第4話 脱走一歩めで捕まったようです

 身支度を整えたエステルは大切なものだけをバッグに詰める。


(よりによって、どうして今日が5月の1日なの……!)


 はっきりと覚えている。一年前のこの日、神殿から帰ったエステルは両親に“聖女の交代”を打診された。今代の聖女がシャルリエ伯爵家から輩出されると決まっている以上、両親の判断は絶対である。


 それはそれで仕方がない。エステルは『顔だけ聖女』と呼ばれることに随分と慣れていたし、聖女でなければ就いてみたい、憧れの職業もあった。


 けれど、聖女の交代を言い渡される瞬間に二度立ち会うのは正直勘弁してほしい。両親の申し訳なさそうな顔も、アイヴィーの得意げな顔も、どちらも見たくない。


 準備を終えたエステルは、部屋のテーブルに置いてあったケークサレをぱくりとつまむ。


「……おいしい……」


 シャルリエ伯爵家のシェフが作るケークサレはエステルの大好物だった。野菜がたっぷり入っていて優しい味がする。お菓子作りが好きなエステルは、厨房に入り浸ってこのケークサレを一緒に焼くこともあった。


 久しぶりの味が染み渡って、さっき残酷な未来を見てきたばかりの心が解けていく。


 ちなみに、淑女教育は身についている。けれど今は家出目前で時間との戦いなのだ。多少のはしたなさも今だけは多めに見てほしい。


「アイヴィーのシャルリエ伯爵家での発言権が強くなったのは、聖女の地位についてからだわ。そうなる前に一刻も早く逃げ出さなきゃ!」


 もぐもぐと口を動かし、この家では最後になるであろう食事を終えたエステルは立ち上がって扉のところまで行った。


(それに、アイヴィーは私を殺したいぐらい憎んでいたってことよね。訳がわからなすぎるわ……)


 本当に解せないところである。数々の嫌味は聞き流した覚えがあるが、そこまで恨まれるようなものだったのか。いや、むしろこちらが文句を言いたいところである。


 そんなことを考えながら外開きの扉に手をかけ、ぐっと押した……つもりが開かなかった。


「……!?」


 これはどういうことだ。押しても押しても開かない。体で押してみても、ドンドンと叩いても、びくともしない。


「な、なにこれ……?」


 困惑するエステルに、扉の向こうから聞こえてきたのは、侍女の申し訳なさそうな声だった。


「あのぅ……エステル様。大変申し上げにくいのですが、お客様がいらっしゃっていまして」

「でしたら、すぐに準備するのでまずはここを開けていただけるかしら」

「いえそれはできません!」

「……!?」


 来客と扉が開かないことがどう関係あるのか心底教えてほしい。


 それに、普段神殿に行くはずの日に来客が案内されるなどあり得ないことだ。つまり、聖女としての任務があっても通さざるを得ない相手が来たということだろう。


(私にそんなお客様……いたかしら?)


 一瞬、脱走の途中だということを忘れて首を傾げると、侍女が恐る恐る聞いてくる。


「……エステル様、お支度は済んでいらっしゃいますか?」

「ええ」

「本当の本当ですね?」

「ええ」


 応じて数秒の後、固く閉ざされていた扉が開く。


 そこに見えたのはいつもの侍女の柔らかな栗色の髪ではなく、この国では一際目立つ黒髪と青みがかったグレーの瞳だった。


 身長差の関係でエステルを見下ろす彼の顔立ちは恐ろしく整っている。けれど、少しだけ髪型を乱れさせ表情にも焦りを浮かべた彼は、いつもとどこか違う気がする。


 エステルが知っている彼はいつも冷徹な目をし冷めた雰囲気を漂わせていた。しかし、目の前の男の状態を表すなら、まさに『取るものも取り敢えず駆けつけた』が正しいのだろう。


 脱走目前のエステルを訪ねてきたのは、ルシアン・クラルティ。


 この国――オリオール王国の第二王子であり公爵位を持つ彼はエステルより二歳年上の二十歳。そして、エステルとは年に数回顔を合わせる程度の婚約者である。


 呆気に取られてつい後退りをしてしまったエステルに、ルシアンは安堵の表情を浮かべ思わぬ言葉を告げてくる。


「……無事でよかった」

「……え?」


 これまでに見たことのない感情的な表現に、エステルは驚きで目を瞬いた。


(一体どういうことなの……?)


 本当なら、挨拶や貴族らしいやりとりは置いておいて詳しい事情を聞きたかったが、それができる相手ではない。


 とにかく、破滅の未来から逃げ出す予定だったはずのエステルは、屋敷を一歩も出ないうちに婚約者に捕まってしまったようである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る