第5話 プレビュー②
三番目、つまり紗耶香の選定した最後の特許は移植用の再生組織の構築だった。再生医療の工程としては最後で対象は網膜組織だ。プレビューは一番スムーズに終わった。
「適応範囲は広く、技術的な問題も解決可能に思えました。まず必要な細胞の種類が少なく分化のレシピは確立されています。また網膜は眼球を通じて直接観察が可能な数少ない組織の一つで、移植後に癌化など問題が発生した時も発見及び対処が比較的容易です。例えば最後のデータですが眼球に光を当てて網膜の断面図を得る検査装置によるものですが、これは眼科医院には広く普及しています」
「なるほど、それでいて高齢化とディスプレイダメージで最近増えている失明という大問題を解決できると。これが本命か」
「私の判断としてはそうなります」
単価は高く、市場も規模があり、実用までの困難も既存の技術で克服可能。俺の心理学でも紗耶香の批判的な質問にも動揺することなく丁寧に回答していた。中東、アメリカと経てきた研究者本人の経歴も、所属する京都の研究機関も立派なものだ。iPS細胞を発見した京都大学の研究所の直系らしい。
俺たちが離れた後も、次から次へと参加者が立ち寄っている。衆目の一致する有力なIPと言ったところだろう。株価と同じでこういうのは美人投票だ。自分が美人であると思う人間に入れるのではなく、みんなが美人と思う人間に入れる。
ただそういう意味では……。
「一番人気は3番みたいだが」
会場で一番多くの人間を引き付けているブースをみた。
「老化治療関係ですね。ある意味人類のほぼ全員に関係しますし、極めて大きな価値を持ちます」
「君の候補に入っていない理由は?」
「明確な技術的な欠点があります。現時点では克服不可能な問題を抱えていますから」
「なるほど。見た目は派手だがってやつか」
沙耶香の判断には全幅の信頼を置くが、同時にこれはゲームだ。それも相手が胴元である。奴は研究内容はもとより、この会場の人物の素性や流れなどありとあらゆる情報を抑えている。極端な話上杉の財力を使う吊り上げだって可能だ。
奴の狙いが“ルル”ーシアだった場合、そこら辺の小細工はあり得る。
こんな状況じゃなければルルのSIGINTを使えるのだが。前回のXomeの時みたいに、ルルと紗耶香のスキルが組み合わされば、この手の探索なら無敵に近い。
つまり俺の
その時、紗耶香があるIPに視線を向けていることに気が付いた。
「そう言えば本命以外に他に気になるのがあるといっていたが」
「24番。最後のIPです。再生医療の主流から少し離れた分野なのですが、研究の進め方とその目標に少し惹かれるところがあって」
紗耶香はちらりとあるブースを見た。人っ子一人いないブースに、毅然と立つのは客のほうではないのかと疑うような老人だ。六十歳近い年齢に見える。
「確認するが、高値争いには関係ないIPなんだな」
「はい。そんな場合じゃないのは分かっています」
「…………いや、時間もあるし寄っていこう」
紗耶香のキャラクターが引きつけられているというのなら、俺が判断した3番よりもこちらの方が面白い可能性がある。ディールには強いカードだけじゃなくて多彩なカードがあった方がいい。それに紗耶香の分析が正しければオークションの仕組みを使って3番には対処方法がある。ここは紛れを打って奴の想像力を刺激してやるのも悪くない。
『24:iPS細胞をもちいたアストロモラ症候群のモデル細胞』。
タイトルは当たり前のように理解不能。正面にあるのが脳の図でニューロンらしき細胞の写真もある。神経関連の病気だろうか。ニューロンみたいな細胞の写真もある。
「アストロモラ症候群は脳中心部における細胞死の蓄積が原因で引き起こされる疾患です。病状は長期間かけて進行し、脳の中心の連携機能、つまり大脳新皮質と辺縁系などの連絡が失われることで、感情や知的能力に障害がおこります。現状、根治はもちろん症状を緩和する治療法もありません」
説明をするのは少し薄くなった銀の髪の男性研究者だ。紗耶香に少し驚いた後は、自然体で説明をしている。ちなみに経歴は凄い、工学博士と理学博士の両方を持っている。工学者として半導体メーカーで研究した後、定年後に理学博士号を取り直している。
さっきまでの三人はもっと押しが強い感じだった。ただ、柔和な中にも一種の使命感のようなものを感じる力強い話し方だ。
肝心の内容だが、俺の理解する限り、脳の中で特定の細胞が死んでいく病気の病理モデル細胞だという。モデル細胞というのはこれまでにないパターンだ。紗耶香が言っていた主流じゃないというのはこの
「我々は患者から提供された細胞からiPS細胞を樹立し、そこから様々な脳内の細胞を分化させました。その結果、ある種類のグリア細胞が顕著な
「ニューロンではなく、グリアなのですね」
「そうです。このグリア細胞の分布は、アストロモラ症候群の症状と一致しています。私はこれをアストロモラ症候群の病理モデル細胞として特許を取得しました」
枝分かれした木のような細胞、素人目には
「このαΘグリアは十年前に発見されたグリアのタイプですね。分化条件などの詳細はまだわかっていなかったはずですが、遺伝子発現パターンや細胞の機能が正確に一致していますね」
「はい。それが独自技術と評価された結果の特許取得です」
紗耶香の質問にきちんと答えている。技術としての達成度は問題なさそうだ。ならなぜ選外なのか?
「アストロモラ症候群は稀少疾患です。患者数は全世界でも百人程度。失礼ですが商業展開を考えたときに経済的に成り立たないと思います」
紗耶香は俺をちらっと見てから質問した。
「アストロモラ症候群は遺伝的な疾患だと言われていますが、実際には公害病に近い。遺伝的要素と化学物質が組み合わさって発症のトリガーを引くことで発症します。つまり、ある化学物質に暴露された人間の中で、ごく少数の感受性の高い遺伝的資質を持った人間だけが被害を受けるのです。この病気の発見が遅れた理由です」
男は化学式を一つ表示した。
「球面半導体の初期に用いられた化合物……現在は毒物指定されて……。ですが代替品が開発されているのですね」
沙耶香が少し体を前に倒した。彼女にも専門外のようだ。
「その通りです。今後患者が増えることはないのは良いことです。ですが、一度発症した患者はその経済的価値のなさから放置されているに等しい。我々が研究に用いさせていただいたiPS細胞の提供者もすでに亡くなっています。自分には間に合わないことは重々承知で提供いただいたものです」
男はまるで悼むように背後の写真を見てから、口を開く。
「ちなみにこの化合物を開発したのは私です」
静かな意志が見える。信用ロールなど必要ないくらいの真摯なものだ。紗耶香は一瞬共感したように頷いたが、すぐに表情を改める。
「実際にあなたが作ったのは移植用ではなく疾患モデル細胞です。直接の治療に結びつかないのではないでしょうか」
こういうところが彼女の頼もしさだ。情は情として、科学者としての客観的な視点は失わない。
「再生医療の技術進歩にもかかわらずiPS細胞の移植には生産と品質管理に巨額の費用が掛かります。脳内となればなおさら。経済的な理由からこの疾患に用いることは非現実的でしょう。このモデル細胞により実現したいのは既存の薬剤のテストです」
「つまり、
「はい。再生医療に比べてスピードもコストもけた違いに小さくなります。この疾患を現実的に解決するためには、この方法しかないと思っています」
やっと理解できた。要するに特定の遺伝的資質をもった人間が特定の化合物にさらされることで発症する超珍しい病気だから、治療法の研究も簡単じゃない。だから実際に発症した患者の細胞からiPS細胞を作り出して、そのiPS細胞から病気の症状を示すグリア細胞を生み出して、研究材料に使う。
そのモデル細胞は患者の遺伝的資質を引き継いでいる。つまり細胞死が抑えられるような薬があれば、症状を抑えたり発症を防いだり出来るというわけだ。
そしてすでに販売されている薬なら、許認可などの費用や時間も最低限で済むと。
なるほど最初に聞いたiPS細胞の性質を使えば、こう言ったアプローチも可能なのかとやっと理解できた。
金にならない稀少疾患に対して、きちんとした技術的な基盤と、現実的な計画で達成可能な治療方法を目指す。その姿勢自体は信頼を感じる。贖罪めいた動機だが、やり方に幻想がないのは俺としても好感を持てる。
だが、IPとしての価値は小さいと判断せざるを得ない。どれだけ効率的であろうと市場が決定的に小さいのはどうしようもない。上杉がどうしてこのIPを参加させているのか理解に苦しむくらいだ。
「問題としては、私の開発したレシピを持っても、いまだ分化効率が悪いため、十分に純化されたグリアを得るために時間とコストがかかることです」
「なるほど。確かに膨大な既存薬剤のテストとなれば安定した品質と量は必須ですね」
紗耶香が質問する前に、男は自ら問題を口にした。紗耶香はじっと男の後ろにある研究結果を見る。そして、さっと髪の毛を掻き上げた。
『すいません、この研究に一つアドバイスをしたいのですが、良いでしょうか』
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