第23話 毒と抱擁
その後。ランチタイムが終わり、客がいなくなった店内。エステルはルシアンから壁際に追い詰められていた。
「……ええと、あの……?」
準備中だとわかるように少し照明が落とされた店内、気だるげな雰囲気ながらも真剣に聞いてくるルシアンから漂う香水の苦い香り。グリーンの芳香を急に鮮やかに感じて、エステルは唇がうまく動かなかった。
ホールの端っこで壁を背にしたエステルには逃げ場がない。なぜか、ルシアンはそんなエステルの表情に気がつかないほど焦っている様子だった。彼の右手がエステルの左耳の近くに置かれている。
ルシアンの長い腕の分、距離は空けてくれているはずなのに、青を含んだ淡いグレーの瞳に視線が絡め取られて息が詰まった。
「さっきのは何?」
「い……妹のアイヴィーです。ご存じのとおりこの国の聖女です」
「それは知ってる。どうしてここに来た?」
「ええと……」
(まさか、ルシアン殿下を強請りに来たなんて言えない……)
言ってもいいのだが、さっきの闇魔法がまた展開される可能性があった。百歩譲って、この国の聖女が消されるかもしれないことはまぁいい。しかし、エステルの安寧の地であるこのカフェのご近所さんたちが被害を被るのだけは勘弁してほしかった。
「……妹はルシアン殿下をお慕いしているようで」
「へえ?」
「私ではなくルシアン殿下に会いに来たみたいです……」
なんとか答えると、ルシアンは目を眇めて口の端を歪ませた。やっとエステルから視線を逸らし、壁についていた腕を外してさらに距離をとってくれる。
「……それが目的だったか。そもそも、シャルリエ伯爵家はどうしていつも妹のほうを優先しているんだ」
「仕方がない気がします。……聖女にはアイヴィーのほうが向いているようですし」
「別に、俺は君を聖女に戻したいなんてこれっぽっちも思っていない。けど、絶対にこんなのおかしいだろう。慈悲深く、実子と養子を平等に育てるということはこういうことではないと思うんだが」
「……」
(そっか。私がずっと持ってきた違和感はそれなんだわ……)
エステルは突然腑に落ちた。
幼い頃、エステルだけが聖女になることが許せなかったらしいアイヴィーが癇癪を起こしたことがある。その時は妹を家族皆で慰め、挙句の果てにアイヴィーにだけ新しいドレスが与えられた。
子どもだったエステルは些細な引っ掛かりを覚えたもののなんとか飲み込んでやり過ごした。けれど、思えばこの人生はその連続だった。
(誰も言わないし気がつかなかったことをルシアン殿下はこんなに簡単にお気づきになる……)
ショックなことに変わりはないけれど、それとともに不思議な感情が湧き上がっていく。エステルが、こんなにきちんと自分を見てくれると思える人に出会ったのは初めてだった。
――瞬きひとつ、自分の頬を涙が伝い落ちたのがわかった。
「あれ……」
エステルは慌てて涙を拭う。けれど、またひとつふたつと涙が溢れる。
エステルは自分の立場をあまり気にしたことはなかった。けれどこうして目前に突きつけられると、どうしようもなく心が乱される。行き場のない黒い感情と痛みが渦巻いて、何か言わなければと思っても言葉にならない。
(感傷的に泣いている場合じゃなかった。早く空気を変えなきゃ……!)
けれど不意に温もりに包まれる。
一体自分の身に何が起きたのだ、とエステルは目を瞬く。さっきまで少し離れた場所にあったはずの、ルシアンのほろ苦い香りが濃くなった。
エステルの目の前にはルシアンの胸があって、彼の腕はエステルの後頭部に回されていた。優しく抱きしめられるような体勢に、声が出ない。
「……!?!?」
「俺は今嘘がつけない。好きな子が泣いているのに、慰めることすらできないなんて何の拷問だ」
「……! いえ、あのこれは慰めではないのですか!?!?」
「本当は指で涙を拭いたい」
「あの、この姿勢よりはできればそちらで」
涙を拭ってくれるほうがましな気もする。このままではルシアンの鼓動が伝わってきて、エステルの心臓にも良くない。
「……それなら……」
エステルの言葉に、後頭部に回っていたルシアンの手が離れる。緊張から解放される、と顔を上げると、涙を拭おうとしたルシアンとしっかり目が合った。その途端、涙を拭うためエステルの頬に伸びていた彼の指が弾かれたように離れる。
「……!?」
「やっぱり無理」
「そ、そうですか」
別に涙は自分でも拭ける。それならば、とエステルは壁伝いに横にずれてルシアンから少しの距離を取る。失礼なのはわかっているが、ドキドキしすぎて息ができないから仕方がない。そんなエステルの耳に驚愕の言葉が届く。
「自制心で行けると思ったが無理だった。今、頬に触れたら……っつ」
ルシアンはその先を言い淀む。当然、みるみるうちに顔色が紫色へと変わっていく。
「あの!? ルシアン殿下、顔色が紫色に……」
「ああこの呪い本当に何とかならないのか!?」
こちらとしても今ほどに何とかして欲しいと思ったことはなかった。
(今のは、ハグ……。慰めのハグ……。そして私は何も見ていないし聞いていない……聞いた……聞いていない……)
心の中で呪文のように繰り返しつつ、エステルは思う。
(前にも感じたことだけれど、ルシアン殿下は私をいつ好きになったの。出会った時から、って……。私たちの出会いはただのお見合いだったはずなのに)
エステルとルシアンを見守っていたクロードがカウンターの上でひとつ伸びをして声をかけてくる。
「……そろそろ、お腹すいたにゃ」
「……クロード……」
呆れたように応じたルシアンに、クロードはツンと言い放つ。
「お前たちのそういうシーン、見たくない」
「……」
失礼すぎる使い魔である。けれど、エステルにとっても今日はありがたかった。
ということで、三人は少し遅めのお昼にすることにした。
取り分けておいたサーモンとほうれん草のキッシュとマッシュルームのサラダを一つのお皿に載せて出すと、ルシアンは子どものように目を輝かせた。
「まず、おいしい」
「ルシアン殿下、まだ食べていません……」
「悪い、盛り付けだけで幸せすぎた」
「……」
こういう本音なら問題なく聞ける。しかし、さっきのようなのは勘弁してほしいところだ。
(あまり真剣に言われると、私も聞き流せなくて本当に困ります……!)
思い出すだけで顔が熱くなってくる。けれど、エステルの胸中を慮ることなくルシアンはキッシュにフォークを入れ、口に運ぶ。
「毎日食べたい」
「それはよかったです」
「サーモンの塩気とマイルドなパイ生地の相性がいい」
「丁寧な感想、参考になります」
「あの妹を消してもいいか?」
「どうしてそんなことになるのですか……」
意味がわからない。しかし、正直なところざっくりとエステルも同じ意見である。
(私も、アイヴィーには消えてほしい……とまではさすがに言わないけれど、殺されるのは嫌。危害を与えてくる距離にいてほしくないわ……)
「おい、闇聖女」
「……」
エステルは応じなかったが、黒猫の姿のクロードが気にせずに告げてくる。まだキッシュにも飲み物にも手をつけていないらしい。
「この紅茶、すげえ色だぞ。闇聖女の毒薬と呼ぶのにふさわしい色」
「えっ?」
クロードが覗き込んでいるのは、さっきアイヴィーのために淹れた紅茶の残りだった。アイヴィーが長く滞在したおかげで、ランチタイムは思いのほか忙しくなってしまった。
そのせいでティーポットが放置されたままだったのだが、どうやら中身がひどいことになっているらしい。
「本当だわ。アイヴィーに早く帰ってほしくてぐちゃぐちゃな感情のまま紅茶を淹れたから……。時間も経ちすぎたし、これはひどいわ」
ルシアンを強請ることに夢中だったアイヴィーは紅茶に口をつけることはなかったが、もし飲んでいたとしたらまずいまずいと大騒ぎになっていただろう。
片付けようとポットに手をかけると、クロードが縁についていた紅茶を舐める。その瞬間、黒い毛がぞわわわっと逆立った。
「にゃんだこの紅茶!? 本当に毒だろ」
「毒!? そんなにおいしくなかった!?」
味見のため、エステルは慌ててカップに残りの紅茶を注ぐ。すると、完全に緩み切った表情でキッシュを食べていたはずのルシアンが急に真剣な顔をしてスッとそのカップを持っていく。
「かして」
「いえ、あのそれは色からして本当に……」
エステルの言葉を無視し、ルシアンはカップに口をつけわずかに傾ける。そして、厳しい表情で告げてくる。
「……これ、エステルは絶対に飲んじゃだめだ」
「え?」
「……これは、毒だ」
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