第9話 光るクラゲの照らす世界(後半)
どうぞ召し上がれと言わんばかりに、白く綺麗な手が、新しい
「色々な色に光る核が見える。さっきと同じ緑が一番多くて……、赤がちらほら……、ごくまれに黄色、という感じかな」
「その認識であっています。この細胞にはGFPだけでなくRFPも組み込まれています」
「GFPはともかくRFP?」
「Red Fluorescent Protein。赤色蛍光タンパク質です。珊瑚から見つかった蛍光タンパクで584 nmの赤い蛍光を発します」
「そういえば、蛍光タンパクも色々あるんだったか。じゃあ黄色はYFPかな」
「YFPという蛍光タンパク質も存在しますが、これは違います。GFP《みどり》とRFP《あか》が同時に光ることで、結果として黄色く見えています」
「なるほど。つまり、ここにはGFPだけが入った細胞と、RFPが入った細胞、そして両方が入った細胞があるということか」
「いいえ。いま黒崎さんが見ている細胞はすべて同じもので、GFPとRFPが組み込まれています。色の違いを生んでいるのは細胞周期です」
「細胞周期というと、細胞が分裂する過程のことだったか」
「はい。まず細胞周期は分裂の前である『G1期』と分裂の過程である『S期、G2期、M期』の二つに分けられます」
「G1期にS、G2、M……。習った気はするが……」
「細胞に分裂するつもりのないのが『G1期』。細胞が分裂の準備を始めてから終わるまでが残りということだけ理解してもらえば問題ありません。この細胞に導入されたGFPとRFPはそれぞれの時期で特異的に働く
テックグラスに『Cdt1-GFP』と『Geminin-RFP』の二つの立体模型が表示された。それぞれ異なる形のタンパク質の尻尾に、緑と赤に塗られた蛍光タンパクがくっ付いている。要するにCdt1とGemininという二種類のタンパク質が、二種類の蛍光タンパク質により、緑と赤に色付けされているということだ。
「この『Cdt1-GFP』と『Geminin-RFP』は細胞の中で常に転写、翻訳され続けています」
「つまり、細胞周期に関係なく、常に作られているわけだな。…………なら全ての細胞の核が赤と緑の蛍光を両方持つ、つまり、黄色に光ることにならないか?」
「理解が早くて助かります。そうならない理由はこの二つのタンパク質が、細胞周期の時期により特異的に分解されるからです。細胞が分裂するつもりのないG1期にはGemininだけが分解され、Cdt1が量的に優位になります。一方、細胞が分裂を始めようとするとCdt1が分解され始めて、Gemininが優位になるのです」
「んっ? 分解されるのは『Cdt1』とか『Geminin』部分だけじゃないのか?」
「タンパク質分解はタンパク質単位で行われます。融合している蛍光タンパクごと分解機構に送られるのです」
発信機の付いた物体がごみ焼却炉に放り込まれたら、発信機ごと焼かれるということか。
「要するに、細胞分裂するかしないかを巡ってCdt1とGemininという二つのタンパク質が勢力争いをしていて、これはそのどちらの勢力が強いかを緑と赤の蛍光で見ているということでいいのかな。そうなると、少しだけある黄色の核は、二つのタンパクが拮抗しているということか。実際には赤から緑への変わり目と、緑から赤への変わり目の二通りあることになるかな」
「…………ええ、その理解で構いません。では、こちらの画面を見てください。この細胞を数時間録画したものを十秒一コマで早送りしています。真ん中のこの一つの細胞に着目してください」
顕微鏡から目を離し、顕微鏡に備え付けの液晶画面を見る。今まで見ていたのと同じ細胞がゆっくりと色を変えていく動画が再生された。
一番多い緑色の細胞核をもった細胞の中の一つが、徐々に緑から黄色に色を変え始める。そしてその黄色は赤みを帯び始め、やがて真っ赤になったところで核が分裂を始めた。赤い染色体が二つに分配され、赤い細胞核を持つ二つの核が作られ、そして最後に細胞自身が二つに分裂した。二つの細胞の核は赤が薄まり黄色を経て緑色にもどった。
こうして見せられると確かに周期だな。細胞がDNAを合成して、染色体を形成して、分裂するだったか。学校で習った時には複雑で理解不可能に見えた
「このように、蛍光タンパク質を使うことで様々な複雑な生命現象を生きたまま、分子レベルで、そしてリアルタイムに観察することが可能になります。そして、その為にはそれ自体が遺伝子であり、かつ単独で蛍光を発する『蛍光タンパク』が重要なのです」
高峰沙耶香の口から、バイオイメージングの定義と蛍光タンパク質の重要性が繰り返される。先ほどは抽象的に感じたが、今回は実態を持った情報として頭に入ってきた。
「理解できた、と思う。つまり、GFPの発見は単に、光る珍しいタンパク質を見つけたっていう意味じゃないということだな。生物学の研究のための、新しい分野を「丸々一つ」作りだした。そういうことだ」
詰め込まれた知識の量がきついことになっているが、実際に目で見たことで辛うじて理解できた。部屋の窓が開いて、外の光景が見えるようになったとでもいおうか。
とはいえ、その光景の中で目的地への道が開けたという感覚ではない。むしろ反対と言っていい。
生命が遺伝子という部品で構成されていて、科学はその遺伝子をいとも簡単に操作する。漠然と知っていたバイオテクノロジーという
まいったな。俺の『ターゲット』は最低でもこのレベルの話か。見えてくれば見えてくるだけ、これからの“未知”の険しさ、遠さが分かるタイプの謎だ。やっぱりテストシナリオなんて生易しいものではないぞ、RM。
「ただし、GFPの発見者である下村博士は『バイオイメージング』を作ろうとしてGFPを研究したわけではありません」
「んっ、どういうことだ?」
「先ほどGFPの価値は遺伝子であることを説明しましたよね」
「ああ。遺伝子だからこそありとあらゆる生物の、ありとあらゆる遺伝子をモニターするのに使える、だったな」
「そうです。ですが下村博士がGFPタンパクを発見したのは1962年。まだ遺伝子を扱う技術が皆無と言っていい時代です。実際、GFP遺伝子が単離されたのは博士の発見から三十年後です」
「三十年後?」
「当時は遺伝子操作に現在とは比べ物にならないほどの時間がかかりましたから。チャルフィー博士がGFP遺伝子を大腸菌に導入して光らせることに成功したり、チェン博士がGFPを元に様々な色の蛍光タンパクを作成したのは、そのさらに後です。これらの研究が合わさり、今見ていただいたような蛍光タンパクによるバイオイメージングが可能になったのです。ちなみに下村博士を含めたこの三人がノーベル賞を受賞したのは2008年です」
「つまり、最初の発見から約五十年後か……」
「下村博士はクラゲの光がGFPというタンパク質であることを発見。またGFPがタンパク質単体で紫外線により蛍光を発することも突き止めています。この二つの性質はGFPが、いえ蛍光タンパクがバイオイメージングツールとして活用されるうえで決定的に重要でした。ですが……」
「なるほど。博士の業績は本当の意味で「光る
「そういうことなのでしょうね。純粋に面白い生命現象を解明しようとした研究が、生物学全体に影響を与える。科学の理想の姿かもしれない……」
高峰沙耶香の言葉は、最後には独り言のようなつぶやきになった。どこか遠くを見るような彼女の横顔は、何かに憧れるような、あるいはうらやむような、しいて言うなら彼女が初めて見せた年相応の感情に見えた。
『アレクサンダー・メダル』といういわば天才の称号を持つこの子が、高校生の年齢だということをいまさらならが思い出す。半世紀たってその業績を表彰された科学者の営み語る、十七歳で称号や特許収入を持つに至った少女。
考えて見れば『突出した才能』とはキャラクターシートに最初から凄まじい
そんなキャラクターが、効率とスピードを強制される
「あと一時間ですね。次は午後の演題から取材対象の絞り込み、でしたね。そちらに移っても?」
「……そうだな。ここまでは問題ない。そうしよう」
高峰沙耶香からは、先ほど一瞬だけこぼれた感情は消えていた。俺は心の中で頭を振って雑念を払った。天才の思考なんて俺に理解できるものでもあるまい。
俺はまだ、ターゲットの情報が存在する『文脈』、を知っただけだ。300を超える演題からターゲットである『遺伝子配列』を絞り込む。これから待っているその仕事は、今の『
俺の密偵としての能力が直接試されるのはこれからと言っていい。
心もとない話だ。だが、俺もただ生物学の講義を聞いていたわけじゃない。ここまでに獲得した基本情報からヒントである『
バイオイメージングというこの場の『文脈』から考えて、この数字は光の色、つまり波長を示しているのではないかという『仮定』だ。
もちろん、素人の仮定にすぎない。だが、俺に足りない
ビジネスライクな表情にもどっている十七歳のスーツの娘。最初は傲慢なエリートかと警戒したが、高峰沙耶香は極めて優秀なアドバイザーだ。
何も知らない俺には、実物を見せるしかないと考えてここに連れてきたその選択。実際に自分の目で見ながら説明を聞かなければ、この短時間で俺が文脈を掴むことなどまず不可能だっただろう。
それだけではない、彼女は基本的に中学校の理科のレベルをベースに説明を組み立てて見せた。俺が素人であることが第一の理由だろうが、自分が高校を一年で駆け抜けた、つまり普通の人間が高校で何を習うのかを把握していないことを考慮したのではないだろうか。
探索において信頼できる情報提供者ほど重要なものはない。彼女がそうだと分かったことが、この最初の
俺はこの二つを用いて、目的である『遺伝子配列』が含まれそうな演題を絞り込む。その為には……。
「とりあえず場所を移動しよう。そうだな、あそこがいい」
ホールを取り囲む二階のスタンド席を見上げた。あそこからならちょうど会場が一望できるだろう。
俺が彼女にスタンドへの階段を指さし、そしてブースを出ようとした時だった。
「高峰君。間に合ってよかった。この前のオファーの話をしたいんだ」
こちらに向かって手を振る白いスーツの男性が現れた。
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参考文献:
細胞周期インディケータFucci ―細胞周期を多角的に理解する―
阪上―沢野朝子,宮脇敦史〔生化学第84巻第1号,pp.47―52,2012〕
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