第3話 とにかく逃げたい

 それから数年後。


 17歳になったエステルは馬車に乗り、辺境の地にある修道院へと向かっていた。


 外はひどい雨と雷。しかも夜である。こんな天候の中を馬車で移動するなんて、一般的な貴族令嬢からしてみれば正直信じられないことだった。


(けれど、アイヴィーが今日行くように言ったのだもの。シャルリエ伯爵家では私よりもアイヴィーの意見が優先されるものね。無事に辿り着けるか心配だけれど、仕方がないわ……)


 馬車の窓にかかるカーテンを閉じたエステルはため息をつく。いつもはポジティブなエステルだが、今日ばかりは嫌な感じがして落ち着かなかった。


 エステルは祈るように体を折り、両腕をぎゅっと抱き締める。昨日短く切り揃えた髪の毛が、襟元にちくちくと刺さる。慣れない感覚にますます不安が増していく。


 その途端、馬のいななきが聞こえて馬車が急停車した。がくん、という衝撃にエステルは馬車の座席から滑り落ちる。


(ええっと……!?)


 一体何があったのだ、と震えるエステルの耳に御者の悲鳴や人々が争う声が聞こえてきた。


(この馬車は……誰かに襲われているの……!?)


 信じたくはないが、予想は当たっているようだった。内側から鍵をかけていた扉を乱暴に開けようとする気配がして、見知らぬ男たちの声が聞こえる。


「エステルは中か!」

「ああ。護衛をこれだけしかつけないなんてな。アイヴィー様の命令は最も簡単に終えられそうだ」


(……待って。まさか、これはアイヴィーの命令なの!?)


 どうやら、この襲撃の狙いは自分でしかも依頼者は妹のアイヴィーらしい。けれど、エステルには震えることしかできない。


 エステルには、聖女として十分な力はおろか、身を守る魔法すらもないのだ。そのためにこうして辺境の地に向かわされることになってしまったのだから。


(私の人生はここで終わり、なの……?)


 馬車の扉が開くのは時間の問題だ。それもあとわずか数秒後のことだろう。扉の隙間から、黒い夜霧が入り込んでくる。まもなく扉が開くことを悟って、エステルはぎゅっと目を閉じた。


 ――それが、エステルの一度目の人生で最後の記憶だった。



 ◇



 目が覚めると、いつもの朝だった。


「――!?!?」


 シャルリエ伯爵家のベッドの上。がばりと体を起こして両頬をペチペチと叩いたエステルは、それ以上動けずにいた。


(……待って? 今のは夢だったの……?)


 それにしても随分とリアルな夢である。ショックから抜け出せずにいると、扉が開いて侍女が顔を出した。


「エステルお嬢様、おはようございます」

「……お、おはよう……」

「今日は神殿にお出かけの予定がございますね。専用の服を用意しております」


(…………)


 何気ない、けれど懐かしい言葉にエステルは首を傾げた。


「……神殿用の服、かしら?」

「はい。クローゼット前にかけてございます」

「……」


 おかしな話である。エステルはもう神殿に赴く必要はないのに。なぜならこの国で聖女といえば義妹のアイヴィーなのだ。


 一年前、エステルは聖女の地位を追われたはずである。


 ずっと、自分を『顔だけ聖女』――外見だけ、名ばかりの聖女だと揶揄する声があることは知っていた。だから、義妹と聖女を交代してほしいと両親に告げられたときは絶望するというよりはホッとしてしまった。


 ものすごく申し訳なさそうな表情をしている両親の手前、喜ぶことはできなかったけれど。


 自分はまだ夢の世界にいるのだろうか。そう思ったエステルは両手で両頬を掴み、ぎゅっと抓ってみる。


(い……痛いわ……)


 奇妙な行動を取るエステルを見て、侍女は不思議そうな顔をしている。そして櫛を取り出して微笑んだ。


「珍しいですね。エステルお嬢様がすっきり目覚められないなんて。あ、先にベッドの上で髪を梳かしてしまいましょうか!」


(ええと)


 修道院へ行くためにエステルは肩上で髪を切った。髪を梳かすのに侍女の手伝いは必要がない。そう思って断ろうとしたものの、ないはずのものが手に触れて固まった。


(私の髪が……ちゃんとある……!?)


「……ねえ。おかしなことを聞いてもいいかしら……」

「はい、何なりと」

「今って、オリオール暦1135年の5月よね?」

「ふふっ。何をおっしゃいますか。今はオリオール暦1134年の5月1日ですわ」


(え……)


 侍女から受け取り損ねた櫛は、エステルの手からシーツを滑り落ちて床にぶつかりカシャンと音を立てる。


 それを拾った侍女は「あら。新しいものと交換してまいりますね」と微笑み部屋を出て行った。


(待って。私はオリオール暦1135年の5月に辺境の地にある修道院に向かっていたはずなのに……!)


 信じられないことが自分の身に起きているようだ。一体どういうことなのか、と考えを巡らせたエステルはある禁呪の存在に思い至る。


(……そういえば、死に戻りの魔法があると聞いたことがあるわ)


 それは、シャルリエ伯爵家が持つ光属性の魔法よりも希少な『闇属性』魔法によるもの。けれど、エステルは光属性持ちのはずだし、何よりも高度な魔法が扱えるほどの魔力は持っていない。


 しかし、今はそんなに複雑なことを考えている時間はなかった。


(偶然なのか、理由はわからないけれど……)


「えっと、とりあえず……同じ目に遭いたくない……!?」


 一秒でも早く、ここから逃げ出さなくてはいけなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る