第3話 再生医療

「再生医療はある意味で究極の医療です。従来の医療が体の組織や器官を修復する、あるいは悪化を防ぐことだとしたら、再生医療は健康な組織に入れ替えることが可能となります」


 甲板から船内にもどりながら紗耶香の説明を聞く。


「その中心となるのが万能幹細胞です。これはいわば組織を作るための共通材料です。体外で無限に増えることが出来る無限増殖能と、体のありとあらゆる細胞に分化できるポテンシャルを持つことがその定義です」

「人間の体は細胞からできているんだから、万能幹細胞さえあれば何でも作れるわけだ」


 俺のレベルの理解では、人体はいろいろな種類の細胞が組み合わさってできた、いわばレゴブロックのようなものだ。無限に増やせて、どんな形にも変わるブロックがあればいいのは分かる。


「万能幹細胞として最初に発見されたのが胚性幹ES細胞と呼ばれる細胞です。これは受精卵からの胚発生最初期にある細胞です。この段階の胚は内側と外側の2種類の細胞に分かれているのですが内部が将来の人間の体を作る細胞です。この内部細胞塊を取り出して培養すると無限に増殖すると共に、条件次第で様々な細胞に分化する能力を保つことが分かったのです」

「……なるほど。人間の体の始原状態って感じか。再生医療っていうと、作った臓器を移植するみたいなイメージだったけど、実際には人間が生まれる過程をなぞるようなものなのか」

「はい。受精卵から人間の体が作られるまでを研究するのが発生生物学ですが、再生医療はこの発生生物学と不可分の関係にあります。以前ヒストンコードの話をしましたよね」

「ああ、確か遺伝情報、DNAは一緒だけどそのDNAにメチル化、だったかで修飾することで、どの遺伝子が働くかのパターンが決まるって話だったか」


 古城舞奈は遺伝コードとヒストンコードの二つの要素、実際にはその複合により実験対象として選ばれる資質を持っていた。


「発生課程でいろいろな種類の細胞に分化するというのは、DNA配列の変化ではなく、メチル化による修飾を含むヒストンコードの変化です。乱暴に言えば、そのヒストンコードの特殊化が起こる前の初期状態の細胞がES細胞ということになります」


 沙耶香は「実際にはES細胞でもメチル化は起こっていますが」と付け加える。中学高校で習ったカエルの発生課程の分子レベルでの詳細が、究極の医療と結びつくと。難しいわけだ。


「ですがこの細胞は受精卵からしか取れません。これが大きな倫理的、技術的な障害となります。まず倫理的には、将来人間になりうる受精卵を破壊しなければ得られないこと。実用的には、自分自身のES細胞を得ることが事実上不可能なことです」

「確かにそうだな。病気になった後、受精卵まで戻れと言われても困る」

「この問題を解決したのが、もう一つの万能幹細胞であるiPS細胞です。これはすでに分化しきった細胞を未分化なES細胞に近い状態に戻すことが出来ます。例えば皮膚の細胞のように」


 沙耶香は張りのある白い肌を摘んで見せた。再生医療とか関係なくフレッシュなわけだが、そんなセクハラ男のロールプレイはできない、断じて。


「つまり治療したい患者の細胞を採取して作ることが出来るのがiPS細胞と……そう言えば聞いたことがあるな。確か日本人が作ったってやつじゃないか」

「はい。山中伸弥先生の成果です。iPS細胞は既に特定の細胞に分化した細胞に四つの遺伝子を導入することで作られます。たった4つの遺伝子で、多くの分化した細胞が未分化な状態に、分かりやすく言えばヒストンコードのリセットが行われるという大発見でした」

「なるほど、あの時のメチル化の配列を見た身としては、あんなレベルでいろいろ修飾されたヒストンコードを最初の状態にリセットする手段があるのは、確かに驚きだ」


 ES細胞が生まれなおしなら、iPS細胞細胞は若返りってわけだ。


「この発見自体が純粋に生物学的に見ても極めて重要なものです。iPS細胞が、再生医療の実用段階に手を触れられてもいない、発見から数年でノーベル賞受賞に至ったのはこのためです。発表された時点で将来受賞することを誰もが確信していたレベルの発見です」


 議論の余地なく第一級の生物学的発見か。この場合の“誰もが確信していた”の誰もは専門家ならという条件が付くだろうけど。まあ、応用的に見てもiPS細胞の圧勝に見える。日本人びいき関係なく。


「再生医療との関係について説明してくれ。」


 紗耶香を促す。この場で「iPS細胞? そう言えば聞いたことがある」なんてアホなことを言っているのは俺だけだろう。前回の学会では光るクラゲがどうしてノーベル賞といっていたら、そのクラゲ遺伝子が、超高性能の生物工学センサーになるという、とんでもないレベルの探索をやらされた。


「iPS細胞には一つ問題がありました。iPS細胞を作り出すために導入する四つの遺伝子を山中因子といいますが、これはもともと奇形腫と呼ばれる特殊な癌の研究に由来するのです」

「奇形腫?」


 TRPGの敵キャラみたいなのが出てきた。


「癌の一種なのですが、癌組織の中に骨や皮膚や神経など、ありとあらゆる細胞が生まれる特殊なものです。つまり万能幹細胞に近い性質を持つ癌ということですね。山中先生はこの奇形腫に関係することがわかっている二十四の遺伝子の中から、本質的に重要な遺伝子を四つ選別して、それによって正常な細胞を万能幹細胞に変化させることが可能だと示したのです」

「つまり下手したら健康な組織を作るどころか、ガン細胞のもとを移植する可能性があると」

「はい。もともと幹細胞と癌細胞は無限増殖という意味で共通点があります。さらに言えば最初に発見された山中因子の一つであるc-Mycは強力な癌遺伝子です。また遺伝子を導入することから、それ自体がDNAを変質させる危険性があります。実はこの点は現在ではほぼ克服されていますが、実用という意味ではいまだ重要なので覚えておいてください」

「わかった。問題はあるが人間の体を再生するための万能の材料は手に入ったわけだ。でも、再生医療は確か未だその多くが研究途上じゃなかったか?」

「はい。皮膚のような単純な組織の再生という意味ではすでに成功例が出ていますが、内臓のような内部の複雑な組織の再生は未だ道半ばです。患者からiPS細胞を得るまでは比較的容易ですがそれを大量に培養する、組織として構築するなどの過程で様々な技術的な進歩が必要になります」

「実現できれば究極で万能の治療法だけど、現時点では多くの課題がある。となるとこのオークションに出されているIPはそう言った問題へのアプローチということか」

「そういうことです」


 再生医療のための大まかな流れの中にあってのここでオークションされる特許の位置が大体理解できた。これでやっと前提知識とは先が思いやられる。


「次は具体的なこれからの行動方針だな。午後からのオークションの前に、まずはお披露目であるプレビューがあるんだったな」


 このIPオークションはプレビューと本番であるオークションの二段階で行われる。基本的には美術品なんかのオークションと同じだ。


「プレビューはあの時の学会に近いものと思えばいいのか」

「そうですね。学会の発表と企業ブースの展示の中間と言ったところでしょうか」


 なるほど研究と商業の中間か。その不確定性が知的なギャンブルになるわけだ。そして俺たちにとっては葛城早馬からのテストと。


「カタログによると出品されるIPは二十四です」

「ずいぶん少ないな」

「今回は分野が絞られているのと、すべて特許取得済みの研究ですから。上杉がオークションを主催出来るのは多国籍製薬企業としての信用があってこそです。特許が経済的な価値を持つ可能性は決して高くありません」


 単なるアイデアではなく、実際に研究を行い、その成果が特許と認められても、商業ベースに乗るのは難しい。メディアを賑わした大発見が、その後音沙汰なしなんて珍しくもないか。


「あくまで経済的な観点から見た場合、研究の価値というのはどうやって決まるんだ?」

「その研究によって解決可能な問題の大きさと、その対象範囲の広さです」

「つまり単価と市場規模ということか」


 例えば世界に患者が一人しかいない命に係わる難病の治療法は、問題の大きさという意味では大きいが、客は一人しかいない。一方、例えば薄毛治療のように放置しても命に全く関係ないが、人類の半数に必要とされる技術もある。


 葛城早馬はそこら辺も含めて最大の情報を握っているわけだ。これはなかなかきつい。


「わかった。基本的にプレビューでの質問は紗耶香に任せる。ただ一つだけ注文がある。研究者にとって痛いところをついてほしい」

「つまり批判的な視点でということでしょうか」

「そう。研究者として君が認識した技術や理論の問題点について指摘してほしい」

「あくまで正当な批判や疑問という観点でいいのですか?」

「もちろんだ。それが紗耶香の技能を最大限生かす方法だからな」


 当たり前だが、俺の知識では高度な最先端研究の欠点なんて分からない。誰もがアピールポイントは積極的に説明するだろうから問題は欠点だというのもあるが、俺の担当であるHUMINTという意味では、研究者の人間性が対象になる。


「ちなみにどこまで絞れている?」

「私の判断では有望そうなのは三つです。後は少し気になるのが二つ、いえ一つですね」

「よし、その三つを中心にプレビューを見ていこう」


 相変わらず難解な探索の開始だ。救いはパートナーの技能が最大値なことだが。

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