第10話 エリート同士
「高峰君。間に合ってよかった。この前のオファーの話をしたいんだ」
二階スタンドに向かおうとした俺達の前に立ったのは、白いスーツの優男だった。年齢は俺より少し上、二十代半ばくらいか。明るい栗色の髪の、科学者というより二枚目俳優のような容姿の男だ。参加証には葛城早馬という名前、横には上杉のロゴが入っている。ブースにある子会社のものではなく、本社のロゴだ。
「その件はお断りしたはずです。上杉なら人材に苦労はしないでしょう」
「僕の直轄プロジェクトだからね。その程度の人材では足りないのさ。君のキャリアにとっても意味ある役割をアサインさせてもらう。もちろん、待遇は僕がCEOに掛け合って相応しいものを約束するよ」
切り上げようとする高峰沙耶香を前に、男は滔々と語る。二十歳半ばで上杉のトップに直訴できる男と、そのオファーを蹴る十七歳の大学生。まさしく創造経済のエリートの世界だな。
ちなみに男は高峰沙耶香の隣にいる俺は眼中にないらしい。それ自体はどうでもいい、いや望ましいくらいだ。問題は、このあからさまな態度が別の意図を隠していた場合。
俺の立場としては万が一を警戒しなければならない。つまり、こいつがシンジケート関係者という可能性だ。
そうだな、この距離なら見ることも可能か……。
俺は動きを止め、男の頭部に注目した。灰色になった視界。網膜に映る見えない光を凝視する。
「ちょうどランチタイムだ。うちの控室で食事をしながら契約の話をしないか?」
「以前も言いましたが今は他のプロジェクトにコミットする余裕はありません。自分の研究だけで手いっぱいですので」
「研究というと、クオリアの理論を神経生物学上に構築するというやつかな」
「……ええ、そうですが」
「野心的な目標であるのは認めるよ。でも、最近の君の
「…………まだ半年です。いえ、今そのことを議論するつもりは。私は別の――」
「一つの問題に見切りをつけるには十分な時間だ」
両手を広げてしゃべる男の頭部に異常はなし。そういう意味では警戒の必要はないようだ。話を聞く限り目的はやはり高峰沙耶香で間違いないようだしな。
「組織の時代が終わって個人の時代になったと言われる。確かにもはや組織内分業、あるいは組織間分業の時代じゃない。だが、科学技術の分野では個人で出来ることは限られる。今は組織と優れた個人による有機的チームの時代なんだ。君のような優秀な才能の持ち主こそ、大きなプロジェクトに参加すべきだよ」
なるほど、こういうのがSEAMのM《マネージメント》というやつか。突出した才能を組織する管理者。特別な才能を持たない人間の希望だ。
「そもそも僕の考えではクオリア概念は幻、疑似問題だよ。解けない、いや存在しない問題に固執するのは才能の浪費だ」
「っ! 私が何を研究するかは…………それは私の……」
うつむいた高峰沙耶香が耐えるようにこぶしを握ったのが見えた。
いくらなんでもしつこいな。いや、これは彼女の問題だ。断ろうとしているのだから、任せるのが冷静な対応だ。俺がしゃしゃり出ることで事態を悪化させたら……。
そう考えた時、ブースの奥からのこちらを覗う視線に気が付いた。恐る恐ると言った感じで、美男美女のやり取りを見ている女性スタッフ。
なるほど、そういうことか。ならば……
「
「相手の才能を認めているなら、その意志も尊重したらどうだ」
俺は爬虫類めいた眼光を遮るように、優男の前に出た。
「なにかな、君は?」
「ここに取材に来たフリージャーナリストの黒崎亨だ。彼女の現在の仕事のパートナーと言ったところだ」
「フリージャーナリスト? ほう、学会までわざわざ取材とは感心じゃないか」
セリフと同時に男の口角がくいっと上がった。IDからジャーナリストとしての
こちらに向くのは路傍の石への視線だ。普段の自分、なら彼の名札に表示される
俺が恐れるのはもっと別のことだ。一つは時間が限られていること。そしてもう一つは……。
「お察しの通りしがないブロガーもどきだ。それでも道理を忠告するくらいはできる。なにより今はこちらが先約だ。どうも先ほどから時間の大切さについて説いていたようだが?」
一瞬で葛城早馬の表情が歪んだ。俺を睨む目は、私とお前の時間は同価値ではないといっている。砂金の砂時計を持つエリートと、文字通りの砂の数ほどいる凡人。自分が特権階級と信じて疑わない態度だな。
だから? こいつがどんな
それが黒崎亨の
「アマチュアが場違いな場所で、見当ちがいなことを言っているとは思わないかな?」
「ここの参加資格にプロ限定はなかったのでね。そちらこそパーティーの相手は別の場所で見繕ったらどうだ?」
視線の圧力が増す中、俺は平然とエリートを見返してみせる。そもそも、今の俺の状況で”ただのエリート“にビビってる余裕はないんだよな。
小さな舌打ちと共に圧力が消えた。
「君の仕事を邪魔するわけにはいかないね。今日の所は引かせてもらおう」
葛城早馬は高峰沙耶香に振り返ると、そう言った。すっかり優男に相応しい表情にもどっている。そして彼は、俺には視線もくれずに踵を返した。自分が相手をするのはあくまで同じ階層の人間だけというわけだ。
ある意味では一貫した
「すみません。私が切り上げさせるべきだったのに」
「いや、今のも仕事の一部だよ。ほら」
目でブースを指した。女性スタッフが無言で通り過ぎる葛城早馬に慌てて頭を下げている。ここに入ったときに高峰沙耶香に対応していた女性だ。本社幹部ご執心の人材が
「君がベストの仕事をしたことが、このストーカートラブルにつながったということだ。なら俺が対処しても不思議はない。何しろ」
すまなそうな表情の女の子に、俺は小さく肩をすくめてから付け加える。
「君と違って上杉がクライアントになる可能性なんて欠片もないからね」
「ふふっ、本当にそうでしょうか」
高峰沙耶香はやっと表情を緩めた。
俺は改めて彼女とスタンドに上がった。会場を見渡せるスタンド席の中段に二人で並んで座る。
「次は取材対象を決めるということでしたね。……そういえばポスターである理由は何でしょう? 一般的に注目を集める研究は口頭で発表されますが」
「無名ジャーナリストの“記事”には掘り出し物が必要だ。マイナー結構。未来のGFPが埋もれているかもしれないだろ」
「掘り出せればそうですね」
「そこは優秀なアドバイザーにも期待しているんだが」
「もちろん、仕事はきちんとしますよ」
なんか、態度が少し柔らかくなっている気が……。いや、とにかく仕事だ。
高峰沙耶香の優秀さはさっきので十分わかった。もしも、
当然却下だ。ニューロトリオンなどという“非科学”を持ち出すわけにはいかないというのもあるが、機密保持の第一原則は知る人間をなるべく少なくすることだ。彼女がニューロトリオンの存在に万が一にも近づき、そこからシンジケートに漏れたらシナリオ難易度が跳ね上がる。
したがって、彼女にはあくまで“生物学”のアドバイザーに徹してもらう。
改めてテックグラスにRM《ルル》からの
ターゲットは後三十分と少しで始まる午後のポスター発表の、三百を超える研究の中にある、たった一つの遺伝子。そして、ヒントは単位すらついていない無機質な三桁の数字が三つ。
『394―496ー632』
文字通り取り付く島もない。だが、この
この数字は、蛍光タンパクに関わる光の波長ではないか、その直感を今から確認するのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます