣が放つ青白い光が大きく弾け、その光が消え去った後に室内に映し出された光景を目の当たりにした二人が驚愕の表情を浮かべる。
「………」
自分たちの目の前、六畳一間の和室の中。その中央に座り、アルバムを捲る女性の姿が不意に出現した。
半透明の彼女はまるで幽霊のようで、その姿を目にした仁と花音は、これが聖剣が見せている幻のようなものであることを瞬時に理解する。
無言のまま、一ページ、また一ページとアルバムを捲り、そこに貼られた少年の写真を無表情で見つめる女性。
ベビーベッドですやすやと寝息を立てる赤子、二本の足で立ち、よちよちと歩く幼児、幼稚園の制服に身を包み、こちらへと手を振りながら笑顔を浮かべる少年。
自分自身がお腹を痛めて産んだ子の成長の軌跡を眺めていた彼女は、唐突に訪れた白紙のアルバムのページを目にするとその動きを止め、ぶるぶると肩を震わせ始めた。
「うっ、うっ、ううっ、うううううう……!!」
後悔と哀しみ、その感情が色濃くにじみ出ている嗚咽を漏らす彼女の両腕には、ウサギのぬいぐるみが抱かれている。
よく見れば、アルバムの最後のページには誕生日プレゼントとしてそれを送られた少年の写真が貼り付けられており、それが彼の遺品であることを理解した仁の目の前で、母親が写真の中の我が子へと謝罪の言葉を口にし始めた。
「ごめん、ごめんね、拓也……! ママがもっと強かったら、あの男にあなたを奪われていなかったら、こんなことにはならなかったよね……! あなたを守れない弱い母親でごめんなさい、拓也……!!」
数年前、夫の浮気から始まった離婚騒動の結果、理不尽に親権を奪われた彼女はそれでも息子のことを想い続けていた。
母親として息子の健やかな成長を、幸せな人生を送ってほしいと祈り続けていた彼女であったが……それは最悪の形で裏切られることとなる。
元夫夫婦による息子の虐待とそれによる我が子の死。
それを知らされた時、彼女は何を思ったのだろう?
最愛の息子が命を落としたことを悲しんだのだろうか? それとも、息子を殺した元夫夫婦に憎しみを抱いた?
……おそらく、そのどちらでもない。今、こうして彼女の姿を目の当たりにしている仁は思う。
彼女が抱いた感情の名は絶望、愛する息子を守れなかった自分自身の弱さに対する深く暗い想いなのだろう、と。
「許せない……! あなたを殺しておきながら、のうのうと生き続けているあの二人が。あなたの命を奪っておきながら、それをなんとも思っていないあいつらが、憎い……!! 力さえあれば、あなたを守れた。私が強ければ、あの男たちに復讐ができた。でも、私は……!!」
離婚の際、金や権力さえあれば息子を奪われずに済んだ。
そうすれば、虐待なんか受けずに今も彼は健やかに成長を続けてくれていたはずだ。
昔も、今もそう。自分には息子を守るための力がない。その仇を討つ力すらない。
息子のために何もしてあげられない弱い母親である自分への失望は絶望へと変わり、彼女の心を真っ黒へと塗り潰していく。
「ごめんね、拓也。弱いママで本当にごめんね。あなたを守ることも、仇を取ることもできない弱い人間で、本当にごめんなさい……!」
絶望の慟哭が部屋の中に響く。
憤怒、憎悪、悲哀、絶望……それら全ての感情によって淀む涙が、息子の遺品であるウサギのぬいぐるみへと静かに落ちる。
その瞬間、黒いオーラを纏ったぬいぐるみから汚泥のような闇が弾け、息子を失った母親の負の感情に呼び寄せられた悪魔が彼女へと囁きを発した。
『泣くな……泣いていても何も変わらない。お前は、そうやって涙を流すだけで満足なのか?』
「えっ……?」
部屋の中に響き渡る、この世のものとは思えない恐ろしい声。
その声を耳にして顔を上げた母親は、自分の目の前に立つ人物の姿を見て、驚愕に目を見開く。
「た、拓、也……? 拓也なの……!?」
『ママ……!!』
死んだはずの息子の姿が、そこにはあった。
写真の中の姿と全く変わらない笑顔を見せ、自分に向けて手を伸ばす我が子を震える腕で抱き寄せようとした母であったが、息子の体に触れようとしてもその体は自分の手を擦り抜けるばかりで、抱き締めることはおろか手を掴むことすらできずにいる。
『今のその子は魂だけの存在。このままでは触れることはできない。だが……他の人間の魂を捧げれば、肉体を得て現世に蘇ることができる』
「拓也が生き返る……!? 本当、ですか……? なら、ならっ! 私の魂を――」
『おいおい、何を馬鹿なことを言うんだ? お前の命と引き換えにこの子を生き返らせたとして、子供一人でどうやってこの先、生きていく? お前はまた、この子を孤独にするつもりか? お前が命を捧げなくとも……別の誰かの魂を使えばいいだけの話だろう? うってつけの人間は、山ほどいるじゃあないか』
「っっ……!?」
それは文字通り、悪魔の囁きだった。
最も大切に想う者の復活を引き換えに、多くの人間の命を求めるギジボは、目を見開き体をわなわなと震わせる母親の邪心を唆すために囁き続ける。
『お前から愛する子供を奪い、無残にその命を奪った連中とその手助けをした奴ら、そいつらの命を息子を蘇らせるために使えばいい。お前の苦しみと憎しみを奴らに味わわせ、復讐を果たしながら息子を蘇らせられるんだ、一石二鳥だろう? 案ずるな、そのための力は私が授けてやる。私を受け入れろ。そうすれば、お前の望みは全て叶うんだ……!!』
「あいつらを、殺す……? 拓也を蘇らせるために、あいつらの命を……!?」
『何を迷う必要がある? 息子を蘇らせたくないのか? あいつらに復讐したくないのか? これはお前が望んだ、強い母親になるためのチャンスなんだぞ? お前が望みさえすれば、お前は強くなれる。お前と息子を傷付ける敵を排除し、子供の幸せを守れるだけの力が手に入るんだ。取り戻したくないのか? お前と、その子の、明るい未来を……!!』
「……だめだ。頷いちゃだめだ。受け入れちゃだめだ!!」
それが幻であろうと、既に起きた過去の出来事であろうと、仁はそう叫ばざるを得なかった。
深く、美しく、温かな息子への愛。母親が持つそれを利用し、醜い淀みに変えようとする悪魔の囁き乗ってはいけないと、そう訴えかける仁の前で……幻影の彼女が言う。
「……受け入れます、あなたを。あいつらを殺して、拓也を蘇らせて、今度こそ、私たちは――!!」
『ク、ククククク……! よくぞ決断した、愛に狂いし者よ。我が力を受け取り、その願いを果たすがよい! フハハハハハハハ……!!』
「あがっ!? が、ぐぐぐぐぐぐ……!!」
悪魔の高笑いと共に、ウサギのぬいぐるみから発せられた黒い霧が母親の体内へと注ぎ込まれていく。
口から、目から、悪魔の力を受け取った彼女は苦し気な呻きを上げ続け、その場でガクリと肩を落とした後……再び顔を上げ、決意を伺わせる表情を浮かべた後、凶悪な笑みを口元に滲ませ、そして――!
――――――――――
「……これが、事件の真相。母親は復讐だけじゃなくて、死んだ息子を生き返らせようとしていたんだね」
過去の出来事の再生が終わり、再び聖剣が発した光に包まれて幻影たちが消え去った部屋の中、花音が沈鬱な声で呟く。
拳を握り締め、やり切れない表情を浮かべていた仁は、震える声で彼女へとこう尋ねた。
「……本当に、あの子は生き返るのか? 他人の命を犠牲にすれば、死んだあの子は蘇るの?」
「……ううん、そんなことはあり得ないよ。一度死んだ人間を蘇らせるだなんて、悪魔でも無理。彼女は……ギジボに利用されてるだけだよ」
悲しそうに仁へとそう告げた花音が仏壇に置いてある拓也の遺影を手に取る。
そこに写っている無垢な笑顔を見つめながら、小さく左右に首を振った彼女は、仁へとギジボの特性について話をしていった。
「あの映像を見た限り、ギジボは半寄生型の悪魔だと思う。自身の魂の半分を憑依した人間に、もう半分を触媒となったものに宿らせるタイプの悪魔。このタイプの最大の特徴は、探知がしにくいことと人と触媒の両方を斬らないと完全に討滅できないってところにあるんだ」
「人とものに半分ずつ憑依して、自分はのんびり餌を持ってきてもらうのを待つから半寄生型ってことか。厄介な上に狡猾な奴だね」
「うん。……それともう一つ、ギジボは憑依した母親の息子……拓也くんの魂を捕えて、利用してる。母親のことが心配で成仏できなかった拓也くんの魂を触媒になったぬいぐるみの中に捕えて、母親を動かす餌にしてるんだよ。成仏できず、悪魔の術で現世に無理矢理封じ込められている拓也くんは、今、もがき苦しんでいると思う。早く助けてあげなくちゃ、彼の魂が限界を迎える前に……」
それは、無残で残酷で、救いのない結末。
息子のためを想って悪魔と契約した母親はその悪魔に利用されているだけでなく、愛している息子を苦しめる道を突き進んでしまっている。
このままでは取り返しのつかないことになり、親子の魂に安寧が訪れることもなくなってしまうだろう。
「……あの二人を救うには、憑りつかれた母親と息子の魂が閉じ込められてる触媒の両方を斬るしかない。拓也くんの魂を天に向かわせるためにも……母親を止めて、この悲しみを断ち切らないと」
「うん。でも、彼女が誰を狙っているかがまだわかってない。息子を殺した元夫夫婦とその親、そして離婚の際に自分と息子が引き離される原因を作った弁護士は既に殺した。じゃあ、次に狙われるのは――」
復讐の対象となる人間は既に殺し尽くした。なら、次にあの母親が狙うのは誰なのだろうか?
息子を生き返らせるために人間の魂を求める母親がここで止まるはずがない。次なる標的を既に決めているであろう彼女が狙う人物が誰であるかを考えに考えた花音は、はっと息を飲むと共にその答えに辿り着く。
「殺された柏木弁護士には、拓也くんと同じくらいの息子さんがいる……! もしも彼女が復讐を望み続けているのなら、柏木弁護士の奥さんにも自分と同じ苦しみを味わわせるためにその子を狙うはずだよ!」
「ああ。……止めよう、彼女を。そして救おう、拓也くんを……いや、二人の魂を……!!」
息子を守れない自分自身の弱さに絶望し、その心の闇と我が子への愛を利用されて悪魔に憑依された母親。
悪魔に捕らえられ、母親を動かすための駒として利用され、その母親が怪物となって人間を襲う姿を見続けている息子。
仁にはもう、二人の命を救うことはできない。
だが、その魂を救うことはできるはずだ。
もうじき、夜がくる。悪魔たちが目を覚ます時間が訪れようとしている。
幼い命を奪おうとする母親を止めるべく動き出した二人は、悲しみが渦巻くアパートを飛び出し、悪魔を追って夕暮れの街を疾走していくのであった。
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