第7話 エリートの祭典(前半)
受付の端末に無言でリングをかざした。持ち主の気も知らずあっさり認証された。受付に座る女性が透明ケースに入ったカードを渡してくれる。
「会場ではこの名札を付けてください。中のチップには演題の目録も記録されています」
「……ありがとう」
名札に書かれた氏名は当然『黒崎亨』だ。職業は『ジャーナリスト』。所属は無しのいわゆるフリージャーナリストだ。現代舞台のTRPGなら最も使い勝手がいい肩書の一つで、情報収集特化というシナリオの目的とも一致する。
俺は黒崎亨。普段はフリージャーナリストとして経済関係の取材をしている。今回はたまたま知り合った酔狂な大金持ちの依頼で小遣い稼ぎをする事になった。
やれることはあくまで情報収集だけ。戦闘とかはしない。Rules of the Deeplayerの『世界観』の中では可能な限り普通で、取るに足らない存在になるように
表から見る限り、普通のジャーナリストの枠を超える行動は一切しない、安全で無害な存在だ。ちょっとだけ世界の深層を垣間見ようとしているが、あくまで取材だ。
キャラ設定を改めて頭に叩き込む。
…………普通のジャーナリスト。映画とかなら好奇心丸出しで危険に首を突っ込み、真っ先に死ぬ役回りだな。
今の状況がどちらに近いか考えないことにする。
受付から離れて、エスカレーター下の人目につかない席に座った。参加証のホログラムコードをテックグラスに読み込む。表示されたのは、看板と同じカラフルな表紙の『学会要旨集』だ。目次には「開催の辞」「演題目録」「スケジュール」「会場図」という項目が並ぶ。
高度に知的な遠足のしおりだ。最初は主催者の挨拶だ。大学教授、企業の技術顧問、さらに日本科学技術会議の参与。どれが一番偉いのかわからない肩書インフレの男の写真の横に並ぶ文章を読む。
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一般的にはバイオイメージング(BI)と呼ばれる本分野の誕生に、日本人研究者が極めて重要な貢献をしたことは皆さんご存知の通りです。今から約七十年前の下村博士によるGFPの発見は、現在のバイオイメージングの基盤を開く……。
…………
特に近年の注目分野としては細胞内シグナル伝達の一分子レベルの解明、ガンの不均一性の視覚化、神経活動のリアルタイムモニタリングなどがあげられ……。
…………
本学会はバイオイメージングの技術的発展と、それを用いた生命研究の進歩を研究者、企業、そして将来を担う学生と共有することを目的として開催されます。特に若い皆さんは大いに刺激を受け、積極的に議論に参加していただくことを期待します。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
専門用語を使わないと死ぬのかこいつは。俺は参加者の中では若い方だと思うが、お呼びではないということだけはわかった。収穫は以上。
次は『演題目録』。学会で発表される研究のリストらしい。三日間で総数1000以上、二日目の今日だけで300以上の研究が発表されるようだ。これ一つ一つが新しい科学的発見だっていうことか? 道理で世の中がどんどん発展するはずだ。
ともかくこの中の一つが俺の、そして敵であるシンジケートのターゲットということになるわけだな。
試しに001番を選択してみる。三段落ほどの英文が表示され、瞬きの間に日本語に翻訳された。
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BMPシグナル伝達は多細胞動物の発生過程で共通して重要なモルフォゲンですが。その濃度勾配のリアルタイムでの変動については、受容体の逆勾配やリン酸化Madの細胞内のターンオーバーなど複雑な……。
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一段落が終わらないうちにポップアップを消した。さっきの「ご挨拶」は少なくとも最初と最後は意味が分かったが、これは最初の一文から全力で拒否してくる。専門用語以外を使ったら死ぬ勢いだ。002番、003番と見たが状況は同じだった。ダメ押しで100番を見てみるが、数式は日本語訳されないのであきらめた。
考えてみれば『バイオモニタリング』が何なのかわからない。いや、そもそも学会が何をするところなのかも知らない。この状態で何を“取材”できるだろうか。全く知らない場所で全く経験ない
ちなみにルールブックのスキルに知識系は一つもない。「RM《マスター》、【知識スキル(生物学)】でロールしたい。目標値は幾つだ?」は出来ないのだ。現実の学会でリアルINT《ちのう》の素振りは無茶振り過ぎる。
遠足なんて生易しい物じゃなかった。これは登山だ。それもプロ御用達で専門技能がないと遭難必至の高山の。
暗澹たる気持ちでページを進めると『会場案内図』がでた。仕方がない、MAP確認のつもりで一通り巡ってみるか。足で稼ぐというやつだ。少なくともここで専門用語の塊を見てるよりはましだろう。
俺は立ち上がってエレベーターに向かった。
◇ ◇
「流石は学術集会様といったところか」
黒い液面からのぼる白い湯気がため息で吹き飛んだ。
一時間後、チカチカする目と頭を抱えた僕は、喫茶店に座っていた。知的な遠足もとい登山の疲れだ。完全に遭難した状況で、おまけに知的な高山病も発症している。
逃げるように腰を下ろしたここも、憩いの場ではなかった。学会会場であるビルとホールの間にあるこの喫茶店、その客が交わしている会話は当たり前のように専門家のそれなのだ。飲食店でハエや鼠、あげく大腸菌の話をするのは営業妨害じゃないらしい。
周囲の人間たちのとの
真っ黒な液体を見つめながら、さっきまで居た暗い部屋のことを反芻する。
照明の落ちた会議室で発表者がスクリーンに映した映像を前に語り、座席に座る何十人かの聴衆がそれを聞く。形式は大学の講義と似ているし、また話しているのも同じような立場の人間だ。だが、大学の講義は専門家がそうでない人間に教えるものだが、ここで行われているのは専門家が専門家にぶつけるものだった。
映し出される画像や動画は、表の看板のように一見するとカラフルで綺麗だった。赤、緑、青などの様々な色に光る細胞、組織、そして線虫だのハエだの実験動物。とにかくキラキラしたカラフルな写真や動画が次々に映し出されていた。
頭に光ファイバーを何本も突き刺したまま迷路を走るネズミ、はちょっと気持ち悪かったけど。
専門科学というと数字とかグラフばかりだと思っていたが、やたらと視覚的なのは意外だった。もちろん、写真や動画の後に、数字やグラフも山ほど出てきたけどな。
一時間かけてわかったのは、この学会はとにかく生き物を光らせる研究を発表する場であること。その為に使われるのがどうやら『蛍光タンパク』だということだ。最初に見た
そう言えば、高校の理科資料集で同じような写真を見た気がする。光るクラゲの何がすごいのかと思った記憶しかない。
「この中からたった一つの遺伝子を見つけ出せ? 無理だろ」
テックグラスにルルからの依頼書を表示した。今回の仕事の詳細が書いてある。TRPG的に言えばいわゆる『
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