第9話 新生活はじめます

 それから数週間後。エステルは王都の外れにある、白いレンガが眩しい建物の中で包丁を握っていた。


 別に実家に復讐するためではない。お気に入りの“ケークサレ”を作るためである。


 カウンターの向こうにはルシアンがいて、物珍しそうにエステルを見守っている。


「菓子とはそうやって作るものなんだな」

「はい。もし自由になったらカフェをやってみたいなって思っていたんです」

「……知らなかった」


 素直に答えるルシアンは、完全にプライベートのようだ。先日、エステルの両親の前で見せていた鋭い視線はかけらほども残っていない。


 先日のシャルリエ伯爵家での話し合い。ルシアンの口添えがあったおかげで、エステルは家を出ることに成功した。


 急に縁を切りたいと言い出したことに父親は青い顔をし、母親は泣いていた。エステルもさすがに心にくるものがあったけれど、何とか押し切った。


(だって、このままでは私の居場所は確実になくなって、一年後にはアイヴィーに殺されるんだもの……うん無理)


 一度死んだ身からすると、命より大切なものはない。


 かわいらしい印象のこの家は、エステルがシャルリエ伯爵家を出るにあたって生活費代わりにもらったものだ。もちろん、両親は金銭的な支援を申し出てくれた。けれど定期的な接触があることすら怖い。


 いろいろと考えた末に、エステルは生活の拠点となる家を買ってもらったのだった。暮らす場所さえあれば何とでもなる。


 ちなみに、完全に蚊帳の外になってしまったアイヴィーは見事に頬を膨らませていた。ルシアンに凄まれたのに、全く凹まないメンタルの強さはさすがである。


 エステルはといえば、かつては“眉目秀麗であらゆることに完璧かつクール”という薄っぺらい印象しかなかったルシアンに好感を持ちはじめていた。少なくとも、エステルのことを考えてくれる彼は両親よりもずっと信用できる気がする。


「……ルシアン殿下とこんな風にお話しする日が来るなんて思ってもみませんでした」


 カウンターの向こうにいるルシアンに告げると、彼は息を吐いた。


「こうなる前に、もっと早く一歩踏み出すべきだったな」

「……も、“もっと早く”」

「いや、何でもない……、」


 言った側からルシアンの顔色が悪くなる。何でもなくはないらしい。けれど、エステルはこんな彼の姿にも慣れてきた。人間の適応力とはおそろしいものである。


(ルシアン殿下は毎日様子を見にきてくださるけれど……調子が狂ってしまう……)


 耳まで赤く染まったエステルは無心で野菜を刻む。こんがりと焼かれたベーコンの入ったフライパンに加えて、じゅうじゅうと焼いていく。


 これは、家を出るときにシェフにもらったレシピを使ったケークサレだ。子どもの頃はよく作っていたけれど、数年前、聖女として神殿に通うようになってからは作った記憶がない。だから、わざわざレシピを書き起こしてもらったのだ。


 エステルは伯爵令嬢だけれど、お菓子作りが好きだった。子どもの頃から暇を見つけては厨房に入り浸り、シェフに料理を教えてもらった。


「ケークサレか。な」

「お好きなのですね? もしよかったら、召し上がって行ってください。味の保証はできませんけれど」


「エステルが作るものなら、俺にとっては何でもおいしいだろうな。ここがカフェとして開店したら、他の客が君の手料理を食べるのかと思うと心の底から腹立たしい」

「……!? あの!?!?」

「そうだ結界でも張るか」

「けっかい」


 またはじまってしまった。しかも名前を呼び捨てである。急に顔を赤くして黙りこくったエステルに、ルシアンも我に返ったらしい。口を押さえて目を閉じ息を吐く。


「……悪い。本当に困らせる気はなくて」

「わ、わかっています」


 しかし、まずは闇属性の結界だけは勘弁してほしい。まごうことなき営業妨害である。


 なるべく平静を装いたいエステルだったが、どう考えても無理だった。卵をボウルに割り入れたものの、動揺して殻が入ってしまった。慌ててスプーンで掬い取ろうとするけれど、わずかな呼吸の乱れさえルシアンに見られているようで手が震えてしまう。


 ――エステルを“好きすぎる”ルシアンの奇行はいまだに続いていた。


 いつだって気を抜くと本音が滑り出てしまうようだ。口を閉ざせばいいのかもしれないが、それを続けているとそれはそれで次第に顔色が紫になるらしい。


(理解はしているけれど……ドキドキする……)


 シャルリエ伯爵家を出ることが決まった瞬間、エステルはルシアンに婚約の解消を申し入れた。当然、ルシアンは絶望的な表情を浮かべ即座に「嫌だ」と答えた。


 ということで、二人の婚約解消は棚上げ事案になっていた。話し合いは永遠に平行線である。


 生地を焼き型に流し入れ、予熱してあった魔法オーブンに入れる。そこで、エステルはお決まりの歌を小声で口ずさむ。


 それは光属性魔法持ちの家として歴史あるシャルリエ伯爵家の厨房に伝わるおまじないのようなもの。もちろん効果などありはしない。子どもが親しむ数え歌と似たようなものだ。


 けれど、エステルの歌を聞いたルシアンは青みがかったグレーの瞳を見開いた。


「……その歌。闇属性魔法の呪文をベースにしているな」

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