第8話 喜んで出ていきます
「お言葉ですが、ルシアン殿下。殿下と婚姻を結ぶのは聖女だと思っております」
「エステル嬢は聖女ではないというのか」
「いえ、その」
両親が視線で意味深なやりとりをするのを見て、エステルはため息を吐く。
(お父様もお母様もお優しいけれど、こういうときにきちんとした返しができる方だったらあんなことにはならなかったと思うのよね……)
つい明け方見たばかりの絶望はまだまだ鮮明でリアルすぎる。くらりとしたところで何かに肩を支えられた。あれ、と思うと、ルシアンの手が添えられていた。
「も、申し訳ございません、ルシアン殿下」
「気にしなくていい。……大丈夫か?」
「はい……」
(ええと……こんな風に触れられたのは……初めてでは……?)
彼は、シャルリエ伯爵家の面々とエステルとで見事に顔を使い分けている。それを見ていた父親も全く同じことを思ったらしい。
「……エステルと殿下はこんなに親密な関係だったのですね」
「そんなもの、だ……」
問いに応じようとしたルシアンの声色はどこかおかしい。俯いていたエステルが隣に視線を移すと、顔色が紫になりかけていた。
(……あっ……これは私に関して嘘をついていらっしゃる)
確かにどう考えても二人は親密ではなかった。察したエステルは慌てて助け舟を出す。
「あの、私たち、こう見えてもとても仲良くさせていただいているのよ。今回のお話も私が殿下に相談したの。そろそろ自立したいから家を出る助けになってほしいと」
「エステル、何を言っているんだ。お前にはここで何一つ不自由のない人生を準備してやる」
「だって、聖女にはアイヴィーがなるのでしょう? そうなら、私はこの家にいても意味がないわ」
これからの話題を先読みしてきっぱりと言い放つと、空気が凍りついたのがわかった。やはり、予定通り聖女の交代はすぐに告げられる予定のようだ。
しまった喋りすぎた、と思ったけれどよく考えてみるとそうでもない気がする。
父親が言う“何一つ不自由のない人生”とはアイヴィーの陰に隠れて生き、そして最後にはアイヴィーが手配したらしい賊に殺されることなのだから。
「お姉様、ひどい……」
凍りついた空気をさらにどん底に落としたのは、案の定アイヴィーだった。
「そんな言い方……まるで、私がいるせいで出ていくって言っているみたい……。それじゃあ、私は邪魔者ってこと……? やっぱり、森の中で拾われた子どもだから……」
「アイヴィー……」
母親は、丸くて大きなミントグリーンの瞳に涙を溜めて肩を震わせるアイヴィーと冷静なエステルを交互に見る。それから、自然にアイヴィーの肩を抱いた。
それを見て、エステルの胸にはちくりとした痛みが走る。
(……アイヴィーは我が家の一員だもの。もし私とアイヴィーが喧嘩をして、私がああやって泣いたとしてもお母様は私の肩を抱いてくださるはず……)
けれど、実際にはそんな記憶はない。エステルはあまり泣くことがなかった。泣いてる暇があったら答えを見つけたいタイプのエステルは、ポジティブと言えば聞こえはいいがあまりかわいくない存在だったのかもしれない。
だからこそ、今朝死に戻っていることに気がついた時もすぐに「逃げよう」と思えたのだけれど。
(それにしても、アイヴィーは一年後に私を殺そうとするのに……。お母様はそれを知らないから仕方がないけれど……でもここで庇うってある?)
エステルの視点からすると酷すぎて泣きたくなる話だった。何ともいえない感情に支配されそうになったところで、ルシアンの怒気をはらんだ声が響く。
「――馬鹿馬鹿しい。当然だろう? こんな風に養子が偉そうに振る舞っている家、クソだな。俺でも出て行くに決まっている」
(……ええと? “クソ”?)
王子殿下らしくない言葉遣いに皆が固まっている。完璧な貴公子然としたルシアンから発せられた言葉は、想像以上に破壊力がありすぎた。侮辱されたアイヴィーでさえ泣きの演技を忘れているようだ。
けれどルシアンは気にせずに続ける。
「こんな家にいたら、エステル嬢は不幸になる。彼女のためだと思ってしていることが全部裏目に出ることがわからないのか」
「そ……それは」
答えに窮した父親を放っておいて、ルシアンはエステルに向き直った。
「とはいえ、俺も君のためだと思ってしていることが自由を奪う可能性があることも怖い」
(ええ、その通りです……)
エステルは素直に頷く。もし仮にここでうっかり縁談を進めるなんて話になってしまったら一大事である。知らない未来すぎて怖かった。
(私が辺境の地に向かうことになったきっかけは、アイヴィーが“お姉様が家にいると聖女としての仕事に集中できない”と言い出したからなのよね。つまり、私がシャルリエ伯爵家を出て完全に縁を切ったら、アイヴィーは私を殺そうとしないのではないかしら)
ということは。
「私はこの家を出たいです。聖女にはアイヴィーがなるべきだし、もしいつか私が邪魔になってこの家を追い出すぐらいなら、承諾してください」
「……邪魔なんて……そんな」
アイヴィーの肩を抱いたまま、絶望したらしい母親の声がサロンに響いた。
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